第4話

 胸中は嵐のごとく錯乱し、眠れぬ夜が明けた早朝にいつもそうするように散歩に出た。足腰が疲労することで睡魔を喚びだそうとするためだ。そうしていると通学の団体に出くわす。いつも、養護学校の通学バスとすれ違うことで、時間の感覚を保持していた。

 驚いたことに、岩見が俺の帰りを待っていた。


 落ち着かないの? まぁ悲惨な事件だったでしょうし

 中津から聞いたんですか

 いいえ。事のなり行きは、すべて見させてもらっただけ

 警察には言わないのですか

 言えば、私もタダじゃ済まないからね

 岩見さんは、あの男が、そのヤクザというか反社というか、とにかくそういう

 もちろん。私と同じように、ズボンに隠していることは、分かった。銃とは思わなかったけれど。歩き方が変だったのは観察すればわかること。その他にも通話に際しての、語彙。通常の歩行者とは、違う目線。挙げればキリがない。だいたいそれで、察することができるけれど、所詮は勘


 俺は意を決してなぜ止めなかったんだと聞こうとしたが、そのような顔をしていると彼女は察したようで、


 あなただって、富岳を止めようとしなかった。彼は、人を殺めようとしていたにもかかわらず。それに、あなたが努めて考えるべきは、中津のこと。彼はいま、怯え、理性を失くしている。彼の憤怒の矛先は、あなたに間違いない

 会ったのか

 会わなくても解る。彼がそういう人間ということくらい


 岩見は携帯電話の番号を書いた紙をよこした。


 いつ、連絡してくれても構わない


 その夜は久しぶりによく眠れた。薬を飲まず、小説を読み続けているといつのまにか焦点がズレはじめた。漫然と活字の上を視線が滑り、ゆえに何を指し示しているかまで踏み込んで理解することができない。栞を挟まず乱雑に手放した小説、灯りをつけたままの部屋、開けたままの窓、せめてこれらを整理してから眠ろうと意識する間もなかった。

 夢に爺が出てきたのを覚えている。当然のことだろうと、夢の中にもかかわらず、冷静に分析できていた。

 爺と俺とで肉を食っていた。牛肉だった。


 いいか、人肉なんてのは食べなくてもいいんだ。いやちがうな。皆当たり前に食べているんだからわざわざ食べなくてもいいんだ

 あんたが食いたいって言ったんだ

 そういう童貞だって口が人の血で真っ赤だ。いや責めていない。子は父や母の血で口が汚れているし、逆もまたしかり。社会に出れば、君は他人の首を噛んでは血を啜るが、君もまた啜られている

 そういうものか

 そうだ。誰もが誰かを食っている。当たり前のことすぎて忘れそうになる


 息が苦しくなり覚醒すると、首に熱を感じた。灯りを覆うように人が俺の上に座していた。俺の視線を感じたらしい。首を掴む手や沈めるための体重がさらに強まる。抜け出さんともがく手足は、何も効果を得られず。

 読みかけていた小説が視界の端にあった。それに手を伸ばした。適当なページに指をいれ、背表紙で影で暗くなっている側頭部をめがけ、腕を降り起こした。

 怯んだ隙をついて上体をおこし、マウントポジションから脱することができた。そして顔をようやく認識した。中津だった。

 中津は俺の頬や顎を殴る。

 拳が俺の顔の肉を剥ぎ取らんとするかのごとく、既に酸欠だった脳の弱り目につけこまれた視界は硝子を粉砕したような眩さに覆われた。

 歯で頬の内側や舌が出血。喉を伝う。

 咳き込むことでさらに体内の酸素を排出、制御できぬ頭痛の苦しみに襲われた。

 右の肘に体重を乗せ、内臓を硬くひきしめ、腹の力をばねにして、中津の顎を蹴り抜いた。

 右足の甲、中指の筋あたりが顎髭で擦れた。

 腓で中津の顔をとらえ、左半身に乗せた体重を揺り戻す勢いをこめた。

 俺の側に引き寄せ、側頭部をテーブルに落とした。

 グラスが潰れる音がした。

 蟀谷から血を流した中津の顔は亡者を思わせた。

 俺はさらに追撃せんと、中津の髪を掴んだ。

 テーブルにはガラスが散っていた。

 叩き落としてやろうと決めた。

 だが意に反して腕は動かなかった。

 その手を力強く止められたからだった。驚き、そして自分を律せなくなる憎しみの奔流を認識し、中津の頭を手放した。

 岩見だ。

 岩見は気を失った中津を玄関の外に投げ捨てた。入ってこれぬよう鍵をしめた。俺は窓をしめた。布団にはサイズの異なる二つ足跡がくっきりと残っていた。岩見は見かけによらず肉体を駆使することも平気なようだ。俺の部屋までよじ登ってきたらしいが、呼吸を乱していない。俺は全身の疲労で瞬きすら怠い。

 彼女は、俺の睡眠薬を取り出し、俺の口に流し込んだ。

 翌朝の、激しい頭痛を伴う覚醒は人生で未だに経験したことがないほどの苦しさだった。目覚めて数秒の呼吸困難、顔面の鈍痛。

 岩見も、中津もいなかった。

 午前5時の明けたばかりの周囲に慮ることもなく、汚されたシーツを洗濯機にいれ、シャワーを浴びた。


 午前8時、外に出た。ベランダで風にあおられるシーツもすぐに乾くだろう陽気だった。

 バス停のベンチには数人がいた。親子が一組、おそらく彼らは養護学校のバスを待っているのだろう。そのなかに、中津が座っているのを遠目に確認した。中津は、まだ俺に気がついていないようだ。

 中津の様子を窺うべく物陰に身を潜めた。

 数分後、いつものように養護学校のスクールバスが来た。特徴的な蛍光色であるため、路線バスと間違えることはない。にもかかわらず、中津は子供らの後を追うようにバスに突入した。親は狼狽しつつ中津の後を追った。

 俺も確かめるべく、彼のもとに走って向かった。

 バスの運転手は首を切り裂かれていた。児童の一人が彼の手により、まさに今、凶刃にさらされている。中津をとめようとする女の教師は、狂気に突き動かされた青年に対してまったく無力であった。

 そして一人、また一人とナイフで喉や腹を刺されていく。

 そして、中津は俺の顔を見ることはなく走り去った。


 犯行はすぐに報道された。死者3名、重体5名、重軽傷9名。犯人は未だ逃走中とのことだが、逮捕は時間の問題だろう。警察に中津の写真を送るべきだと考えたものの、彼の写真を持っているはずもなく、また彼の住所も知らない。岩見も、爺も、結局、何者だったのかわからない。

 岩見が中津を捕らえている可能性はあるのだろうか。昨夜のように、俺を狂気から助けてくれたように。


 診察室で時計の針と空気清浄機の駆動の他には何も音がせず、医者は存在を希薄にして俺の話を一言も口を挟むことなく聞いていた。


 にわかには信じがたい。作り話ではないよね?

 事実です、先生

 警察には言いましたか

 他にもサラリーマンらがいました。彼らが通報していました。俺は逃げたんだ

 仕方がない。狂気に真正面から立ち向かってはならない

 中津が、あの男が壊すべきは俺だったんだ

 そんなことはない

 違わない。それに、なにも解っていない連中が、中津を英雄だとすら言っているんだ

 そんな人たちのこと、大雲くんが怒っても仕方がないじゃないですか


 医者は俺の顔面から溢れる涙や鼻水をみかねてボックスティッシュをよこす。涙は涸渇することがないのは、全身の血を涙に換えているからだろう。

 診察室を出ても俺は慟哭は止まない。怪しげに俺を見つめる視線を感じる。受付の職員は俺を見ないようにしている。

 心臓が痛いほど拍動している。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

悪いやつら 古新野 ま~ち @obakabanashi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ