第27話 『我流奥義っ! 肉球脚っ!』

「ワタシの可愛い子ネコちゃんっ!」


 スパーンと良い音を立て、ミトは障子戸を左右へと大きく開け放つ。


 この屋敷までの道程、仄暗い竹の小径を導いてくれた、先に邸内に消えて以来、行方が判らなくなっていた仔猫。

 目に入ったのは濡れ縁の上。その小さな身体の、虎に似た縞模様の毛を逆立て、牙を剥き出し、低い唸り声を上げている姿。


 そして仔猫の先には、怪し気な男が、おかしな動きで立ち上がり、よろよろとこちらへ近づいて来るのが見える。

 仔猫は濡れ縁から降りたところ、ミトと怪しい男の間、まるでふたりがいるこの座敷を守っているかのように立ち塞がっていた。


 ミトの動きは一瞬だった。


 低く身を屈めた彼女は、全身をしなやかな弾機のようにしならせ、天高く跳び上がったのだ。


「曲者めっ! これを喰らえっ!」


 怪しい男とを結ぶ、急激な放物線。


 その頂点で、ミトは男に向かって両足を揃え、まるで一本の矢のように飛び掛かる。


「我流奥義っ! 肉球脚っ!」




「お前、助けに来てくれたの……」


 ミトの顔を見た途端、何故か怪しい男の顔には嬉しそうな笑顔が広がり、その手は縋るように彼女に向かって伸ばされる。


「かっ?!」


 しかし最後まで言い終わらぬうちに、男の眼前には、天高く舞い上がったミトの足の裏が迫り、そしてそれは、そのまま激しい勢いで顔面に撃ち込まれた。


 男の顔面を捉えたミトの両足は、男を踏み台のようにして蹴上がり、彼女は宙にて後ろ向きにくるりと回転すると、きれいに着地を決める。


「……俺を裏切る……の……か」


 どうと仰向けに倒れた男は、少しだけ首をもたげ、ミトを睨みつけた。


「裏切る? アンタとは初めて会ったんですけど」


 男の方へと振り返ったミトも、眉を上げ、負けじと言い返す。


「……お前は、あの女とは別人か……。何者だ……」


 目だけ動かし、ミトを上から下まで凝視していた男が、心無しか胸の辺りで視点を止め、そう呟くとがっくりと首を落とした。


「ドコ見てんのよっ。ココはこれから育つのっ」


 両腕で胸を隠すように庇い、半身を捻っていたミトだったが、すぐに男を不穏な目つきで睨み返すと、彼の前へドンと踏み込む。


「ふっふっふ。どうやらアンタ、命が惜しくないようね」




 ハンゾウがあの男を追って、庭に出るより一瞬早く、座敷一つ分を隔てた場所より、障子戸が開かれる小気味の良い音と共にミトが現れる。


 声を掛ける間もなく、ミトは訳の判らない、察するに必殺技の技名を口走りながら、男の顔面に見たこともないような蹴り技を叩き込んだ。


 呆気にとられるハンゾウを尻目に、ミトは倒れた男と何やら不用心に言葉を交わし、あまつさえ不用意に近づこうとしている。


「おっと、感心している場合じゃねぇな」


 ミトの繰り出した大技に、思わず見入ってしまったハンゾウだったが、倒れていた男が再び動き出すのを認め、その表情が変わった。


「待てっ、ミト。に近づくんじゃねぇ」


 ハンゾウは叫ぶが早いか庭へ飛び出すと、ミトの着物の襟首を掴んで、近づきかけた男から大きく引き離す。


「ちょっとー、何すんのよー。これからアイツに引導を渡してやるんだからー」


 いきなり首根っこを掴まれたミトは、手足をじたばたとさせ、ハンゾウから逃れようと暴れまくった。


「ハンゾウまでココにいるってどーゆーことよー。ワタシのジャマしないで」


 ミトは自分を捕らえているのがハンゾウだと判ると、ほんの僅かな間だけ、きょとんとした表情を浮かべたが、すぐに猛抗議を始める。


「バカッ! をよく見ろっ!」


 抱きかかえるように、ミトを守ろうとするハンゾウの示す指の先には、先ほどまで倒れていた男がゆらゆらと身を起こしているのが見えた。

 その動きは、至って不自然でぎこちない。だが、良く目を凝らせば、見えてくるのは、男を抱き起こすように背後に蠢いている黒い影。


「なにアレ? 気持ちワルッ!」


 暴れるのも忘れたミトは、男と、そこに蠢く影をじっと見つめる。影はくねくねと妖しく揺らぎながら、徐々に人の形を取り始める。


「あまり側に寄るな。瘴気に当てられるぞ」


 ハンゾウの言葉にハッとしたように我に返ったミトは、知らず知らずのうちに、その影に魅入られたかのように、目が離せなくなっているのに気が付いた。


「そこのチビ助連れて、下がってな」


 飛び跳ねるように踵を返したミトは、未だ臨戦態勢を解かない仔猫を抱き上げると、ハンゾウの背中越しに、恐る恐る妖どもを眺めるのだった。




 朦朧もうろうとした意識の中、あの女の腕に抱き起こされた男は、安堵の表情を、微かにその目だけへと浮かべる。


「……お前か。今度は本物か……」


 何故なにゆえかは判らぬが、男はその全身から、僅かに残っていた力までもが抜けていくような心持ちを覚えていた。


「…………」


 見上げた女の口元が動き、何かを告げているようだが、男には何を言っているのか聞き取ることができない。


「……何だ。何を言って……」


 その後は、既に声が出すこともままならない。喉の奥からひゅうひゅうとした乾いた空気が漏れ出るだけだ。


「お前の歪んだ感情は、誠に美味であった。正しいのは己だけで、間違っておるのは世間だという、甚だしい思い違いによる、その傲慢さ。何かを勘違いして生きているとしか思えぬ強欲さ。激しい逆恨みによる怒りや悲しみ。一方的な思い込みでぶつける恋慕。にも関わらず、己は何の努力もしない怠惰さ加減。いびつなお前が育てた、いびつな感情。わらわは思う存分堪能したぞ。いつぞや喰ろうた、鉄砲とやらを振り回していたあの男よりも、或いは上物だったやもしれないねえ」


 何を言っているのか判らなかった耳鳴りのような雑音が、突然意味を持った言葉として、男の頭の中に流れ込んできた。


わらわをお前の仲間か理解者だとでも思っておったか。よもや妾に欲情でもしておった訳ではあるまいねえ。いや、一向に構わぬぞ。寧ろそこまでの想って貰ったのならば、それは本望。育てた甲斐があるというものよ。その情欲までも美味しく戴くまで。そうよの、妾はお前を育てておったのよ。美味しく実るまでのう。別段お前を呪ったり、お前に取り憑いていたのではない。いつでも側におってお前を育てておっただけなのよ」


 男は、その言葉を聞いても、最早何の感慨も湧かない。言葉は判るものの、理解が追いついてゆかないのだ。


「お前はわらわの見込んだ通り、見事に実ってくれたねえ。おや、気付かなんだか。これまでも度々、お前に実ったものを戴いておったよ。もっともお前に悟られぬよう味見程度に摘んでおっただけだし、お前も妾のことを疑おうともしておらんかった。まあ欲を言えば、絶望であるとか、恐怖であるとか、最後にもう一味付け足したいところよ。だが食べ頃は、今を置いて他になし。そろそろ最後の収穫をさせて戴くとしようぞ。お前の愛する、妾の糧となるが良い……」




「なあ兄ちゃん、それ以上あやかしと話すのは止めといた方がいいぞ」


 ハンゾウの言葉で、それまで頭の中へ流れ込んでいた声が断ち切られる。


「……妖だと。この女は俺の唯ひとりの……」


 男は僅かにだが我を取り戻すと、やっとのことで枯れた声を絞り出した。


「兄ちゃんには、ソイツが人に見えてんのか」


 ハンゾウの言葉に、男はぼんやりと自分を抱き起こしているものを見上げる。


「……人……妖……判らん……」


 男の目に映る女の顔が、一瞬ゆがみ、ぶれ、それが真っ黒な影に変わり、そしてまたすぐに元の女の顔に戻った。


 人の女の姿をした何かは、男の懐の内にその腕を伸ばし、彼の胸の辺りを盛んに弄る。

 やがて、何物かを探り当てたかのようにぴたりと止まった手は、指先から男の胸にめり込んでいった。


 男は声も上げることもなく、痛みの表情もなく、おぞましいその様を、ただ惚けたように見ている。

 男の顔が歪んだのは、かの指先が胸元から、真っ黒な炎を宿した宝玉を取り出した時のことだった。


 宝玉は、かつて男の持っていたそれとは違い、随分と小さなものであったが、内に燃え盛る黒い炎は格段に強いように見える。


「……や……め……ろ……」


 呻くように声を上げる男の、更に歪んでゆく顔を見下ろしながら、その妖は宝玉をてのひらと思しき上で弄ぶ。

 耳鳴りのような雑音が、再び男の頭の中を覆っていき、やがてまた意味を持った言葉として広がった。


「ふふっ。堪らないねえ、その顔……。では戴くとしようかしら……」

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