演劇系VTuber梅乃雨(うめの・あめ)の話

くれは

雨は降り出した

 エレベーターのドアが開いて、エントランスを通り過ぎる。入り口の自動ドアが開くと、じっとりと重たい空気が流れ込んできて、肌に纏わりつく。

 入り口を出て、生垣と建物の隙間のような通路に入り込む。砂利道を進んだ先の行き止まりに、周囲の目から隠れるようなささやかなスペースがあって、そこに屋外用の灰皿が二つある。先客はいない。

 先輩たちの話によると、以前はこのスペースも混み合っていたらしい。今はリモートワークが増えて、喫煙スペースを使う人も減ってしまったそうだ。わたしだって、三日振りの出社だ。

 灰皿の前でマスクを顎にずらして、煙草を出して火をつける。煙草の煙も、においも、湿気った空気に押し潰されそうだ。

 煙を吐き出して、曇り空を見上げる。まだかろうじて降り出してはいないけれど、きっと時間の問題だ。いっそ、雨が降り出した方がマシじゃないかと思うような湿度だった。


 砂利を踏む音がして、意識が曇り空から落ちてくる。顔を下ろせば、そこに珍しい人物がいた。同じ会社の同期で、煙草を吸わない人。

 モニター越しじゃない、マスクをしているその姿を、不思議な気分で眺める。いつもビデオチャット越しには話しているというのに、こうやって顔を合わせるのだって初めてじゃないというのに、なんだかまるで知らない人に出会ったみたいな気分になる。


「煙草、吸わないよね?」


 何を言えば良いのか困って、ようやく出てきたのはそんな言葉だった。わたしの言葉に、彼はちょっと肩をすくめるようにした。


「喉弱くて」

「じゃあ、何しにきたの」


 湿気の中を漂う煙に眉をしかめて、わたしの隣までやってくる。砂利を踏む足音が近付いてくる。


「ちょっと、雑談がしたくて。リモートワークだと、こういう機会ないから」


 雑談と言いながらも、妙に表情は硬い。わたしを見るその視線は、変に真っ直ぐで居心地が悪い。声が緊張をはらんで、重たい空気とともに耳に届く。

 彼の意図がわからない。苛立ちを抑えるために、煙草の灰を落とす。


「……吸い終わるまでなら」


 そう答えたのは、失敗だったと思う。きっと、さっさと立ち去るべきだった。

 けれど、わたしは彼が話をすることを許してしまったし、彼はほっとしたように目を細めて、マスク越しに話し始めてしまった。


「ずっと、話したかったことがあって」

「ナンパなら他を当たって。職場恋愛はしない主義だから」

「そういう話じゃねえよ」


 煙草を吸っているわたしと違って、彼は手持ち無沙汰だ。ただわたしの隣に突っ立っているだけ。そして、わたしを見て、わたしに向かって言葉を紡ぐ。

 わたしは、煙草を手に、ぼんやりと煙の行方を眺める。そうやって、彼の言葉を真っ直ぐ受け止めないようにしていた。


「VTuberって、興味あるか?」


 突然出てきた言葉にも、わたしは反応を示さない。今更、そんな言葉一つで動揺するほどじゃない。

 吸い込んだ煙を吐き出して、それからようやく、わたしは答えた。


「ない」

「今はってこと?」

「何が言いたいの?」


 わたしはそこでようやく、視線を彼に向けた。彼は相変わらず真っ直ぐにわたしを見ていて、わたしはまたすぐに視線を逸らして、灰皿に灰を落とす振りをして、また梅雨空を見た。


梅乃うめのあめ、だよな?」


 久し振りに聞いた名前にも、わたしは無反応を貫いた。内心の動揺を押し殺して、冷めた視線を彼に向ける。


「何、それ?」

「しっとり小雨から激しい雷雨、そして雨上がりの虹まで演じるのが名前の由来。三年くらい前に朗読とシチュエーションボイスをメインに活動していた、演劇系VTuber梅乃うめのあめ


 彼の視線があまりに真っ直ぐすぎて、わたしは彼が「もしかして」なんて思っていないことがわかってしまう。

 彼は確信している。確信して、わたしに向かってただ、確認しているだけだ。

 わたしは諦めて、溜息をついた。


「あんな弱小、誰も知らないと思ってた」

「チャンネル登録してた。それで、声を聞いて似てるって気付いて」

「一応、ちょっと演技した声にしてたんだけど、当時」

「最初はなんか聞き覚えがあるなって思ったくらいだった。でも……喋り方の抑揚って言うのか、それで思い出して。あとは社外の人がいるミーティングだと普段よりちょっと高い声になるだろ、その声がかなり似てて」


 YouTubeのチャンネルも、Twitterアカウントも全部消してしまった。もともと登録者数もフォロワーも多くなかったし、まさか知っている人間に会うなんて思っていなかった。そう思って、油断していたのかもしれない。


「ていうか、割とキモいんだけど。中の人特定とか」

「特定しようと思ってたわけじゃねえよ。こっちだってまさか……中の人と同期だとか、思ってもなかった」

「何そのご都合設定、最近のラブコメはそういうの流行ってるの?」

「現実だよ、目の前を見ろ」


 曇り空が、抱えていた湿気の重さについに耐えきれなくなったらしい。しとりと、雨粒が落ちてきた。静かな雨が、生垣の葉をささやかに揺らして、ざわりざわりと音が広がる。


「なんで、活動やめたんだ?」


 彼の声も、その葉のざわめきと同じ。責めるふうでも問い詰めるふうでもなく、静かに、わたしのところに届く。


「もともと、学生の間だけのつもりだったから。仕事しながらは無理かなって思ってたし」

「アカウント、全部消さなくても良かったのに」

「更新されないチャンネルとか、虚しいでしょ。それに、なんだか全部嫌になっちゃって」


 彼は相変わらず、ひどく真剣な眼差しで──それでわたしは、ほんの少しだけあの頃の気持ちを思い出してしまった。


「チャンネル登録してたんなら、知ってるでしょ? 梅乃うめのあめの動画で、一番再生数が多かったやつ」


 わたしの言葉に、彼は少し目を見開いて、それからそっと目を伏せた。その明らかな動揺に、わたしは少しだけ気分を良くする。

 彼は視線を逸らしながらも、律儀に答えを言ってくれた。


「『バナナを食べる妹』……」

「正解。てか、そうか、あれ聞かれてるのか。うわ、最悪なんだけど」

「俺だって、今このタイミングで思い出したくなかった」

「中の人がわたしで幻滅したでしょ」


 そう言って、あはは、と笑う。笑った分、少しだけ重い空気が遠のいた気がする。それとも、雨になって地面に落ちた分かもしれない。


「エロ系コンテンツが悪いとも思ってないんだけどさ、それでもやっぱりエロ系って強いなって思うよね。普段はほとんど反応がないし、そもそも見てもらえてないし、みたいな感じだったのが、急に反応もらえちゃったわけでさ。言ってもたいしたことない再生数だったけど、わたしにとっては初めての数字になっちゃってさ、コメントももらえちゃって。期待されてる、頑張らなきゃって思ったけど、当時のわたしは冷静じゃいられなかったし、きっと頑張り方をどこか間違えちゃったんだよね。それでなんだか突然、疲れて、全部嫌になっちゃって」

「俺は」


 まるで自傷行為のようなわたしの言葉を、彼の声が遮る。


「俺は、好きだったよ、朗読動画。小川未明のやつが、好きだった」


 彼の言葉は、彼の視線と一緒で真っ直ぐすぎる。その言葉は、わたしの中まで届いてしまった。そして、わたしの胸の内側からいろんなものを引っ張り出そうとしてくる。

 それを押しとどめて、わたしはつまらなそうな顔をしてみせた。


「それはどうも」

「また、やれば良いのに」

「無理だよ」

「どうして」


 わたしは短くなった煙草の火を揉み消して、灰皿の中に落とした。その隙間から、吸い込まれるように、吸い殻の姿が見えなくなる。


「ずっと演劇やってたんだよね。演技は楽しかったけど、周りの人を見てると、そこまでの覚悟はないなって、思っちゃって。VTuberもおんなじ。そこまでの覚悟はない。中途半端なんだ」

「俺は……俺には、声を出すのが好きなんだなって聞こえてたけど。そうやって重く考えるのも、好きだからじゃないのか?」


 これ以上は、この後の仕事に差し障る。もうこの話をやめたい。だというのに、さっき胸の奥に押し込んだ言葉が、中で暴れている。そうやって、ずっと奥まで押し込んでいたものを手当たり次第に拾っては投げつけてくる。

 わたしは髪の毛を掻き上げて、溜息をついて、ポケットに手を突っ込んで煙草の箱を握って、手放して、思い出したようにマスクを付け直して、そこまでやってようやく、口を開くことができた。


「演劇もVTuberもやめて、喉に悪いことをしようって思って、それで煙草吸い始めたんだよね。それからずっと、やめられないんだ、煙草」


 わたしは、灰皿の前に彼を置き去りにして、歩き出す。最初から、煙草を吸い終わるまでって約束だった。だから、話はもうおしまい。

 じゃり、と足音が鳴って、わたしは手を掴まれる。振り向けば、ああ、相変わらずの真っ直ぐな視線。


「再開したら、チャンネル登録するから」


 わたしはその手を振り払う。


「同僚に見られるとか最悪」

「あ、じゃあ、しない。フォローもしない。見ないから、再開してくれ」

「なんにせよ無理」


 そう言って、わたしは足早に歩き出す。その後ろから、彼の足音もついてくる。戻る先は同じオフィスだから、当たり前と言えば当たり前。でももう、会話はない。

 降るのをためらうようだった雨粒は、今はもう少しはっきりとその存在を主張していた。喫煙所も、そこに至る通路も、ひさしはあるものの吹きさらしなものだから、わたしは肩を濡らす。

 彼が踏む砂利の音がわたしを追いかけてくる。わたしの中で、彼の言葉が余計なものを引きずり出してくる。

 ほとんど見られていなかった頃、小川未明の朗読動画に『良かった』って書いてくれたあの人。あれはきっと彼だ。なんの根拠もないけれど、そう思ってしまった。

 もうすっかり忘れてしまったと思っていたのに。初めてのコメントが嬉しくて、たったそれだけで泣きそうになってしまったあんな気持ち、忘れてしまいたかったのに。

 演技をするときの、声を出すときの、あの高揚感、興奮、楽しさ、全部もう捨ててしまったと思ったのに。

 胸の奥からせり上がってきた言葉が、口をついて出そうになる。それを飲み込んで、なんでもない顔をしてエレベーターの前に立つ。

 小さく息を吐いて、隣に並んで立つ彼を小さく睨む。だって、彼のせいだ。


 エレベーターが降りてくるのを待ちながら、わたしはポケットの中で煙草の箱を握り潰した。

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