第17話 『この世界に復讐を果たす』
今日のところは、これにて失礼
男は、その胸の高鳴りを悟られぬよう、出来る限り平静を装い、娘から踵を返しその場を立ち去る。
しかしながら、男の心は、既にあの娘のことで一杯となっていた。
自分の欲しいものは、全て手に入れることができることは当然である——。
自分に相応しい家柄の娘を
様々な思いが去来していた男の心の内を占めるのは、今ではただひとつ。あの娘のことだけである。
この時ばかりは、この男も人としての心持ちを、ほんの僅かではあったが取り戻すことができたのであった。
貴男様の意中の娘さん……。首尾は
ふらふらとした足取りで、あの小さな町の屋敷に戻った男に、若旦那は、あの月の晩に出会った女と良く似た声で囁く。
だが男は、あの娘のことで頭が一杯で、若旦那には生返事を繰り返すばかりであった。
若旦那は顔を一瞬歪ませ、男からは見えぬよう、ちっと舌打ちをすると、再びいつもの笑顔に戻り、囁きを繰り返す。
貴男様なら、あの娘を手中に収め、見事にあるべき姿に帰るものと思っておりましたのに——。
悔しくはないのですか。貴男様を無下に扱った者どもを、このまま、のさばらせておくのは——。
その言葉を、暫くは上の空で聞いていた男であったが、その表情は次第に強ばっていく。
男の心の暗い炎は、再び力を取り戻し、以前より一層大きく燃え盛る。
その炎の渦に、先ほどまで、あれほど強かった娘への想いまでもが飲み込まれていった。
自分をこの暗闇へと陥れた者どもに、いや、この世界に復讐を果たす——。
男は、自身の心の内に燃え広がる炎の中に、その娘をも投げ入れる。
もはや男にとって、己を袖にした娘など仇も同然となっていたのだ。
これを、お持ちなさい。必ずや貴男様のお力となることでありましょう——。
男は、出掛けに若旦那から手渡された、黒い宝玉を懐の中で握り締める。
宝玉は熱を持ったかのように、男の
折しも、路地を向こうから歩んでくる娘を、男は睨みつけると、連れてきた配下のゴロツキどもに顎で示す。
ゴロツキどもは、娘の前にわらわらと飛び出し、彼女に掴み掛からん勢いで迫った。
娘は背後を歩んでいた侍女を突き飛ばすように逃がすと、刀袋から愛用と
木刀を構えるや否や、素早い踏み込みからの鋭い突きを皮切りに、ゴロツキの間を飛び回ると、あっという間に倒してしまう。
ゴロツキどもが呻き声を上げながら地に転がる様を横目に、男は抜いた
私には、もう心に決めた人がいるのです——。
男は、娘の言葉を思い起こす。途端にカッと全身の血が沸騰したかのように、両の手にも力が籠る。
娘が心を寄せているのが、どこの誰かは知らぬまま、男はその者にも激しく嫉妬の炎を燃やした。
渾身の力で振り下ろされる刀を、娘はすり上げるように軽く往なし、男の脇腹を
せっかく筋は良いのに、残念ながら力み過ぎです——。
うまく息が付けず、薄れていく意識の中で、娘の言葉が聞こえてくる。男が覚えているのはここまでだった。
男が見慣れぬ風景の中、目を覚ますと、全ては終わっていた。
身体には目立った傷もなく、医者の見立てでも、ただの失神であったようだが、男は長い間目を覚まさなかったのだ。
目を開き、半身だけ身を起こした男は、自分が何かを握り締めているのに気付く。それは、件の黒い宝玉であった。
掌の宝玉をぼんやりと見つめていると、隣室から人の気配が近づき、やがて男の父親が座敷へと現れた。
男の父親は、目の下に大きな隈を作り、悲痛な表情で男を見下ろしている。
父親の顔を、やはりぼんやりと見返す男に、父親は何か言いかけ、そして止めると外へ出ていってしまった。
ひとり座敷に取り残された男は、再び掌の宝玉に視線を落とす。頭の中は、
ぎゅっと目を瞑り、意識を集め、これまでの経緯を思い起こそうにも、記憶は霞み、掴めることはなかった。
男が再度目を開けた時、いつの間にか日はとっぷりと暮れ落ち、自分以外に人のいる気配もなくなっている。
暗闇の中に置かれた身体は動かず、意識だけがやけにはっきりとしており、目に見えるのはただ黒一色の世界。
自身の身体が見つめている暗闇の中へ吸い込まれて一体と化し、そのまま溶けていくかのような錯覚を覚える男。
どこからか自分を呼ぶ声が聞こえる気がして、視線だけで辺りを伺うと傍らに寄り添うように、あの女の気配を感じる。
男が、その理由も判らず執心し、追い求め、大きな赤い月の晩に、ようやく姿を現したあの女だ。
女の存在を認めた途端、障子越しに月の光が差し込み、真っ暗だった座敷を照らし出す。
月明かりを背にする女の表情は、やはり良く判らない。しかし、女はあの時と同じ声で男に囁いた。
男は、自分が今置かれている絶望的な状況を、女から知らされるも、もはや何の感慨も湧いてはこない。
あの娘の心を奪っていったのは領主の子息であり、この辺境に男を追いやったのは領主であると聞かされても、それは何も変わらない。
心の中に燃え盛っていた筈の憎悪の炎も、何ものかに吸い取られてしまったかのように燃え尽きていた。
ここからが、始まりなのです——。
女は、男の手にある宝玉を指し示す。
先刻までは、男の掌で握ることのできた宝玉は、今や大きく膨れ上がり、黒々としたその光沢も増していた。
男の手から宝玉をそっと取り上げ、どこからか取り出した高杯へと乗せ、彼の眼前へとそれを差し出す。
明日からは、全てが貴男の思うがままです——。
男は、その宝玉の美しさに見蕩れているうちに、それが放つ、妖し気な光に心を奪われていく。
どこまでも黒々とした宝玉の、その中に、男は、自分がなくしてしまった炎が燃えているのが見えた。
貴男が奪われたものを取り返すのです——。
女は、男の父親、領主の子息、そして領主の名前を順に男の耳許で囁く。
まずは、貴男の父君に、この宝玉の力をご覧いただきましょう——。
宝玉の乗った高杯を捧げ持った女は、音もなく座敷を出ていった。
女のいなくなった座敷は再び暗転し、男もいつの間にか眠ってしまうのであった。
翌朝は早くから、ばたばたと忙しない物音で、男は目を覚ました。
まだ、うまく動かない手足で這うように立ち上がり、そっと襖を開けると様子を伺う。
財産を没収された上で、辺境での蟄居と聞いていたが、何人かの使用人の帯同は許されていたようだ。
男が姿を現すと、右往左往していた使用人たちは、皆一様に驚いた顔をして、その手を止める。
しかし彼らは、遠巻きに男を見ているだけで、誰もが彼に声を掛けようとはしなかった。
男が擦れた声で何事かと問うと、年長の使用人が、はっとした顔で駆け寄ってきて、慌てて事情を話し出す。
使用人は、今朝方から男の父親が原因不明の病にて、床に臥していることを告げた。
男は、使用人が示した奥の間へと向かうと、意識を失ったという父親が寝かされている。
父親の寝顔に苦しんでいる様子は見受けられないが、昨日より格段に生気が感じられなかった。
座敷を見渡した男は、質素な床の間に、あの黒い宝玉が置かれてるのを見つける。
男は父親の枕元にどかりと座り込み、彼と宝玉を交互に眺め、声も上げずに口元だけで笑うのだった。
目を覚ました男と入れ替わるかのように、父親は寝たきりとなり、また側で仕えていた使用人までもが身体に変調をきたし始めた。
屋敷に出入りしていた使用人が一人、また一人と倒れる中、男だけが日に日に、その身体の力を取り戻していく。
どれ程の間を眠ったまま過ごし、そしてこの片田舎にて目覚めてから、どの位の日々を過ごしたのか男には判らない。
父親が眠るように力尽きた日、男は一人残った使用人に一通の書状を託すと、彼に
書状の内容は、父親が闘病の末亡くなったことと、自分は出家するので探さないよう願う旨。
文末に、一行だけ自分の起こした不始末に対する詫びを書き添える。
無論、男には出家するつもりも、詫びる気持ちなどは少しの持ち合わせもない。
領主と、その子息に対する宣戦布告のつもりで
男が、あの城下町へと旅立つ朝、井戸の手水桶に一瞬映った自分の顔を見て目を疑った。
それは衰弱した父親と同じく、目は落ち窪み頬の痩けた、まるで死人のような顔の己であったのだ。
驚いた男は、今一度、目を凝らして水面を見つめ、そこに映った、いつもの見慣れた自分の顔を見て安堵する。
刀はもう持ってはいない。男は、代わりに宝玉を高杯ごと丁寧に布で包むと、それを大切そうに持ち出した。
心無しか、嬉し気に口の端を歪め、その包みを一瞥した男は、辺境の屋敷を後にするのであった。
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