第30話 『なかなか追いつけねぇな』

「ところで……」


 暫く抱き合っていた後、娘から抱いた腕を放したミトは、目元に浮かんだ涙を拭い、出そうになった鼻水を啜り込むと、やにわに真剣な瞳を彼女に向ける。


「お姉さんは本物よね。もう消えたりしないよね」


 ——まあ。と娘は一瞬だけ驚いた表情になった後、口に手を当てて、くすくすと上品に笑い出した。


「心配ないわ。私は、私よ。正真正銘の」


 そう言うと、笑っていた娘は居住まいを正し、ミトに向かって指を着いて深々と頭を下げる。


「ありがとうございます。ミトさんのお陰で元に戻ることができました」


 ミトは大きく手をばたつかせ、真っ赤になって照れまくった。


「いやー、そんな。ワタシ、大したコトしてないし……」


 片膝立ちになっていたミトのすねに、仔猫が顔を擦り付ける。


「ほら、この子も、ミトさんにありがとうって」


 頭を上げた娘は、ミトにじゃれつく仔猫を膝に抱き上げると、その頭を撫でる。


「あなたもありがとう。助けにきてくれて、良い子ね」


 仔猫は娘を見上げ、得意気に一声鳴くと、彼女の膝の上で丸くなった。


 ミトもまた、ぽすんと座り直し、改めて不思議そうな表情で娘を見つめ、そして娘の膝の仔猫へと視線を落とす。


「あの……、こんなことを聞くのもヘンなんだけど、ワタシとココまで来たお姉さんと、今、目の前のお姉さんは同じ人……なんだよね……」


「そうなのです。お恥ずかしながら、あの者たちから逃げる時に、自分でも判らぬうちに肉体を離れた魂だけの存在となってしまったようなのです」


 娘は、庭の方をちらりと一瞥する。ジュウベエの姿は既になく、男は後ろ手に縛り上げられ、ご丁寧に庭木の幹に繋がれていた。


「魂だけの私には、戦う力はありませんでした。冒険者組合ギルドの詰所にも伺ってみたのですけれども、どなたにも存在を気付いては貰えず、途方に暮れていたのです。でもミトさん、あなたが私を見つけてくれたのよ」


——魂だけの存在。そんなものがあるなど俄には信じ難いが、思い返せば、確かに不思議なことが多かった。


「あなたの魂は元気な金色に輝いていて、それは美しかったのです。お連れの方の魂も、青く気高く、赤く暖かく輝いておりました。まるで、ミトさんがお持ちの宝珠のように内に秘めたる大いなる力を感じたのです」


 娘が魂だけの存在として事を為していた時の話に、ミトはその好奇心でいっぱいの目を輝かせて聞き入る。


「戻ってきてみると、空っぽだった私の身体に、それを魂と呼ぶのも憚られる真っ黒なものが宿っていたのです。その穢れた魂を追い祓ってくださったのもミトさん、あなたなのです。それが、どれほど嬉しかったか」


「ワタシからしたらお姉さんの方が、ずっとスゴいよ。魂だけでなんて、まるで森の精霊みたいじゃない」


 ——ミトさん、あなたと言う人は、本当に純粋な方なのですね。


 その目をキラキラと輝かせてはしゃぐミトに注がれる、再びくすくすと笑い出した娘の眼差しは、どこまでも優しかったのであった。



  ○ ● ○ ● ○



「ふむ、目が覚めたようだな」


 いつの間にか夜明け前の暗闇を朝の光が追い払い、陽はまだ昇る前なれど、辺りはほんのりとした明るさに満たされる。


 屋敷の中も例に漏れず、少しばかり明るくなった廊下より、開け放された襖戸の向こうから、ジュウベエは座敷のふたりに声を掛けた。


「この度の騒動、解決にお力添えいただき、感謝の念に堪えません」


 娘は膝で丸まっていた仔猫を、そっと傍らに降ろすと、再び居住まいを正し、ジュウベエに向かって深々と頭を下げる。


「顔を上げてくれないか。あなたの事情もおおよその見当はついている。良く頑張ったな」


 ジュウベエは娘の傍らに寄ると、立ち膝となり、目線を合わせて彼女を労った。


「はい。ありがとうございます」


 その鹿爪らしい表情を見た娘は、それまで張りつめていた糸が急に緩んだかのように肩を震わせる。


「うむ。友も無事だ。向こうで臥せってはいるが、先刻までの苦し気な表情はもう消えている」


 すっと立ち上がったジュウベエの、奥座敷を指し示す視線も柔らかくなっていた。


「ああ、でも今お座敷はスゴいコトになってるし……」


 傍らで話を聞いていたミトが、先ほど見た奥座敷の惨状を思い出したのであろう、顔をきゅっとしかめる。


「座敷ならば心配はいらない。夜が明けるとともに、あのけがれも薄くなっていくようだ。この分だとじきに消えるであろう」


 しかめっ面のミトに、珍しくジュウベエが冗談めかした調子で笑った。


「だが君の付けた足跡はまだ残っている。日が昇ったら拭いておきなさい」


「むー、ジュウベエったら。今は感動する時なんだよっ」


 途端にふくれっ面になるミトを、目尻の涙を拭った娘は微笑まし気な表情で宥める。


「うふふ、おふたりとも、仲がよろしいのね」


「うー、仲なんて良くないよ。お姉さんには優しいのに、ワタシには厳しいし……」


 ミトの抗議など意に介さず、ジュウベエはいつもの鹿爪らしい顔へと戻っていた。


「この屋敷に人が幾人か近付く気配があるのだ。よこしまなものは感じないが、様子を見てくる。君たちは奥の座敷へ行くのが良かろう」


 ジュウベエに促され、ふたりも立ち上がる。その間際にミトが娘に内緒話をするように潜めた声で囁く。


「でも奥で寝てるおサムライさんは、まだ目を覚ましてないんだよ……」


「うふふ、彼だったら、もう会って来たわ。この身体に戻る少し前に、ほんの一瞬だったけど」


「ええっ、そーなのっ」


「わたしの声も届いたみたいだし、もう間もなく目を覚ますでしょう」


 座敷から足を踏み出しかけたジュウベエは、ふと振り返ると、思い出したように娘に話し掛けた。


「弟君も、あなたを心配していた。落ち着いたら、顔を見せに一度戻ると良かろう」


「弟……ですか。私には弟など……」


 不思議そうな表情の娘であったが、はたと何かに思い当たったように、庭の方へと振り返る。釣られてジュウベエも、娘の視線の先へと目を向けた。

 そこには濡れ縁の上、昇ったばかりの朝の日だまりの中、件の仔猫が気持ち良さそうに、丸くなっているばかりであった。



  ○ ● ○ ● ○



「くっ、なかなか追いつけねぇな」


 別邸の庭から奥へと続く竹林の中、ハンゾウは影の女を必死に追う。

 影の女は、顔も身体もこちらに向けたまま、少し離れたハンゾウを誘うかの様に佇んでいた。


 だがハンゾウが女の佇む、その場所に辿り着くと、そこには既に姿はない。気配のする方を見ると、少し離れた所に同じように佇んでいるのだ。

 まるで未明の竹林にて、あやかしと鬼ごっこに興じているような有様である。くして、ハンゾウと影の女との距離は、付かず離れず一向に縮まることがない。


 しかし無数にそそり立っているかとも思える竹を、右に左に躱しながら全力疾走するハンゾウの顔には、口調とは裏腹に焦りの表情はなかった。


 ハンゾウには見えているのだ、あの女の動きが、はっきりと。


 種を明かせば簡単な話だ。決してその姿を消したり、また現したりしているという訳ではない。

 影の女は、竹林に張った人を惑わす陣の残滓を使ってはいるものの、何かの術を発動させていたのでもない。


 もうあの妖には、それほどの力は残ってはいないのだ。


 ハンゾウを引き付けるだけ引き付け、人外らしい素早さで上空へと高速移動。その視界から外れ、その盲点へと動いていたのである。

 常人ならば騙され惑わされていたであろう、妖のその動きの全てをハンゾウの目と感覚は、子細洩らさず確かに捉えていた。


 いつしかハンゾウと影の女は竹林を抜け、東にそびえ立つ山々の裾野から連なる深い森の中へと移っている。

 民家どころか、人っ子一人見かけない森の中。町からも街道からも遠く離れ、辺りにあるのは鬱蒼と伸びる高い木々と、僅かに感じる鳥や獣の気配のみ。


 しかし鳥たちはいち早く未明の空へと逃げ立ち、獰猛な獣たちさえも突然訪れた厄災に恐れをなし、成り行きを見守るように息を潜め隠れていた。

 夜が明け始め、少しばかり夜を残した陽の光が広がり始めた森の中は、ふたつの異物が交錯する音だけが響く、不気味な静けさに包まれるのであった。

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