第16話 『もう心に決めた人がいるのです』

 いつまで、こんなことを続けておれば良いというのだ——。


 男にとって謹慎生活は、退屈極まりないものであった。朝方、実家の使用人が、飯を運んで来てくれる以外は、他に訪れる者はいない。

 男の父親にしてみれば、心を落ち着けて自己を見直せ。との心遣いであったが、その気持ちは僅かも男には届いてはいなかった。

 やがて男は、禁じられている外出をするようになる。特に目的も、そして金もないのだ。男は暇に任せ、ただぶらぶらと町中を出歩くのみだ。


 あの女は、どういうつもりで自分につきまとっているのか——。


 男はいつの頃からか、視界の隅に映るようになった、その女が何モノなのかを気に掛けるようになっていた。

 その女の姿を見かけるのは、いつでもほんの一瞬の出来ごとである。目を合わせたことすらない。

 顔もはっきりとは見たことはない。その女は、しかし目に入れば、確実に同じ女であると判るのだ。

 時も場所も違ってはいるが、男が町中を彷徨さまよっていると、必ずどこかで、その女を見かけるようになって久しい。


 あの女は、いったい全体、何モノなのだろう——。


 男はいつしか、自分の置かれている不遇な日々や、それに追い込んだ者たちへの憎悪すら、心の片隅へと追いやっている。

 もはや、その女に取り憑かれていると言っても過言ではない。男は、件の女の姿を探し求めるだけの日々を送るようになっていた。


 女とは町中で、ふいにすれ違い、振り返った時には、もうその姿は煙のように掻き消えている。

 しかし視線を感じた方へと目をやれば、町の喧噪の中に、あるいは建物のその陰に、女は静かに佇んでいる。

 まるで、その女に操られているかのように、前以上に町中のあちらこちらを、ふらふらと彷徨さまようようになっていたのだ。


 しかし、あれほど男の行く先々に姿を現していた女は、探し出そうとした途端、ぱったりとその姿を見せることはなくなってしまった。

 その日も、一日中、あの女を探し求め、その心も身体も疲労し切っていた男は、今夜と同じように濡れ縁にて、赤く大きな月をぼんやりと眺めていた。


 庭の暗がりに、何ものかが蠢く気配がするのを感じた男は、ぎょっとしてその陰影に向かって目を凝らす。

 月に雲が掛かり、視界が一気に暗闇に閉ざされる。しかし一瞬の後には、雲は流れ、庭は月明かりで満たされた。

 月の光に照らされた庭の暗がりより現れたのは、まごうことなき、男が探し求めていた、あの女の姿であった。


 私は、長いこと貴男様を見て参りました——。


 背後から月に照らされている女の顔は、どんな表情をしているのか、良くは判らない。

 しかし、妙な心持ちで安らぎを覚えるような女の声が、男の頭の中へと直に聞こえてくる。


 貴男様は、何も間違ってはおりません——。


 その声を聞いた途端、男の心の底で燻っていた暗い感情の火は、一気に燃え盛る炎へと変わる。

 男は、これまでの不遇な境涯を次から次へと思い起こすと、それらを片端から心の内の炎へべていった。

 めらめらと燃える炎からは真っ黒な煙が吹き上がり、もうもうとした煙は男の口から呪詛の言葉となって吐き出される。


 貴男様に、お力を授けて差し上げましょう——。


 呪詛の言葉を呟き続ける男の背後に、いつの間にか寄り添った女は、彼の耳許で甘く囁く。

 男にとっては、ことさら甘美な響きを以て聞こえてくるその声に、彼は何度も何度も頷いた。


 女は男に気取られぬよう、そっと彼の胸の辺りに手を添えると、手の内にあった小さな黒いたまを、彼の肌に押し付ける。

 まるで黒い真珠のようにも見えるその珠は、男の身体の中へ吸い込まれるように消えていくのだった。


 女は、幾度となく男を誉め称え、彼を取り巻く世界が無情であることに同情を寄せる。

 そして女は、男があるべき姿へと戻れるようにと、様々な方策を幾つも囁き続けた。


 男の心には復讐の炎が燃え上がり、身体からは不思議なほどの力が溢れてくる。

 その目には、獰猛な光が宿り、自身の輝かしい未来を想うと笑いが止まらない。


 男は笑いながら、久し振りに刀を取って庭に降りると、滅茶苦茶にそれを振り回し続けるのであった。


 ふと男が目覚めると、そこは庭であり、その手には刀が握られたままである。

 もう既に日は高く昇っており、あの女の姿は陰も形も残ってはいない。


 あれは、夢で見た幻だったのか——。


 しかし男は思い直す。男の耳を、いや頭の中をくすぐるような女の囁きは、しっかりと残っていた。


 これは、己が、本来の姿を取り戻すためのいくさなのだ——。


 男は、その顔に妖しい決意をみなぎらせると、ゆっくりと立ち上がる。


 身なりを整え、父親の居る屋敷へと向った男は、折よく城での勤めを終えた父親に相対あいたいし、今までの所業を詫び、修行の旅へと出る旨を告げた。


 男の顔つきが、以前とは様変わりしていることに驚く父親。

 これまでには見られなかった笑顔を顔に張り付かせ、かつての傲慢そうだった表情は欠片も見えない。


 父親は、男の挙動の端々に只ならぬ気配を感じながらも、彼の改心を喜ばしく思う気持ちが、それを上回る。

 男の瞳の奥から発せられる、その妖しいまでの鋭い光に、父親が気付くことは遂になかったのだ。


 男は、実家である屋敷を出るとその足で、街道を東に上る。

 あの夜あの女の告げた、大きな町と町との隙間にあるような小さな町。そしてその小さな町には不釣り合いなほど大きな屋敷の門戸を叩く。


 地元の手代とかいう、下級役人の屋敷の筈だが、中から出てきたのは、いかにもな強面のゴロツキども。その者どもを、男はやいばを返すと、瞬時に峰打ちにて叩き伏せた。

 最後に奥から出てきたのは、商家の若旦那風の男であった。男と若旦那。不気味な笑顔と、その目の奥に潜む妖しい視線を絡ませる。


 貴男様がいらっしゃるのは、あの方のお告げにて存じておりました——。


 若旦那は、男を屋敷へと招き入れる。男は若旦那に自分と同じ臭いを嗅ぎ取り、訝しむも、やがて彼と行動を共にするようになった。


 本来なら、男が歯牙にもかけぬようような、小さな町の屋敷での暮らしは、彼にとっては存外心地の良いものだった。

 若旦那を始め、その配下のゴロツキどもは、初日に叩き伏せた者も含め、皆が彼を先生と呼び、男の剣の腕を誉め称える。


 客人扱いで、屋敷の離れに居を定め、日がなごろごろと過ごしているだけだったが、毎日の食事も酒も高級なものが饗されていた。

 晩の食事の折りには、男の横には町の中でも選りすぐられたとおぼしき美女がはべり、その後夜伽の相手までするのである。


 ごくたまに、先生お願いします。と呼び出され、冒険者とやらを相手に剣を振るうが、相手は弱すぎて勝負にもならない。

 格下の剣士に稽古を付けるように、初日にゴロツキを相手どった時と同様、峰打ちを軽く当てて追い払うばかりであった。


 居心地の良さに、どの位の日々を、その屋敷で過ごしたのか男にも判らなくなった頃、若旦那は彼に囁く。


 そろそろ先生も、奥方をめとられたら如何いかがでしょう——。


 その言葉で、あの夜あの女の囁きを男は思い起こす。自分こそが、あの町の権力者に相応しいことを。

 あの女は言っていた。あの城下町の領主に仕える家臣団の内でも、男の家柄と双璧を為す家。その家の娘の名を。


 何年か前に残念ながら、その家の当主は病により早世し、家督は都より呼び寄せられた当主の弟が継いだと聞く。

 そしてその娘本人は領主に引き取られ、育てられているのだ。

 男にとっては、正にその娘こそが自分にそぐわしい相手だと思えた。


 若旦那は、まるで待ち構えていたかのように、配下の者にその娘の所在を探らせ、男にその仔細を伝える。


 これも、あの方のおぼしなのですよ——。


 若旦那は和やかに、男に対して、そう告げた。


 あとは貴男様のお気持ち次第——。


 若旦那は、その娘が、かつて男が修練していた道場へと、週に一度だけ通っていることも調べ上げていた。

 日頃は城内の表御殿に領主一族と共に暮らしており、娘と相見あいまみえる機会は城外へ出てくる、その一度だけである。


 男は、娘を狙い、城と道場の道のり半ば辺り、丁度人気のない路地裏で待ち伏せる。

 娘と同行していたお付きの侍女を、一睨みして追い払い、彼女に自らの名を明かした。


 武家における求婚の作法などお構い無しに、男は娘の手を引き連れ去ろうとする。

 家同士の遣り取りなどは、後からで構わない。何しろこの自分が求婚しているのだ。


 男は、思い上がった心のままに、娘の手を取ったのだった。


 私には、もう心に決めた人がいるのです——。


 しかし娘はにべもなく、そう言うと、男の身勝手な求婚の手を振り払う。


 男には幼き頃より、他家の者と顔を会わせる機会などは幾度となくあった。

 だが、男は自分を誉めてくれる者以外には興味がなく、人の顔など殆ど覚えてはいない。


 その娘の顔を間近で見たのも、これが初めてのことであった。

 長い黒髪を馬の尾のように纏め、上品そうな顔立ちに大人びた表情。

 瞳からは、その強い意志が伝わってくる。

 男は、その娘をまじまじと見つめているうちに心音が高鳴り、体温が上がるのを感じる。


 それは男が、生まれて初めて、女性というものに、心を奪われた瞬間なのであった。

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