第2話
あの男は信用しちゃダメ、と駅構内のベンチに着くなり言った。そして首筋の汗を袖で拭う俺に汗ふきシートを寄越した。額にかかる髪をかきあげ、幅広のカチューシャを装着した。湿った髪の末端をハンカチで拭った。
爺ですか
聞くまでもないことを尋ねるのは、愚か。中津のこと
わざわざ信用するなとおっしゃるワケは?
動物に、酒を呑ませたことを見咎められて、犯罪の片棒を担ごうとするのは変。私たちは、大阪駅まで連れてこられたわけだけれど、鉄道網のないところに住んでいる可能性を考慮していないことも変。まるで、私の住居を知っているみたい
俺だって知られているかもしれないですね
可能性は、高い。貴方は、深夜に出歩いていたときにつかまったのだから、おおかたバレてるようなもの
言いたいことはそれだけですか
大雲さんが、とても青くさいお子ちゃまだったから注意しただけ
そして彼女は黙ってしまった。昨晩は爺の目があったから引き下がった。今は、向こうからコミュニケーションをしてきたのだから、彼女から情報を引き出せると踏んだ。
どうして爺に協力するんですか
昨日も答えた
掏摸のような窃盗より殺人の手伝いの方がはるかに罪が重いじゃないか
好奇心、この歳になって久しく遊びがいのあるものを見つけた
それがあの爺だと
万引きや、掏摸にも、厭きていたところだった。私がする内容は、既に打ち合わせ済み。爺がすることも知っている。でも、貴方たち二人のことは、聞いていない
俺たちが手を組むのを恐れている……
そうかもしれない。そこは、確証がない。確証がないことは、話さないことにしている
彼女は環状線に乗った。俺は地下鉄でなければ帰れそうにないため、ホームに向かうべく歩いた。地下鉄東梅田駅までの距離はしれているものの、車を降りた地点からすると随分遠回りになった。
マスクをせずに母親と話す幼い女の子がいた。俺の方を見るなり、あのおじさんしんどそうなかお、と指をさしつつ母親に言った。俺は母親を睨んだ。
トイレにの鏡にうつる顔は確かにひどいものだった。顔を眺めていると自分がぼんやりとした不安と耳鳴りを伴う偏頭痛に苛まれていることをしった。安定剤を飲んでいなかったからだろう。
着信が入った。知らない番号だった。
あんた今どこにいる
大阪駅です
そっちに向かうからJRのホームから出るな。中央口にいろ
落ち合うなり中津は左右を確認し、あのババァを信じるなといった。
別に信じていない
大体の男は女を舐めて接するから隙を作る。俺を裏切る知性なんか女には無いという無意識だ
あんたはそうなんだろうな
なぜあの女は電車に乗ったんだ
知らないよ
お前、財布は
持ってる
長財布を取り出した。大学入学を機にスーツと同時に購入したものだから、良い品とは決していえない。表面はすでに傷まみれである。
なるほど、お前は無事だったのか。
何が言いたいんだ
あの女を富岳の家まで連れていったのは俺たちだ。その時も富岳の運転だった。あんたとは違ってあの女が乗車する前に爺は身体検査をした。爺が何を恐れたかは知らないが、あの女をそれだけ警戒していたってことだろう。現に奴のジーンズのポケットにはナイフが入っていた。内側に改造が施されていた。刃で肌を傷つけない工夫だ
そんな人には、見えなかった
掏摸で使うんだろうと思う。尻ポケットに財布を入れている奴の対策を、ウォレットチェーンを繋いだベルトループを切ったり鞄を裂いたりに使うのかもしれない。あるいは自衛用かもな。あの女は財布を持っていなかった
掏摸をしたということか
あの女が油断ならないことは確かだ
そんなに言うなら俺を抜けさせてくれないか
それはできない。あんたが逃げたとて、あんたに一目惚れした爺が諦めるとは思えない
嬉しくないな。人生で他人に好かれるのは初めてだ
免許は?
あるにはある。原付すら乗ったことないが
構わない。俺は少し寝かせてもらう。場所は、あんたの家で構わない。
中津は俺に鍵を渡し、後部座席で仰向けになってすぐに寝息をたてはじめた。岩見と中津は姿形はまるで違えど同じような環境下で育ってきたことを思わせる寝顔だった。
一方で俺は昨夜以来全く眠っていない。そもそも導入剤に誘われることなく自然に眠ることが滅多にない。
久しぶりに握ったハンドルはすぐに汗まみれになった。AT車にもかかわらず発進の仕方をググり、勝手に動き始めて焦りながら駐車場を出る。
そう遠くない我が家だ。電車でここから20分といったところか。50分後に家の近くのコンビニに着くまで無事故だったことに安堵した。
岩見が言うように、この男はきっと俺の家を既に把握しているのだろうか。そう考えると、あの夜以前からストーキングされていたということになる。
中津を寝かせたまま俺は家に帰った。
数日後、半醒半睡のまま夜を迎えていた。ドアを叩く音を無視していると何故か爺が部屋の中にいた。ドアを叩くのは中津だろうか。ところが問題はそこではなく、鍵はかけていたことだ。このアパートにオートロックなんていうハイテクは備わっていない。
どうやって入った
夏とはいえ窓を開けたまま眠るのはよくないよ。俺だからよかったようなものだ。空き巣は地上だけでなく屋根からもやってくる
我が家は四階建てアパートの三階であることを度外視すれば、侵入経路を把握できた。ドアを開けると岩見であった。常人らしく階段を用いたようだ。窓の施錠も確認し、俺は二人についていった。
今度は中津が運転するようだ。ハンドルにもたれ掛かり待つ彼だったが、俺達が見えたらすぐにドアを開ける。ハイヤー運転手のような身のこなしだ。
お前はもう少し身を守ることを考えないとな
中津は笑いを堪えつつ言った。
中津くんの言う通りだ。まぁそれはいい。こんなにも急がねばならない事情を言っておこう。それは俺の寿命が不確かなことだ。明日かもしれない。10年後かもしれない。つまりその点においてはあんたらと変わらない条件なのだが、そこに加えて俺には基礎疾患がある。流行りのウィルスは大阪でかかると厄介だからな、東京より死ぬ可能性が高い。俺は臆病者だから怖くて怖くてたまらない。皆に勘違いしてほしくないのは、食人なんていうぶったまげたことをしようとする俺だがな、根はそこらを歩く市民よりもいわゆる草食系男子だということだ。野望は早く叶えることにこしたことはない
爺は車中でもひたすら喋り続けた。中津は欠伸を噛み殺してうつろに運転している。岩見は、またしても眠っている。爺は俺にずっと語りかけているが、その両目は本当に俺を見つめているのか分からない。俺の瞳に映った己との対話をしていたのかもしれない。
ショッピングモールの駐車場に着くと中津は岩見を起こし、爺が身を乗り出しながら意気揚々とこれから何をするのかを語り始めた。
今から掏摸をする
爺は一言述べただけだった。すると岩見は、
私が男から盗るから、中津さんはターゲットの背を押すなり喧嘩を売るなりで気をひいて。富岳さんと大雲さんは、どちらかが私から預かる
俺がやる。童貞に汚れ仕事はさせられない
中津さんはそれでいい
構わない。大雲、お前はどうせ足手まといだからここに残れ
爺は小銭入れをよこした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます