寄生型ミュトス「ヴォル・モスラの妖精達」

その1 ”探索者”と”怪物”

 暗闇から解放される。やっと佐藤の中へ入れたかと思っていると、なぜか私は映画館の客席に座らされていた。動けないようにする対策なのか、手足を拘束されている。前方では巨大なスクリーンに、時代に合わず白黒の映像が流れている。まるで「活動写真」とでも呼ばれていた時代だ。佐藤の精神は数百年前で止まっているのか。

 スクリーンで何の映像が流れているのか確認すると、どこの海外歌手が歌っているか分からない声も聞こえてこない。ただの無声映画だった。しかも、流れているのは当然の権利かのように、私と佐藤の過去の記憶だった。四方を取り囲む壁。これには否が応にも覚えがあった。メリープさんを加えて三人で、アメリカの方へ旅に行った時の記憶だ。

 数年前のことではあるし記憶もあやふやなのだが、あの時、私は水が胃腸に合わなくて酷い下痢に見舞われた。知らない土地の知らないトイレでお腹を痛めながら、「このまま水不足で死ぬのかな」と本気で思っていた。こんなバカの旅に付いて来なければ良かった。その頃はまだ公立の大学にも通えており、ただのフリーターとなってバイトを掛け持ちしている今よりも普段の日常というものに希望を持っていた。今でこそ「バイトはクソ」だと虚無になって働いているが、あの頃はまだ純粋だった。

 そのせいだろうか。佐藤がドアノブを叩く音に対して、「なんでそんなことをするのか」という理不尽な怒りを覚えていた。


『ねぇ、大丈夫?』


 ドア越しに聞こえてくる彼女の声。何も言えずにその場で唸っていると、ノックの音が早くなっていく。心臓のイライラが高まっていくと、ついぞ、耐えられなくなる。


『うるさいっ! お腹が痛いの、どこかへもう消えてよ!』


 思考が混濁していた。痛みで感情のコントロールが上手くできず、ずっと誰かへ感情をぶつけたくなっていた。私の未来はずっと揺らいでいるというのに、このお金持ちの能天気野郎は何があっても未来が保障されている。だから、私みたいな貧乏人に対して優しくしてくるのだ。残機が99ある人間と残機が1しかない人間の隔たりが起こす軋轢を理解していない。こんなやつのことは”嫌い”だ。被害者妄想も甚だしく、今から考えるとなんであれほど憎悪を抱いていたのか分からない。だが、私にとって彼女は強大な悪だった。悪に仕立てることができなければ、私が悪いことになってしまうと怖がっていた。壁に手を当てながら、うなじを流れる汗に気持ち悪さを感じる。

 彼女の足音が遠ざかっていって、ああ、やっと諦めてくれた。邪魔しないでくれた。うんざりだが、安心した。これで私のせいじゃなくなる。彼女が「見捨てた」という事実がある限り、私は被害者になれる。肩を下ろし、さっさとお腹の痛さに向き合おうとした。だが、その時だった。遠くから猛スピードで駆けてくる音が聞こえてきたかと思うと、突然、ドアの上部に二つの手が見える。「よっこらせ」と声が聞こえてきたかと思うと、佐藤の顔が見える。


『やっほー』


 いつもより声に覇気がない。というか、いくらトイレの隙間が広いからって覗いてくるのはやめてほしい。男が女のトイレを覗いてくるのも論外だが、同性でもトイレの中まで覗かれるのは生理的に無理だ。どうにか去っていてほしい気持ちで溢れていたが、ちょうど腹痛と向かい合った所であり、反論する声を出す気力もなかった。

 何も言わない私を見ると、あろうことか、黒い髪を揺らした佐藤は身体を乗り上げてトイレの中へと入って来た。頭おかしいのかと本気で思った。一体他人のプライベート領域にまで不法侵入して、何をしたいのか。彼女の「目」を睨み付けて意思表示をしようとしたが、不意の出来事に「目が丸くなる」という状態に陥った。その時まで彼女はサングラスを付けており、決して目を見ることがなかった。そういうものなのだと思っていたし、お金持ちは趣味でサングラスを付けているという典型的な印象を持っていた。


『その赤……カラコン、じゃないの?』


『カラコン……では、ないかな。どうしてか聞きたい?』


『聞いたら……っ……』


『大丈夫? メリープさんにお白湯持ってきてもらおうか?』


『いらない。お腹が痛いだけだし、下痢は胃腸の内容物を排出したら収まるものdだから……だから……その……』


 そんなことよりも、早急にトイレから出て行ってほしい。そう言いたいのは山々だった。なのに、その「目」を見てしまった私には、彼女へどんな言葉をかけてあげれば「凶器」として傷つけないのか分からなかった。

 あの頃は変な名前が流行っていた。ゲームやアニメのキャラクター、あるいは暴走族みたいな当て字。別に同じ学校だったというわけでもなく、ただ同じバイト先で同じ日にクビとなった事から親交を深めるようになった。だからこそ、この初めての旅においてメリープさんが佐藤のことを「晩杯亜お嬢様」なんて呼び方をしているのを聞いた時、幻聴だと思った。疲れているのだ、と。でも、今この「目」を見た瞬間にその理由が分かった。赤い瞳。これを見せないために彼女はサングラスを付けてきた。だが、サングラスもいつだって着用できるはずもない。「大学生をやっている」という自称していたことからも、学校生活の中において、視力検査なりでその目がバレているはずだ。それで、この名前……となる。日本の学校というコミュニティの性質を考えると、起こっていない方がむしろおかしい。それを裏付けるように、長袖シャツから見える彼女の真っ白な腕には傷跡があった。治安の良くない学校での生活を送ってきた私には、それが何なのかはすぐに理解できた。唇をギュッと噛むと、隣にいる彼女の手を握った。温かくて、人間味があって、あと柔らかい。思ったより強い力で握り返されると痛みで声が出そうになったが、かえってそれが腹痛を軽減してくれた。

 しばらくして、その、”そういうシーン”にまで立ち会われた。肉体から排出した瞬間に「おぉー!」と歓声をあげられたのには、事情があるとはいえ、さすがに羞恥心と怒りが混じった感情に呻いた。それでも、案外悪くないなと思い始める自分がいた。隣にいてくれるだけで、落ち着く。そんな存在。そこで上演は途切れる。手足の拘束が解かれたかと思うと、目の前の光景が吐きそうなほどに歪み、変化し、やがて全く異なる世界へと変わった。



『思考発見――ロゴス・ユーリカ――設定完了。第一のミュトスを開始します』



 その世界を端的に評するなら「悪役の館」だった。私は一番奥にある棺桶の中で眠っていたらしく、西洋チックな赤と黒のマントを羽織っていた。この格好、どこかで見たような気がする。棺桶を開けると、ちょうど部屋のドアの向こうから四人の男女

がやってきた。どれもこれも知らない顔だったが、唯一、一番前で勇者面をしている顔だけは誰か分かった。真っ白な肌に赤髪のロング、そして赤い瞳。


「さっさと帰るよ、佐藤。異世界転移したかっただけなら、もう十分に満足したでしょ? こんな世界にいたら、一緒に旅行……も……」


 笑顔だった。そこには光り輝く刃で、私の心臓を貫こうとした佐藤の姿があった。運良く左手の小指を掠っただけで済んだが、血がドロドロと流れていく。本物の痛みだ。全てがでたらめな世界なのに、この感覚はリアルなのだ。現実世界に戻れた時に指が消えていたら嫌だなと思いつつ、無事な右手で彼女の頸動脈にチョップしてみる。刃が落ちた音が広い部屋に響く。「まさかこんなことになるとは思ってなかった」なんて思いつつも、まぁ夢みたいな世界なのだからそういうこともあるか、と思う。佐藤を拾い上げて安全な場所で説得でもしようかと思っていると、頬に炎がカスる。何が起こったのかと思っている内に、盾役らしい女が巨大な銀の剣で切りかかってくる。咄嗟に彼女が落とした小刀で受け止めると、弾き返した。そうか、彼女が意識を失っても彼女が死んだわけではない。こういうモブキャストたちは普通に動けるのだ。面倒だなぁと思いつつも、少し盛り上がっている自分を否定できない。

 相手側にいるのは、まずはさっき殴りかかってきた盾役の女。鎧が重いお陰か、転ばずに済んでいた。そして、さっき炎の魔法を撃ってきた魔法役らしい男。今も詠唱しており、空中には次の炎……形が十字架なのを踏まえると、中二病的に言えば十字架のクロス・フレイムの使い手らしい。あとは弓役の女。魔法役の隣でイチャイチャしているあたり、カップルなのか。背中の矢筒には銀色の矢がたくさん入っており、これはちょっとカッコイイなと心が揺れた。だが、どれもこれも私を殺すための手段なのだ。今の肉体で負ける気はしないが、どれだけ強くても数の暴力には負ける。佐藤の小刀を握ると、それっぽく振り回してみる。


「生憎、私は剣道をやったこともないし舞台役者でもないんだけどなぁ」


 それっぽくマントを翻すと、まずは一番面倒そうな銀の矢。イチャイチャしている隙を狙って異様な身体能力で相手の裏側まで回ると、弓役の矢筒を破壊する。バラバラと床に落ちていく矢をどうにか拾おうとする女に一発蹴りを入れると、怯んだ所でにもう一発蹴りを食らわせる。これが好機と完全に気絶した彼女を盾にして、相手の男に心理的に攻めづらくしてみる。それでも、彼は詠唱を止めない。仕方ないので彼女を手放すと、私を狙って飛んできた十字架のクロス・フレイムを一人で受けてもらう。彼女だけを燃やしてしまった事実に茫然としている内に彼の背後に回ると、一発、背骨を狙って足蹴りを喰らわせる。人が出してはいけないような音がしてそういう世界だとはいえ流石に怯んだが、これも佐藤のためだと頬を叩いて鼓舞する。

 あと残っているのは、盾役の女だけだ。正直殴れば倒せるような気もしたが、それもつまらない。握った剣を女に向けると、巨大な盾を破壊できないかと体重をかけてみる。すると、面白いぐらいに盾が壊れた。怖い。今の肉体が怖すぎる。そのまま剣の持ち手部分で佐藤と同じく頸動脈を殴ると、その場で気絶してしまう。

 これでやっと始末が終わった。鼻息を漏らすと、彼女の元へ歩いていく。だが様子がおかしい。気絶させておいたはずの佐藤がいなくなっていることに気付く。咄嗟に周囲を確認しようとしたが、時すでに遅し。私の心臓からは銀の矢が突き出していた。意識を震わせるほどの激しい痛みに、口から大量の赤い液体を吐き出す。


「相変わらず鈴木って甘いよね。いつもは人間嫌いを装ってる癖に、いざ”身内”と認識すれば脇が甘くなる。甘くて馬鹿な人間に成り下がる。アタシさ、そういう鈴木のことが……だったよ」


 世界が回る。本来なら死んでいるほどの痛みだが、変に肉体が強靭であるせいか死ねない。佐藤は虚無から銀の釘を取り出してくると、私の心臓へ一本、また一本と打ち込んでいく。痛みがどんどんと増していき、耳の中には、トントンカンカンという釘を打つハンマーの音だけが積み重なっていく。


「生憎、ニンニクが苦手でさ。”原作”みたいに口の中に詰めるほど用意しなかったんだけど……代わりに」


 釘を刺すのをやめたかと思うと、私の手から銀の剣を奪う。何の遠慮もなく私の首を切り落としてくる。もう意識なんて保てない。そのはずなのに、生きている。不思議な現象だ。佐藤はそんな私の首を持ち上げると、そっと唇を重ねてくる。喉の奥が焼けてしまいそうな、痛みと快感。本能的にはそれを喜んでいる。拒んでいない。なのに、どうしてだろうか。どうしようもないほどの悲しみが襲ってくる。

 私と佐藤は本当にそういう関係なのか。甘々で、あの魔法役の男と弓役の女のような、そんな関係性なのか。イチャイチャするような、距離の近い関係性なのか。彼女との距離が分からない。感情という生地を恋という形に流し込んでしまったら、色んなものを無視することになるのではないか。どちらにしても、。その事実だけが、冷酷に心臓を貫いていた。

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