第3話
三人が入店した後、爺が車内に置いていった煙草をくすねて、真夏の夜の空を眺めて立ち尽くしているだけだった。月を覆う雲の厚みを見て、肌にまとわりつく湿り気がやがて雨に変わるような気がした。
煙草を初老の警備員に注意された俺は平謝りをしてお目こぼしを頂いていた。そんな様子を遠巻きに見ていたのか、警備員が立ち去ってから爺と中津だけが帰ってきた。
目立つな
すまない。ところで岩見さんは
彼女はここで仕事終了だ。当初の約束どおりここで袂をわかつのさ。元々彼女は掏摸グループだったのだがヘマをして追い出され、万引きのような単独の犯行を繰り返していたんだ。もう一度彼女の力を最大限引き出すためにも、と声をかけたのがきっかけでね
俺もさっき知った。てっきりもっと危ない女かと思っていたよ
彼女は間違いなく危ない奴さ。我々と別れた後でも彼女は窃盗を繰り返すだろうな。それは野球少年が素振りをするかのように決まってる。自分にできることを死ぬまでやり続ける意思が彼女にはある。だから協力してもらったのさ
どうでもいいが爺、車の鍵なんかとってどうする気だ?
もちろん食べるためさ。SUVの男は一人で来ていた。つまりだ、ここで仕留めて、我が家で食べる算段だ
俺は、食わない
別に構わない。童貞にはそばにいてほしいだけだ
俺だっていらない
中津くんもか。まぁ仕方がないか。君たちは若いんだ。今日食べなくてもいつかまた機会があるだろうさ。付き合ってくれて感謝しているよ。今日は人生最良の日だな。
爺はそう言い残して、SUVの後部座席に隠れた。
どうやら中津は前から知っていたらしいが、ターゲットは行き当たりばったりではなかったようだ。中津が運転をしていた理由は、爺では無駄話やよそ見をしてしまうからなのだと納得した。
爺が仕留めた後はあの車に乗り換える。証拠を残さないように掃除をするから一旦出ろ
もし今のタイミングで来たらどうする
中津は少し考えると、
その時は俺がここに留まる。屑の解体ができないのは残念だが、証拠を残すよりかはよほどいい
屑?
あのSUVの持ち主さ
知り合いか?
いや、今日始めてだ。まぁさっき言動を確認したが屑で間違いないさ
彼が掃除を終えて、車内には入るなと命じた。そして、しばらくすると怒り肩の男がSUV向かって歩いてきた。男はドアの前で立ち尽くしてポケットや鞄をあさり鍵が無いことに気がついたが、車内に置きっぱなしであることに気がついたようだ。
俺たちはトランクの後ろに隠れていた。中津は慌てた男を見て笑った。自分で閉めたかどうか覚えておけよな、と俺に同意を求めた。気の抜けた返事をしたはずだ。この小細工を思い付いたのは岩見だったそうだ。
男が運転席に着いた。その瞬間、爺は男の首を縄で締め上げた。薄暗い車内だが、様子を見るには十分だった。今にも息絶えそうな男の表情がよく見える。
殺れ、殺れ、と中津は呟く。
俺はさっきの警備員が周囲にいないことを確認した。
男は縄を掴み、首から剥がそうと試みるが、あれでは爪痕をのこすことしかできないだろう。
諦めたのか男は腕の力を抜いた。もはや息が耐えたかに思えたそのときであった。
車内が閃光し、爺の頭が砕け散った。
爺が沈み、俺たちの視界から消えた。
男が車から降りた。
男は長時間の運転をした後のように深呼吸した。
男は車を降りてスマホで爺の写真を撮影した。
もしもし、あぁまたやっちゃったよ。……いやぁまた助けてくれないか。礼は弾むからさ。……あぁさっき写真は送った。じゃあな。
男は煙草を吸い始めた。
話が違う、あんな、あんな奴を相手にした覚えはない
中津は震えはじめた。不思議と俺は何も感じなかった。いや、起きた事象があまりにも呆気なさすぎる爺の死に現実感を喪失していた。
数分後、SUVの隣に停車した車から小肥りだがかなり整った顔立ちの女が出てきた。
汚なっ……
なんか後ろに爺がいて、しかも首絞めるからつい……
お兄はいつもそう。袋が何枚あっても足りなくなる
すまんな
男は額にキスをした。女は爺の亡骸を袋に詰めて自分の車に詰め込んだ。
そして男は後から来た車を残して立ち去っていった。
中津が恐慌していた。顔を見られたと悪夢を見て怯える少女のように繰り返し呟く姿は数分前の威勢を感じさせず、綺麗な車内とあいまってただの神経症の青年と成り果てた。
見られた……
そんなはずないだろ。こんなに真っ暗なんだ
俺は理を説いたつもりだった。だが中津はゼンマイ仕掛けの玩具のように顎を震わし歯を打ち鳴らし、話を聞く余裕はないと見えた。
奴は俺を見た。嗤ったんだ
見間違いだ。あの男は淡々と立ち去っていっただけだ
中津は俺の声を無視して縮こまり嗚咽をもらす。一方で俺は、俺が感じるべき恐怖を中津に奪われたかのように無感覚だった。そして今、あの時のことを思い出すと、爺が死んだことより、日本で人間が銃殺される現実より、またしても偏頭痛を知覚しはじめた苦痛に苛まれていたのだった。再び、綺麗にした車に入った。
中津はハンドルを殴りクラクションをけたたましく鳴らす。唐突な音に通行人がこちらを見つめる。その視線がさらに彼を苦しめたようだ。
中津を羽交い締めにしてシートに押さえつけた。
ギアをきつく絞める音のような声を洩らし、ついには涙を流しはじめていた。
俺は慰めようにもかけるべき言葉を見つけられず、車を出た。警備員が近くにいてイタズラはやめなさいよと俺に注意をした。俺はまたしても謝ることとなった。
ショッピングモールの1階、スーパーマーケットでプライベートブランドのコーラと安いウィスキーと氷、そして雑貨屋で購入したグラスを持って車内に戻った。中津は泣いていた。
爺が死んで悲しいのか。それだけ――
彼は俺の手からボトルを奪い取り、喉が焼けるような感覚もあるだろうにそれを堪えて飲み干した。
俺は認めない……爺……嘘じゃないか……
中津は綺麗にした車内を台無しにするかのごとく嘔吐をした。家まで送ってやる、と俺が言う前に彼は顔をウィスキー味の胃液でベトベトにしていた。俺は結局開封することはなかった氷を彼の額にのせて、ショッピングモールから逃げた。数分走り、コインパーキングに移動した。
タクシーで家に帰った。金を払うとき、自分の財布だけではなく爺の小銭入れも持っていたことに気がついた。爺の持っていた金ではタクシー代を払えそうになかった。
シャワーを浴びた、あのとき飛び散った爺の破片を洗い流すかのように。冷水を頭から浴びても胸騒ぎが治まらない。
飯も食えなかった。サバ缶と水道水という貧相な食事を用意したものの、サバを口にし、当然のように吐き出した。2、3度咀嚼し少し潰れて唾液と油でテカテカした泡を纏っていた。
爺の嗄れ声が耳鳴りのごとくきこえ、いつにもまして酷い頭痛はあるイメージを伴った。心理的な負荷に耐えかねた俺の神経が剥き出され地に堕ち、やがて地獄にまで垂れ下がり亡者となった爺の荒れた手が掴む。寝具の上でのたうつ俺は薬を飲むということさえ思い付かなかった。
身体を丸めているとカフカの『変身』で毒虫となった主人公の状態は、まるっきり今の自分のことかのごとく思えた。耐え難い惨めさだ。
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