第29話 『にゃーっ!』
——ああ、これはいったい何の悪夢だ。
長い長い眠りから目覚め、だが身体が動かない……。男は、そういった夢を何回も見ていた。
意識が少しずつ覚醒すると共に、記憶も除々に戻り、その記憶が途切れ途切れであることも確認する。
されども身体は、指先ひとつでさえ、ぴくりとも動かない。声もまた出すことが叶わない。
そして、それらに抗うべく、心の力というものに集中し始める。するとまた目覚めるのだ。
——もう何回、このような夢を見たのだろうか。
男は、何度目かの目覚めの後、やはり何度目かの意識の集中を始める。
しかしながら今回ばかりは、少し様子が違っていた。
それまで瞼の裏に映るのは真っ黒な闇であったものが、ほんの微かにではあるが光を感じる。
何よりも、しんと静まり返った静寂の中に身を置いていた筈が、何やら周囲から騒がしく声が聞こえるのだ。
——
しかし、その騒がしさは嫌なものではなかった。寧ろ懐かしく心地良くさえ感じられる。
何を話しているのかは判らぬが、自分を名を呼んでいるかのような気さえするのだ。
いつしか男は、その快い気持ちに包まれ、より深い眠りに入ってゆくのであった。
○ ● ○ ● ○
「ほら、そこ、もっとしっかりと洗いなさい」
既に自分の足を洗い終え、雑巾で拭き始めたジュウベエが小言めいた口調で、未だ桶の水の中で足をぽちゃぽちゃと揺らしているミトに言う。
その言い方が、まるで兄様のようだと、少し可笑しくミトは思う。爪先が触れている冷たい水の感触が、思いのほか気持ちが良い。
ミトの住む東の都にある屋敷では、都の生活様式に合わせて、彼女を含め家人も皆、風呂を湧かして入っていた。
しかし今時分の季節になると、どうしても屋敷の裏手から続く森へ出掛けてゆき、泉に飛び込みたい衝動に駆られる。
この旅に出る前、都では、いつもよりも春の訪れが遅かったせいか、梅雨も長引き、沐浴日和になる日は少なかった。
年が明けてからは、お気に入りの泉に出掛けることもなく、あの清らかな水が恋しく思う気持ちばかりが膨らむ。
昨日も今日も、旅に出てからは、絶好の沐浴日和が続いていたのだが、それ以上に好奇心を惹かれるものが多過ぎた。
足先だけであるものの、井戸から汲み上げた水のひんやりとした感触は、ミトに沐浴を巡る様々な想いを甦らせる。
——そう言えば、兄様の旅の手帖にはオンセンとかいう、お風呂と泉を掛け合わせたような場所があるって書いてあったっけ。
ミトは桶から足を上げると、ぶんぶんと上下に振って水を切り、ジュウベエの置いていった雑巾で足を拭き始めたのだった。
「踵がまだ濡れたままではないか。しっかりと拭きなさい」
ミトが、すっかりきれいになった足で、濡れ縁をぺたぺたと歩き出すと、どこかから兄様の声がしたような気がする。
きょろきょろと辺りを見回すと、声の主は兄様ではなく、庭に立つジュウベエであった。
玄関から回って来たのであろう彼は、草鞋を履き込み、その手には荒縄が握られている。
ばつが悪そうにニッと笑ったミトは、改めて足を拭き直すが、ジュウベエの手の荒縄に目を留めると、ぷくりと頬を膨らました。
「そんなもので、ワタシにお仕置きしようなんて、ちょっとヒドいじゃない」
「何を言っておるのだ、いったい君は」
ミトの目が、その手の縄に注がれているのを知ると、ジュウベエは呆れたような表情になる。
「これは、それ、
ジュウベエは、力尽きて倒れている男を指し示すと、彼に近付き、器用に縛り上げ始めた。
「あははっ、そうだよね。おかしいと思ったんだ」
照れ笑いを浮かべたミトは、そっとジュウベエから視線を外すと、娘の臥せっている座敷へと向かう。
「明るくなったら、屋敷の掃除をするぞ。まったく、どこもかしこも足跡だらけではないか」
座敷に足を踏み入れかけたミトに、背後からジュウベエの声が届いた。
「君といい、ハンゾウといい……」
妙に生真面目なジュウベエの声を聞きながら、ミトは都の兄様を思い起こす。
ふたりが似ているという訳でもないが、いつでも自由奔放なミトの心を、見透かしたような物言いをするところなどはそっくりだった。
でも不思議と嫌な気持ちにはならない。それどころか、今日もまた叱られてしまったと、嬉しかったりするミトなのであった。
「まだ旅は始まったばかりだというのに、郷愁でも感じちゃったのかしら、ワタシときたら」
全く似てはいない筈のジュウベエは、しかしどことなくではあるが、ミトは兄様と一緒にいるような心持ちとなる。
——一人で旅に出るなど百年早い。
まだ幼かった頃、都の屋敷を抜け出して、あっという間に連れ戻された折りに。そして近頃では、旅を願い出るミトに兄様はそう言った。
この旅は、自らの冒険心を満たすためばかりではない。いつも子ども扱いする兄様の鼻を明かしてやろうという旅でもある。
こんな大変な時なのに、いや大変な時だからこそか、昔の話からごく最近の出来事までがミトの心に浮かび上がり、そして静かに消えていった。
座敷に入れば、既にその枕元に佇んでいた仔猫が、近付いてくるミトを、その
ミトは去来する様々な想いを振り払うかのように、ことさら乱暴な仕草で、その傍らにどかりと胡座をかいて座った。
臥せっている娘の寝顔が、先ほどまでと変わらずに安らかであることに安心する一方で、いつまでも目を開かないことに焦りを覚える。
しかしながら今は、傍らの仔猫と共に、その規則正しい寝息を立てる娘を、不安気な眼差しで見つめるより他はなかった。
自分とは、見た目だけでは、そう年は変わらないように見える彼女の寝顔は、ミトよりも遥かに大人びているかのようにも感じられる。
彼女が、周囲から子ども扱いされることは、おそらくはないだろう。自分と彼女を隔てるものはいったい何なのであろう。
許嫁が居たり居なかったりの違いだろうか。それともやはり発育の度合いだろうか。いや、そんな筈はない。ないと思いたい。
いつしかミトの思考が、
思わず、娘の顔を覗き込むミト。今度は大きくひとつ息を吐き出した娘は、ぱちりと目を開け、やにわに起き上がる。
お互いの額と額とが勢い良くぶつかり合う音が響く。ミトは大きく仰け反り、傍らの仔猫は驚いたまま固まったように動けずにいた。
「にゃーっ!」
妙な叫び声を上げて仰向けに倒れたミトだったが、ひとしきり唸ると額を摩りながら起き上がり、慌てて娘の具合を案じる。
「ごめんなさい。大丈夫?……じゃないよね?」
両手で顔を覆うように押さえたきり転がったままの娘を、擦り寄ったミトと仔猫は気遣わし気な表情で見つめた。
「……痛い……」
呻くように、その口から溢れる言葉に、ミトはあたふたと狼狽えるばかりで、謝罪の言葉しか出てこない。
「ごめんなさい、痛かったでしょう……」
突然、娘は顔を覆っていた掌を外すと、にっこりと微笑む。その笑顔は以外にも年相応で無邪気に見えた。
「なあんてね。大丈夫よ、もう」
笑顔で半身を起こした娘に、ミトは飛び掛かるように抱きつく。
「良かった。目をさまして。心配したのよ」
娘もまた、ミトの背中に手を回して、きつく抱きしめる。
「ありがとう。あなたのお陰よ」
昨晩、出会ったばかりのふたりであったが、抱き合って無事を喜びあうその姿は、まるで何年来かの友人同士のようである。
いつの間にか再び低くなった月が、夜明け前の暗闇を、その明かりで照らし出し、ふたりの影を長く伸ばすのであった。
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