悪いやつら

古新野 ま~ち

第1話

 髭でマスクの内側が毛羽立ち、鼻を擽る。炎天下の中を震えつつも汗をしとどに流して精神科に向かう。まだ薬はある。だが、医者はいつでも来いと言っていた。俺がキリスト教の信者なら告解に行くのだろうか、いや、グラントリノでイーストウッドが童貞に何が分かると言っていた。

 待ち合い室には老人たちが多い。老年精神科と掲げているからか。耳が遠いらしく付き添いとの会話は姦しい。浮腫んだ顔の男が彼らを睨めつける。職場と連絡をとるサラリーマンの方は見ないのに。

 ネットニュースに目を落とす。新型コロナのワクチン接種状況、オリンピック、芸能人の舌禍、政治家の所得隠し、通学バスで起きた事件、高校野球地方大会の様子、海外の異常気象、米中対立という文字列の中にある拭いがたい腐敗を嗅ぎ便所で嘔吐し、俺を見咎めた受付の職員に体温を測られた。


 今日はどうされましたか、まだお薬は切れてませんが


 カルテにペンを走らせる医者の顔は見ず、俺はまず、発端の夜、歩道橋で出会った富岳という名とおぼしき爺のことを切り出した。爺は、おい兄ちゃんといい、粗雑に肩を掴んだ。弱い力だったが、呆気に取られた。何か用ですかと言った。


 お前の顔は間違いなく彼女がいない


 世の中の狂気で頭が変になったんだと哀れに感じた。


 童貞だな。必要なのは童貞なんだ。どうだ焼肉に行こうか

 嫌です


 気持ち悪い、とは続けなかった。先を見ないまま駆け出し、歩道橋の階段を躓きそうになりつつ、一刻も早く家に帰るべく走り出すと、目の前に青年が現れた。街頭の灯りだけでは顔が明瞭ではなかったが、鼻を針で刺すような腋の臭いを感じた。俺の肩に手を回して車の後部座席に案内した。彼の腕か俺の首の汗か分からなくなるほど蒸し暑い車内だ。爺が運転席に来るまでに青年は中津だと名乗った。

 爺は片手に持った煙草を、レーザーポインターのごとく俺の額あたりに向けた。興奮した哲学者が相手を言い負かそうとするかのごとき様子で、


 高くない肉だが我慢してくれよ。財産の限界があるんだ。だがな、いちおう牛肉は肉屋で買ったぞ。冷凍じゃないからな。脂のノリは期待してくれていい


 喋ることに熱中し灰が飛び散っていることも気にしない。俺の顔を見つめつつ車を動かしていた。


 ベジタリアンじゃないよな? まぁ野菜も用意したさ。もやしだけだがな。ベジタリアンは善いことだ。牛をどれだけ大切に育てても食うのが俺や童貞のあんたのようなのなら死んでも死にきれないだろうさ。動物が苦痛を味わうのは善くないな。昔なら動物の生を実感できたかもしれないが、坊やたちは牛なんて見たことないだろう? 薄く切った肉片でしか牛に出会ったことがない。昔イタズラを考えたんだ。もし子供が産まれたら、牛肉と豚肉とをてれこにして食育してやろうってな。たった今考えたイタズラにしては良いアイデアじゃないか?


 俺が一言も挟めずにいる間に、富岳、と表札を掲げた陋屋についた。仮に真昼に見ても蛇や虫の住み家としか思えないようなものだろう。錆びた鉄が擦れる音が谺する。裸電球に照らされた玄関にピンクのスニーカーがあった。


 居間に通されると、外観の印象よりはるかに清潔で驚いた。テレビやタンスといった家具もなく、白熱灯の熱い真っ白な光が部屋の隅々まで照らす。

 正座して待つ痩せた中年女性がいた。岩見と名乗った。彼女は俺を見るなり、骨が際立つ手で顔をおさえた。大袈裟に呆れたということを示している。

 座卓は生肉ばかりだ。1キロパックの豚肉と鶏肉、ホルモン、砂肝、そしてもやし。どこにも牛肉は無かった。全て大手スーパーチェーンのラベルがあった。

 えぇ、皆さんに集まってもらったのは他でもありません、と豚肉を焼いた煙の向こうで爺が水道水を片手に立ち上がった。


 牛、豚、鶏、と用意したこの晩餐会に何か足りないものがあると思いませんか? 中津くん

 鹿とか?

 ジビエは美味しいが、自然界の生物を我々の糧にする必要なんてありませんよ。岩見さん

 魚?

 俺は海の連中が嫌いでね。鯨ならまだしも、生臭さは耐え難い。大雲くん

 酒ですか?

 良い着眼点だ。俺が池上彰なら褒めてキスしてしまうだろうな。でも全員ハズレだ。答えは人だよ。別に皆に食べてもらおうとは思わない。安心してくれよ。ただ、ちょっと手伝ってほしいだけなんだ。中津くんは動物虐待者だし岩見さんは掏摸の常習犯とそれぞれ個性的な能力を持っている。狩猟に際し、十分な働きが期待できる。一方、大雲くんのことは童貞であること以外、俺は何も知らない。だけれどそれでいい。古い人間だから接待してほしいだけなんだ。皆も俺が手を下すから安心してほしい。


 俺達は肉を食べた。生肉が焦げていく音や適度な焼き加減になった香りを感覚すると臓腑の求め欲する声が聞こえた。脂を含んだ煙の向こうにいる爺は満面の笑みで頬張っている。タレが用意されておらず塩胡椒のみだった。爺はそれすら付けなかった。鶏肉を突き刺し串焼きのごとくかっ食らう様は品性を示す。あまりにも戯画的であり、爺が自分をそのような粗野で手の付けようのない山賊であることを誇示しているようだ。


 中津はすぐに箸を止め、電子煙草を片手に動画を眺めていた。汗臭かったシャツとは違い、白いタンクトップに黒のボクサーパンツという姿になっており、パンツはともかくタンクトップは爺のものを借りたのかもしれない。


 岩見は体格に似合わず、豚肉1キロはほとんど彼女が平らげた。箸をねぶり肉汁すらを味わって食べているというより豚の脂肪をこの世に遺すまいとしているかのようだ。最終、彼女が豚肉のトレーを手元に置いていた。麺類のように豚肉を食べていたところに声をかけた。水を注ぎましょうかと言った。


 君は逃げなくて良いの

 いずれ逃げます

 無理。私の知り合いのほとんどは、よからぬ縁にズルズルと滑り落ちて、同じ穴の狐になったんだから。闇に見初められたら、もう遅いんだから

 岩見さんは?

 私は、あの男に脅されているから、逃げることができない

 本質的な理由にはなってません


 彼女は水を啜った。ようやくもやしを食べた。沈黙した。


 翌朝、中津が出勤するというから――どうやら車は彼のものだったようだ――彼の運転で近くの駅まで送ってもらうことになった。俺が助手席で岩見が後部座席。彼女は発進間もなく眠った。


 動物虐待のことは本当か?

 近所の盛った猫に酒を呑ませただけだよ。そろそろ着くぞ

 構わず行ってください

 あんたはいいが、そっちで寝てるババァが

 構いません


 岩見が起きた。


 中津さんが、我々のなかで最も残虐なようです。富岳が、大雲さんに何を見出だしたかも、知っておきたいですね

 ババァは知らなくてもいいだろ

 ええ。女は生きてりゃ、ババァになりますから

 人を殺めたことはあるんですか

 あるわけないだろ

 暴力事件は

 喧嘩ならあるがな。そもそも動物だってあのジジィに見つかった一度だけだ


 気がつけば我々は大阪駅の近くまで来ていた。中津曰くここからなら何処であっても帰れるだろうとのことだ。あんたはともかく、ババァは後ろ暗いようだしなと言った。その視線を真正面から受け止めた岩見は慇懃に礼をいった。


 彼の車を見送ると、岩見はついてきなさいと俺の手を握った。俺はされるがままにJRに向かった。

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