第62話 明治憲法発布と帝国議会
博文たちは明治憲法(大日本帝国憲法)を作るために、たくさんの国の法律を勉強した。
プロイセンだけでなく、アメリカ、イギリス、フランス、ベルギーといった欧米のあらゆる憲法を参考にした。
博文は最初の頃は自分の家で憲法の作成をしていたが、東京にある家にいると、博文を訪ねていろんな人が来てしまうため、横浜の金沢というところに移った。
最初は
カバンを盗んだ人はお金が目的だったらしく、お金だけが無くなって草案の紙は残っていたが、危ないので別の場所で憲法を作ることにした。
憲法を作る場所に選らばれたのは、
夏島は横須賀の海に浮かぶ小さな島で、ここならば船でないと来ることができないため、他の人が入って来る
博文は憲法を作るために、急いで
別邸というとすごい家を創造するかもしれないが、なにせ急いで作っている家なので、巳代治たちが泊まる部屋があるだけの小さな別邸だった。
博文たちはここに泊まりこんで、朝から晩までずっと憲法を作り続けた。
明治憲法は博文と毅たち四人だけで作ったものではない。
この草案を作った後、
ちなみに枢密院議長になったのは博文で、ここでも博文は初めての地位に付いた。
この枢密院は憲法が出来た後も残り続け、大正時代には強い力を持つことになる。
明治22年、明治憲法が発布された。
明治憲法と共に議院制度を
明治23年、第1回衆議院議員総選が実施され、11月に第一回帝国議会が開かれる。
日本は憲法もあり、議会も開かれる、近代国家となったのである。
2020年には議会130周年というイベントが行われた。
これは帝国議会から数えての年であり、まさに伊藤博文は近代日本の政治体制を作った人物なのである。
この後、博文は三回、内閣総理大臣になり、
また、明治33年には
年を取り、何度か引退を口にした博文だったが、最後まで政治の世界に生きた。
また、晩年には博文は高杉の功績をたたえるために建てられる石碑・
『動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し
衆目駭然として敢えて正視するものなし
これ我が東行高杉君に非ずや。』
博文が高杉をあらわしたこの文は、高杉のそばにいた博文だからこそ書けた文であり、素晴らしい名文であった。
この高杉晋作顕彰碑は今も山口にある。
明治42年(1909年)10月26日。
博文は
その暗殺は多くの人に衝撃を与えた。
普段まったく泣くことのない勝が泣きに泣いて、勝は博文の
馨は泣くのも忘れて、まるで心が博文が暗殺されたという事実を
巳代治たち部下も博文の死を悲しんだし、大隈たちも悲しんだ。
博文は
国葬とは国のためによく働いた人のために、国の儀式としてお葬式を行なうということである。
博文の国葬は日比谷公園で行われ、たくさんの人が集まった。
最後まで人々に愛された人物であった。
伊藤博文 井上みなと @inoueminato
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