卵焼き

増田朋美

卵焼き

平和な街だった。少なくとも、社会学者の人などから見たらそうだろう。犯罪もなにもないし、戦争が起きているわけでもない。でも、樫村栄子は、そんなことは関係なく、いつも落ち込んでいた。よく、周りの人が、理由もないのに、落ち込むなとか励ましてくれるのだが、栄子には、口に出して言えない理由があった。隣に住んでいる、松下聡美という、女性のことであった。栄子はできるだけ他人の批判はしないように生きてきたつもりだったが、この松下聡美さんのことだけは、嫌だった。 

松下聡美さんは、まだ三十代ちょっとの若い女性だ。三十代は今の時代は、まだまだ子供みたいなものだと表現する人もよくいるが、栄子の息子だって同じ年だ。息子は独立して、ちゃんと企業ではたらいている。だから、松下聡美さんだけが、できないということはないと思う。三十代といえば、もう働いていて、中には結婚して新しい家族を作っている人もいる。そういう年代である。しかし、松下聡美さんは、いつまでも親と暮らしていて、親の収入でせいかつしている。親が可愛そうだと思わないのか?と栄子は不審に思う。もう、65歳をすぎたら、世間的には高齢者である。その高齢者をまだ働かせて、自分は何もしていないなんて、おかしな話だ。

困ることはまだあった。松下聡美さんは、雷がなったり、大雨が降ったりすると、怖がって泣き叫ぶのである。誰か彼女を止めることはできないのかと栄子は思うのであるが、雨がふるたんびに、松下聡美さんは、空襲だといって、泣き叫ぶのだ。その声が、昼でも夜でも構わず聞こえてくるので、栄子は困ってしまうのだった。松下さんのオタクに文句を言いに行くか、と思ったこともあったけど、福祉施設に勤めている夫に決まって止められるのだった。

「松下さんを、せめちゃいけないよ。あれは好きでないているわけじゃない。松下さんはそういう、感じすぎてしまう気質というか、体質なんだ。アレルギーでパンを食べられないのと一緒だよ。だから、そっとしておいてあげようよ。」

福祉関係の仕事をしているから、そういうことが言えるんだなと栄子は思う。

「あなたは、そういう仕事をしているからいいんでしょうけど、あたしはあんな声を、雨が降る度に聞かされるんじゃ、たまったもんじゃないわ。」

栄子は、夫に対抗していうが、

「いや、理由があるだけでもいいじゃないか。俺が勤めている施設には、理由がなくてもギャン泣きする子はいっぱいいるから。 だから、それでいいことにしようよ。」

と、夫は、言うのだった。

「あなたは他人には優しいくせに、私には優しくないのね。」

栄子は、嫌な顔をする。

「それは、仕方ないんだよ。世の中にはいろんな人がいて、それぞれ良いところもあれば、悪いところも持ってるさ。それは、誰でもあることだ。そうしてあげなきゃだめなときもあるんだよ。」

同時に、空は暗くなって、雷がなりだした。結構近いところで雷は鳴っていた。時折、稲妻が光ったりもする。隣の家から、またギャーッと泣き叫ぶ声が聞こえてきた。栄子は怒鳴り込んでやろうかと思ったが、雷がすごいからやめた方がいいと、夫に言われてやめた。

とりあえず、栄子は、自室に戻った。一応、部屋は別である。そして、急いで机に向かい、一冊のB5版のノートを出した。実はこれ、秘密ノートといっている。いつも夫にやり込められて、吐き出せない鬱憤を、そのノートに書くことにしている。いつもなら、出てくるのは夫の名前なのだが、今日は松下聡美と記入する。そして名前を憎々しげに、ボールペンでくろぐろと塗りつぶす。いつもなら、それでもういいのであるが、その日は違っていた。何故か、松下聡美さんを殺害する方法を列記し始めたのだ。やり方は毒殺。聡美さんを、自宅へ呼び込み、毒入りのお茶でも飲んで、殺害する。遺体は裏口から、近隣の川に投げ込んで、足を滑らせて川に落ちたことにすればいい。そう考えると、栄子は楽しくなった。そうすることによって、松下聡美さんのことが気にならなくなった。

其れから、数日後の事である。

「樫村さんこんにちは。回覧板を持ってまいりました。お願いできますか?」

あの、松下聡美さんの声が聞こえてきた。本来の栄子であれば、そこに置いておいてくださいしか言わないんだけど、その日は違った。急いで玄関先に向っていき、

「いつも悪いですね。こんな暑い時に、ご丁寧に持ってきていただけるなんて、ありがとうございます。」

と、聡美さんに声をかけた。聡美さんは、ほかの女性に比べると、大柄な女性だ。其れは、もともとの体格でそうなっていたわけではなく、薬の成分で食欲が増してしまい、太ってしまったということを栄子は知っている。

「いいえ。大丈夫ですよ。暑い時でも回覧板は出さなければいけないですしね。それでは、お願いいたします。」

精神障害というのは、日常的なときは、非常に丁寧に行動するものだ。そうでないときは、ただ大騒ぎするしかない存在なのに。

「はい、わかりました。主人に見せたら、お隣に回しておくわ。ねえ、聡美ちゃん、お昼食べてきた?」

栄子は、わざとなれなれしくいってみる。

「いえ、まだです。今日は両親も仕事へ出て行ってしまっているので、私一人です。」

と、松下聡美はそういうのであるが、

「じゃあさ、今日ここで食べていったら?こんな暑い時だから、ご飯をつくる気にもならないでしょう。あなたのご家族には、私が言っておくわ。だから、安心して。」

と、栄子は、わざと笑顔をつくって、そういうことを言った。

「そうですか。じゃあ、一寸だけ伺います。あんまり長くはいられないですけど。」

松下聡美は、お邪魔しますと言って、部屋の中に入った。栄子は、彼女を食堂へ案内する。そして、食堂の椅子に、彼女を座らせた。お茶を出すと、聡美さんは、一気に飲み干した。飲み干すと栄子は又たっぷり注いでやった。栄子は、精神障害のある人は、やたら水を飲みたがるということを知っていた。できるだけ、たくさん水を飲ませるのも、計画のひとつだった。その時部屋は、エアコンでがんがんにひえていたから、用を催したくなるのも当然の事だった。栄子は、彼女が一寸トイレを借りていいですかといったとき、ええもちろんよ、と親切に教えてあげた。そしてその間に、用意していた溶き卵をフライパンの中に入れて卵焼きをつくった。その間に、松下聡美は戻ってきたが、数分後に卵焼きは出来上がっていた。

「それでは、この卵焼きをどうぞ。いま作ったばかりだからおいしいわよ。」

「ああ、ありがとうございます。本当にご親切にしていただいて、申し訳ありません。」

栄子が卵焼きを聡美の前に出すと、聡美は頭を下げた。

「そうね。なんでもご丁寧にする必要はないわよ。下手な料理で申し訳ないんだけど、食べて。」

「はい、ありがとうございます。頂きます。」

聡美は、箸を受け取って、卵焼きを口にした。

「お味はいかが?」

と栄子はきくと、

「ええ、おいしいですよ。すごくいい味です。本当にわざわざ作ってくださってありがとうございました。」

聡美は食べるのが早かった。急いで食べているつもりはないのだろうが、薬の成分でそうさせてしまうのだろう。あっという間に、卵焼きをペロッと平らげてしまう。

「ごちそうさまでした。」

聡美は、両手を合わせて、そういうことを言った。

「いいえ、これくらいの料理だったら、いつでも作って差し上げるわ。寂しくなったら、また来てね。」

と、栄子は、わざとにこやかな顔をして、そういうことを言った。

「ありがとう、、、ございます。」

聡美は、なぜ自分がこんな事をされているんだろうという顔で見ている。

「いいえ、良いのよ。其れよりも、あなたの仕事が早く見つかるといいわね。ああして、災害が起こるたびに泣き叫ぶんじゃ、どこでもいけないと思うけど、せいぜいそれをたのしむことね。」

栄子はやっと今までため込んでいた言葉を聡美本人に言った。

「まあ、あなたの将来は、暗くて、どうしようもないことしかないと思うけど、それは若い時働かなかったバツと思いなさいな。どうせ、人間、働かないと幸せなんかもらえないのよ。働いていない人は、幸せになれないようにできているの。其れが世の中、当然の事なのよ。其れが嫌なら、今すぐ死んで親孝行なさいな。其れが一番の親孝行だから。いいわね。」

やった!これでやっとこの迷惑な存在を消すことができる!私は、この人を殺すことに成功した!そう、私は勝ったのだ!

「ありがとうございます。参考にしておきます。」

聡美さんは、目に半分涙を浮かべてそういうことを言っている。

「今度来られるときは、何か仕事が見つかっているといいわね。」

栄子は、優しいおばさんの顔に戻って、何食わぬ顔でそういうことを言った。

「わかりました。」

聡美さんは、小さな声でそういって、

「回覧板は、はやく次の方に回してくださいね。」

とだけ言って、椅子から立ち上がり、帰り支度を始めた。

「こんな結果になるとは思わなかったと思うけど、これが事実なの。あなたも変わる

努力をしなきゃね。其れは、良く思っておきなさいな。」

「はい。」

とだけ言って、聡美さんは、玄関先にいった。栄子はこの後聡美さんがどうなるか、目に見えていたから、見送ることもしなかった。ああよかった!これで自分の手を汚さずに、聡美さんの事を始末できたのだ!やった、もうあの気持ち悪い叫び声を聞かないで済む!

聡美さんの玄関扉を閉める音を聞きながら、栄子は笑い声をあげたいのを一生懸命こらえていた。そして、聡美さんが帰っていく音を確認すると、思いっきり声をあげて笑った。これでやっと平和な暮らしが、戻ってくるのだから!

翌日、栄子が予想した通り、訃報回覧が回ってきた。そこにはちゃんと、死亡者の名前が書いてあった。松下聡美、33歳。死因は描かれていなかったが、栄子はちゃんと知っている。

「何を笑っているんだ。」

不意に、夫に聞かれて、栄子は何でもないと答えた。

「隣の家でお葬式があったんだ。そんなににやにやするのはやめた方がいい。いくら、自分とは関係のないと言っても、隣に住んでいる人がなくなったんだ。其れは、外せないことだよ。」

福祉施設に勤めている夫は、そういう倫理的なことにうるさい人であったが、栄子はまるで平気だった。

「栄子、松下さんの家に行こう。お線香でもあげさせてもらおうよ。」

又夫に言われて、栄子はいやな顔をする。

「そんな顔をするな。隣の家の人だぞ、お悔やみに行かないでどうするんだ。すぐに黒い服に着替えなさい。こういう時は、出来るだけ、そばにいてあげる方が、お父さんお母さんにはいいんだよ。」

「あなた、なにそんな余分なことを言っているの?松下さんとは血縁者でもなければ、親戚でもないでしょうに?」

栄子がわざとボケて言うと、

「いや、そうだけど、俺たちは赤の他人なのかもしれないけど、娘さんを亡くしたお母さんお父さんの悲しみは壮大なものだ。だから、ちゃんと寄り添ってあげなくちゃ。其れは、人間として大事なことだよ。」

夫は、当然のように言う。

「でも、松下さんだって、あれだけ大騒ぎを起している娘が死んでくれて、きっと喜んでいるんじゃないかしら?」

と、栄子が言うと、

「バカ!喜ぶ奴がいると思うか?どうして死ぬことが喜ぶんだよ。この世に、死んで喜ばれる人間なんて、死刑囚くらいなものだ。其れと松下さんはえらい違いじゃないか。早く黒い服に着替えなさい!急がないと、自宅受付が終わってしまうから、香典袋を出して。」

せめて家族葬で送ってくれればよかったのに。松下さんたちが通常通りの葬儀をするというから、こうして近所の人を巻き込んで、嫌な思いをさせるものだ。英子は仕方なく、黒い服に着替えた。自分が女性でなかったら、決定権はあったと思うのに、女というのはこういう時に不利になる。やっぱり決定権は、今の時代でも、男のほうがあるようなのだ。

栄子は夫に連れられて、松下さんの家にむかった。松下さんの家に行ってみると、栄子が予想していた、参列者は誰もいないで、両親だけがいるという風景とはずいぶんちがっていた。松下さんにかかわっている人たち、つまり、医師やカウンセルの先生のような人たちが、何人か集まってきていたのだ。その人たちが、泣いている松下聡美さんの両親を慰めている。皆聡美さんは、一生懸命変わろうとしていたと話している。聡美さんは、診察の時も正直に話してくれたとか、自分で働きたいと思って、クラウドソーシングに応募したが落選して、大暴れしたとか、そういう彼女の思い出は、たくさんのものがあるらしい。栄子は、それを見て驚いてしまった。

「こんにちは。松下聡美さんのお悔やみに参りましたが。」

と、夫が言うと、車いすに乗って、黒い着物を身に着けた人物が近づいてきた。

「あのどちらの方ですか?」

と、彼に聞かれて、夫は、聡美さんの隣に住んでいるものですがというと、

「そうですか。お隣の方までこうして来てくださるとは。聡美さんも、素晴らしいことをなさったんですね。じゃあ、もうすぐ尼僧様が来ますから、ここでお待ち願いますか?」

と、車いすの男性が言った。

「尼僧様?お坊さんではないのですか?」

と、栄子が思わず聞くと、

「ええ、彼女はとても信心深い女性でしてね。庵主様が主宰している観音講にもよく来てくれたんだ。一生懸命、写経もやってたし、庵主様に質問したり、勉強熱心な女性だった。ここにきているやつらは、皆観音講で知り合った人たちだ。」

と、もう一人の車いすの男性が言った。その人は、麻の葉柄の黒大島の着物を着ている。黒大島というのは、お悔やみの席には着用できないと聞かされていたが、

「杉ちゃんさ、あんまりベラベラ話さないほうがいいよ。亡くなった人の事は。」

と最初の男性が言った。

「いえ、こういう時は、亡くなった人の思い出を語るのも悪くないでしょう。西洋では、そうなると言っていました。」

と、別の男性が言ったので、端に座っていた女性から一人ずつ、松下聡美さんの思い出を語り始めた。すると出るわ出るわ。なぜか聡美さんの思い出は、語りつくせないほど出るのである。聡美さんのカウンセリングを続けて、彼女を何とかしてやりたい思いに駆られてしまったこと、彼女が、しっかりと薬を忘れずに飲んでくれたこと、そういう小さなことではあるけれど、聡美さんの思い出は、参列者たちの心に宿っているようなのだ。

「聡美さんは確かに、治療の上では困難なタイプと言わざるを得ませんでした。でも、薬ものんでくれたし、ちゃんと僕たちの言うこともきいてくれました。其れなのに、治らないなんて、本当に聡美さんの病気を恨まずにはいられなかった。彼女はたしかに、親御さんやほかの方に多大な迷惑をかけたかもしれませんが、でも、一生懸命生きようとしていた女性です。そんな彼女が、自らの命を絶ってしまったなんて、本当に悔やんでも悔やみきれません。」

医師と思われる男性がそういうと、

「そうですね。あんなまじめな女性、なかなかこの日本にはいない、貴重な女性だったと思います。彼女はそうまじめすぎて、生きていけなくなったのでしょう。悲しいことですが、彼女は、そういう女性でした。彼女が、生きていけるように、もっと早く、知り合えたらよかった。」

隣に座っていた女性が、そんなことを言うのである。

「本当ですね。僕も彼女の背中を預かったとき、彼女はとても真剣そのもので、彼女に、責任をもって彫らなくちゃと緊張してしまいました。誰に対しても、刺青師はそうしなければなりませんが、彼女の場合は特にそうでしたね。」

蘭がそういうことを言うと、周りのみんなはそうだそうだと頷いたのだった。

「ほんと、貴重な人がなくなったな。しかし、なんで彼女は、今、この時点で生きることをあきらめてしまったのだろう?だって、蘭も影浦先生も、一生懸命彼女を励ましていたんだろ?決して彼女に死んでくれと、言ったやつは誰もいないよな。まあ、自殺ということは確かなのかもしれないが、その動機なるものは一体何だろう?」

と、黒大島の着物を着た、杉ちゃんがいきなりそういうことを言う。

「こんな時にそんな縁起の悪い話はやめろよ。」

と蘭は杉ちゃんに注意するが、

「いや、確かにそれはありますよ。彼女のような病気の人は、自殺の可能性が、ないとは言い切れないですけど、行動を起こすとしたら、何かきっかけがあったはずなんですよ。其れは確かに気になりますね。医者として、次の治療に生かすためにもね。」

と、影浦先生が言ったため、ああそうだなと、参列者たちは頷いた。

「ほらあ、やっぱりおかしいだろ。誰かが、誘導したとしか思えないんだよ。確かに、彼女は器用ではなかったし、生きるのが上手というやつではなかった。でも、今になって死のうとした理由が、ないよなあ。」

杉ちゃんに言われて、そうねえ、と参列者たちは口々に言い合うのだった。其れを見て、栄子は自分のしたことは、英雄気分だったが、それは間違いだったのではないかと考え直した。こんなに多くの人が彼女の死を悔やんでいる。その思いを、私が作ってしまったなんて。栄子は、自分では顔に出したつもりはなかったけど、かなり動揺してしまっていた。

「なあ、お前さんの事は、ここでは言わないであげるから。」

不意に、黒大島の着物を着た、杉ちゃんが、そういうことを言った。

「お前さん、聡美さんに謝ってくれないかな?彼女の立ち直るきっかけを奪ったことをね。」

栄子は、杉ちゃんに言われて、思わず周りを見渡してしまった。参列者たちはまだ、聡美さんの思い出話をしている。私のしたことは、英雄でも何でもないんだ。ただの、彼女の命を奪った、いけないことだ。

ちょうどその時、外で車が止まる音がした。庵主様がお経をあげるために到着したのだ。

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卵焼き 増田朋美 @masubuchi4996

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