第15話 『こんな風に月が赤い晩だった』
あの女と出会ったのも、こんな風に月が赤い晩だったな——。
庭側の障子戸を開け放ち、頭の上の妖しく光る、赤い月を見上げていた男は思い出す。
その時この男は、自らの起こした不始末により、その父親から、領内の武家屋敷からも離れた
男の家は、先の
男は、その家の次期当主であり、それは即ち、将来は領内でも有数の名家の当主になることを約束されているも同然である。
その自分が
男には、それが納得がいかなかった。自身の起こした愚行が、心得違いも甚だしいとは思ってもいなかったのだ。
男は、その時も、その後犯すことになる大きな罪を負った時も、自分が何か悪い事をしたとは思ってはいないし、後悔もまた、してはいなかった。
そしてそれは、今現在も同じである。男は未だ自分が、領内でも特別の存在なのだと思い込み、それが自身の妄想に過ぎないことに気付いてはいない。
しかし男が、まだ少年の折り、読み書きの覚えも早くから
それら全てが、周りの者たちの忖度の結果であったという訳ではない。確かにそれは、紛れもなくその頃の男の実力であったのだ。
学問所での勉学も、道場での剣の修練も、そう大した努力をしなくとも、男は一番良い成績を修めてしまう。
元の家柄の良さも相まって、男に対する周りの者からの評価は高まるばかりであった。
それまで家人や使用人などに、次期当主として丁重に扱われることは当然のことであった男。
それが、家の外に於いても、男が名を名乗ると、人々は平伏するようになっていたのだ。
周りの者からのその賞賛は、まだ少年だった男が、その自惚れを助長するには充分過ぎるほどであったと言えよう。
いつしか男は、その名声に寄り掛かり、挫折を知らぬまま、努力や精進といったものを見下すようになっていくのであった。
だがある時男は、通っている道場で、新入りの、彼より幾らか年下の少年に負けたことがある。
実際にはその少年とは、立ち合い稽古のひとつもしていない。勝てる気がしなかったので、男が逃げたというだけなのであるが。
その少年は、病弱な身体を鍛えるという名目で、道場に入門してきたという。確かに少年は剣を握り始めたばかりで、その剣捌きも
されど少年は、剣の腕前とは裏腹に、常に周囲に対しての振る舞いは、随分と堂々としたものであった。
無口ではあるものの目上の者に対しても、媚びるでも
確かに始めは拙い動きだったのだが、その修練に対する熱心さ故、師範にも可愛がられ、日に日に剣を振るう動きも様になってゆく
男は、少年のそういった立ち振る舞いを見る度、実力が伴わない者のくせに
そしてまた同時に、弱者は自分に媚び諂って、道場の片隅に縮こまっていれば良いものを、と何か癪に触る心持ちも覚えていたのである。
男が、少年に対する見解を変えたのは、家の都合とかで何ヶ月か道場に顔を出さなかった少年が、久し振りに道場に現れた時のことであった。
男は驚いた。その少年の体躯も顔立ちも、以前とは変わりないのだが、少年から隠し切れなかった筈の脆弱さが、微塵も感じられないのだ。
それまで無口で大人しく、黙々と修練に励んでいた頃とは打って変わり、道場での毎日を、表情豊かに過ごしていくようになっていた。
上達の早さも、それまでの比ではなく、道場内での段位も着々と上げてゆき、男の打ち立てたこれまでの記録をも次々に塗り替えていく。
それまで男に集まっていた賞賛は、少年のものとなっていくのには、それほど時は掛からなかった。
もし男がこの時、己を省みて剣の修練に身を入れていたら、彼の今の立場も随分と違っていたであろう。
しかし、男は少年に対して、激しい
男には自分に与えられるべき賞賛を、少年に奪われていくように感じられて、道場は彼にとってそれほど面白い場所ではなくなっていくのであった。
その少年が領主の子息であることを知ったのは、ちょうどその頃、男が道場通いを続けるべきか否か、迷っていた時期でもある。
相手が領主の子息であるなら仕方がない。男は少年と剣を交え、負けてしまう前に、面白くない道場を去ることにしたのだ。
それでも男は、道場では最年少で最上位にまで登り詰め、成人となった暁には師範代へと誘われていたのではある。しかし、男は、その話を簡単に断った。
それは、自分は領内でも有数の名家の跡取りなのだ。自分に相応しいのは町道場の師範などではない。という、つまらない自負心から来るものであった。
折しも、領主の家では慣例に習い、数年後に成人するであろう跡取りである子息も、その際には都での一年間の修行へ出ることが決まりとなる。
近年は、家臣の一族の間でも、成人するにあたって、都にて修行させることが慣例となっている風潮があった。
男もまた、都へと単身赴き、城を守る武士団の一員となって、厳しい訓練へと、その身を投じたのであった。
訓練は厳しいとは言うものの、男の所属した小隊は有事の際に出陣することはなく、その身の安全は保証されている。
また、男が属する部隊には、都住みの下級武士の子息なども多くおり、武士団の新人育成機関としての側面もあった。
つまるところ、男の配属された部隊は、毎日の訓練が任務であるともいえる、ある意味特殊な部隊であったのだ。
男は、この一年間の修行を、兵役とは捉えず、単なる通過儀礼のつもりであり、軽い気持ちで参加したのである。
ところが毎日の訓練は、男の鈍った身体には辛いものだった。小手先の技術だけで賄えることなど何ひとつなかったのだ。
持ち前の高い地力で、それらをそこそこ
それもまた当たり前のことで、男以外の者は、下級とは言えども都にて暮らす武士たちである。
家督は譲られることはなくとも、その一生は剣に捧げるくらいの覚悟は、とうに出来ている者たちばかりであったのだ。
剣技の習得が
男は、明らかに自分の家の格よりも下の者に混じって、彼らと同様の訓練を受けるのが、まず得心がいかない。
特に剣術指南役が、自分と其の他の者とを同列の扱いにする、その態度に苛つかされた。
地方の町道場とはいえ、そこでは一番の剣の使い手であった自分を、初心者も同然に扱うのだ。
国許にいた頃のように、誰ひとりとして、男を持ち上げ、賞賛し、特別扱いする者などいない。
そんな気構えで行う訓練が実になる筈もなく、故郷の道場での日々以上に面白くない毎日が続くことになる。
男は、その毎日に耐え切れず、突然任期半ばにして、適当な言い訳にて国許に戻ることを決意したのだった。
帰るなり父親に武士団での、自身の待遇への不満を訴えたものの、男は却って父親にはきつく叱られてしまう。
父親は、都の武士団へと戻り、確固たる決意を以て、残りの任期を
それは無理なことだと男は激しく抗い、父親にこれまでに溜め込んだ心情を、一気にぶちまけたのであった。
すると父親は、何故か落胆したような面持ちで、男に家臣の中でも下級な者たちが暮らす一角にある、小さな
その処遇でさえも激しく反発していた男であるが、父親は有無を言わさずに、その場で彼を屋敷から叩き出したのだ。
男を待っていたのは、狭い荒ら屋にて、使用人の一人もいないどころか、家財道具さえ最低限しかない暮らし。
当然のように父親が、自分の味方であるものと思い込んでいた男は、勘当も同然の処遇を下したことに対して、またも憎しみの感情を抱く。
この時もまた、思い直した男が、武士団での勤めを果たさんと都へと戻ってさえいれば、彼にも別の道があったのであろう。
しかし、この場面に於いてもまた、男は己を省みるということは、ほんの僅かばかりもなかったのであった。
それどころか、自分は周囲の
その日以来、男は日々、父親を始めとした自分を、この不遇な境地に追い込んだ者たちへの、恨み辛みを糧として過ごしてゆくことになった。
そうして心の奥底に柄も知れぬ黒い炎を灯したまま、
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