第28話 『足が、すっかり泥まみれではないか』

「ねえねえ、ハンゾウ。あの影みたいなヤツ、今いただきますって言わなかった?」


 背後から顔を覗かせるミトが、興味深々といった風にハンゾウに囁き声で問いかける。


「それにナニよ、アレ。影のくせに、人みたいに見えるんだけど。気持ち悪ーい」


 ミトの問いかけに、それには気付いてはいないようにハンゾウは取り合わず、その目線はあやかしだけに注がれた。




 その人のように見える何かは、平たい影である筈なのだが、いつの間にか厚みを増し、有り得ない角度でその手足をくねくねと蠢かす。

 身体から黒い宝玉を抜き取られた男は、見る見るうちにげっそりと痩せ衰え、その首も四肢も力をなくし、ぐったりと胴体からぶら下がっているばかり。


 真っ黒な影は男の身体をぼろ雑巾のように、ぽいと地に打ち捨てると、そのてのひらで転がしていた宝玉を、鮫のように広げた口の中へと放り込む。

 宝玉をごくりと飲み込んだ途端、ぶれていた輪郭はくっきりと形を成し始め、かろうじて人のように見えていた影は、どう見ても人の、しかも女にしか見えない姿に変貌した。


 しかし、その女の姿、ことに顔の部分は、照らされる月の明かりとは逆光となっており、それを見定めるのは難しい。

 しかも不気味なことに、おそらくは、どの方向どの角度から見たとしても、その顔の子細な部分は判然としないのであった。




「アイツ、笑ってるのかしら。気味が悪いわ」


 ハンゾウの背中越しに、上から横からと忙しなく覗き込んでいたミトがふと呟く。

 月が逆から指す影の女の顔が、良く判らないのに、笑っている気がしたのだ。

 それに気付いた途端、ミトの背にぞわぞわとした得体の知れない冷たい悪寒が走る。


「ああ、確かに嗤ってやがるぜ……。ってまだいたのか」


 ちらりと振り返ったハンゾウは、驚いたように声を上げる。


「ええっ?! さっきから、ずっと後ろにいたよー」


「うわっ、それはそれでちょっとコワい」


「ぶー、この可愛いワタシの、ドコがコワいってのよ」


「ああ、いや、そういう意味じゃなくてだな」


 ハンゾウは、影の女に視線を戻すと、そのままミトとの会話を続ける。


「おかしなところはないか」


「ワタシのナニがおかしいってのよ」


「身体が動かねえとか、頭が痛えとか」


「あははっ、そーゆーのはないよ、全然」


「そんだけ騒げりゃ、大丈夫だ。今度こそ、屋敷の中にでも下がってろ」


 背中越しのハンゾウの声に安堵が混じり、しかし、その後半は以外にも厳しさを以て響く。


「向こうの座敷には、ジュウベエもいる。今夜は俺を追い掛けて来るんじゃねえぞ」


 ふたりと対峙していた影の女は、ゆらゆらと揺れながら少しずつ後ずさり、夜の闇に紛れようとしていた。


「こらっ、待ちやがれっ」


 逃げようとする影女に向かって駆け出そうとするハンゾウの帯を、突然ミトが後ろからきゅっと掴む。


「ちょっと、ドコにいくのっ?!」


「どこって。アイツを追っ掛けるんだよ」


「あっ、そーか。ごめん。でも……」


 掴んでいた帯からぱっと手を離すミト。その声には不安げな響きが入り交じった。


「ワタシは大丈夫なんだけど、何かヤーな予感がするのよね……、背中がぞわぞわ落ち着かないのよ」


 ハンゾウは、振り返るとミトの顔をじっと見つめ、諭すように言葉を紡ぐ。


「心配してくれんのは、ありがてえんだが、俺だったら大丈夫だ。日が出る頃には戻るから安心してくれ」


 それだけ言うとハンゾウは、くるりと踵を返し、庭の奥の暗がりに去ろうとする影の女を追って走り出すのであった。




「ああっ、いっちゃったよ、もー」


 影の女と共に暗闇の中に消えていったハンゾウの背中を見送り、ミトはその場に立ち尽くす。

 それまで大人しく肩の上に乗っていた仔猫が、ひらりと地面に降り立つと、倒れていた男に向かって唸り声を上げた。


 力尽き、倒れ込んでいた筈の男は、よろよろと立ち上がり、ハンゾウの消えた暗がりへふらふらと歩き出そうとしている。


 ミトは意を決して、男の背中に追撃の一撃を加えようと、先ほどの蹴り技を繰り出した時と同じく、姿勢を低く構えた。


「やめておけ」


 その時奥座敷の方から、静かながらも凛と力強い声が、ミトを呼び止める。


「その者は、既に戦意をなくし、逃げ出そうとしている」


 聞き覚えのあるその声に、ミトが振り返ると、濡れ縁からジュウベエが庭へ降りてくるところであった。


「逃げ出そうとしている者の背中を斬るなど、武士のやることではあるまい」


 そういうとジュウベエは、庭に放り出されたままだった愛刀を拾い上げ、そのまますたすたと逃げる男の正面へと回り込む。


「……置いて……行かないでくれ……」


 独り言ともつかない言葉を呟く男の、その目には眼前に立つジュウベエすら映ってはいないようだった。


「ふむ」


 掴んでいた愛刀を腰に差し直したジュウベエは、いきなり男の横面を平手で張り倒す。


「しっかりしろ、バカ者が。察するところ、貴様も元は武士の端くれであろう」


 男は張り倒された勢いで、そのまま再度仰向けに倒れ込んだ。倒れる瞬間、ジュウベエとほんの一瞬だけ目を合わせる。

 その目には、もはや何の力も残ってはいなかった。が、妖に冒されていた頃に宿していた、狂気の光もまた消え失せていたのだった。




「ああっ、やっちゃったよ、もー」


 ミトは、あまりにも普段通りの彼の言動に、唖然とした表情で見守るしかない。


「この人、ただの人じゃないんだよ。妖だか何なんだか正体不明で……、とにかく危ないじゃない」


「その危ない者に、後先考えずに最初に蹴りを入れていたのは、君の方であろう」


 我に返ったミトが不安を訴えるも、ジュウベエは至って冷静で、いつもの鹿爪しかつめらしい表情を崩さなかった。


「その者には、もう妖の力など宿ってはおらん。本当に危ない奴は、今しがたハンゾウが追っていったではないか」


「それは、そうなんだけど……。ハンゾウのことが心配じゃないの?」


「やつは、胡散臭いが、見てのように腕は立つ。任せておいて心配なかろう」


「ってジュウベエ、いつから見てたのよ」


「いつからも何も、始めからだ」


「ええっ、そうなの。どこから見てたのよ」


「どこからも何も、そこからだ」


 ジュウベエが差し示すのは、ミトの出て来た表座敷から見て斜向い辺り、鍵型に出っ張っている奥座敷だった。


「ええっ、あんなところにお座敷があったんだ」


 驚いたようにミトは、表座敷と奥座敷を見比べていたが、何を思ったか、やにわに自分の出て来た表座敷へと駆け込む。

 ばたばたと廊下を走り回っている音が玄関側へと遠ざかり、再び近付いてきたかと思うと、そのまま通り過ぎた。


 今度は足音が屋敷内、奥の方へと向かう。奥座敷の惨状を目の当たりにしたのであろう。ミトの小さな悲鳴が聞こえてくる。

 暫くすると、屋敷の中を一通り巡ってきたミトが、ぜいぜいと息を切らせてジュウベエの前に戻ってきた。


「アレは、どうしたのっ。ジュウベエがやったのっ」


「落ち着きなさい。あれとは何だ。何のことだ」


「あのお座敷のアレよっ。しかも誰か、おサムライさんが倒れてたんだよっ」


「ああ、あれならばハンゾウの仕業であろう。妖と一戦交えたらしい」


「倒れてた人は誰? 無事なの? あの人がジュウベエのお友達?」


「友は体調を崩して寝ているだけだ。彼が妖如きに遅れを取る筈はなかろう」


 まだ何か言いたげなミトを片手で宥めて、ジュウベエは言葉を続ける。


「ときに、先ほどから非常に、気になっていたのだが……」


 そう言うとジュウベエは、殊更ことさら鹿爪らしい顔でミトを見つめた。


「座敷に上がる前には、まず足をきれいに拭きたまえ」


 ミトが邸内を駆けずり回っている間に、庭の片隅に設けられた井戸からでも汲んできたのであろう。

 いつの間にかジュウベエの足下には水を満々と湛えた桶が、その手には絞った雑巾があった。


「君もわたしも、裸足で庭に降りてしまった。足が、すっかり泥埃どろぼこりまみれではないか」

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