第9話  『こうも静か過ぎるのは、妖の先触れか』

 夕闇迫る北に向かう一本道を、ジュウベエは灯りを点した提灯を片手に、ひたひたと歩く。

 初夏の長いゆうべが終わり、夜が始まりかける頃。振り返れば遠くには城のある丘が見える。

 道の左右には、田畑が広がっている筈なのだが、今は遥かに山の陰が見えるばかりだ。


 ジュウベエは、遠くに見える竹林が二つに割れた入り口付近、誰かの人影を認める。


 ふむ、あの竹林か——。


 少年に教わった、友人の別邸への道程を思い起こし、少しだけ足を早める。

 にわかに夕暮れの薄い月を雲が隠し、辺りは一気に夜の気配を濃くした。


 雲が流れ、月が雲間から顔を出し始めると、そこにはたちまち竹林が現れる。

 西の都の竹林を模して造られたという、その小径の入り口に立つジュウベエ。

 見上げれば、背の高い竹が行く道の遥か上に覆い被さり、その隙間から僅かに月明かりが差し込んでいる。


 先刻認めた人影は、どこにも見当たらず、風が頭上の竹を僅かにしならせているだけであった。

 辺りには、城勤めの上級武士たちの別邸が幾つかあると聞くが、その全てはこの竹林に隠されている。

 竹林を切り拓いて造られた道は、思ったよりも広く、竹林との境には簡素ながら低い柵まで設けられていた。


 竹林の小径に足を踏み入れたジュウベエは、風が竹の葉を揺らす微かな音を聞きながら、歩みを進める。

 また雲が月を隠したのだろう。差し込む月明かりが翳り、提灯の灯りだけが往く道を照らし出していた。

 暫く歩いていたジュウベエは、妙に辺りがしんと静まりかえっているのに気がつく。


 こうも静か過ぎるのは、あやかしの先触れか——。


 先だって登った山道を思い起こす。あの時も往く道は、不気味なほど物音がしなかった。


 しかしながら、ジュウベエがかつて参加した妖の討伐は、いつでも敵味方の怒号に溢れ、静かだったことなど一つもない。

 都の道場にて修練を重ねていた頃、冒険者本部や、武士団に請われ、門下生と共に妖討伐に出ることは年のうちに数回はあった。


 そして思い返せば、道場ではなく、師匠である父の元に要請が来ることが更に多くあったと記憶を辿る。

 剣を取ったばかりの頃は、父の背中を見送るばかりだったが、数年後には父と並び討伐に出掛けていった。

 近頃では、父の声援に見送られ、ジュウベエがひとり出動するばかりだ。


 あれは、いったい……父なりにわたしを認めてくれたということだろうか——。


 しかしジュウベエは、討伐から戻った折りには、いつでも酒を片手に出迎える父の顔を思い出す。


 いや、それはない。おそらくは、ただ面倒であっただけであろう——。


 つまらぬことを考えてしまったと、ジュウベエは首を振るのであった。


 進む足が、心なしか重く感じられたのはその時だ。


 直ちに辺りを伺えば、ジュウベエを取り囲む空気までもが、どんよりと重くかる。

 まとわりつくような空気は、一歩、一歩、と進む度にジュウベエを引き止めた。

 まるで、全身が水に浸かったような心持ちを覚えながら、手にした提灯で前方を照らす。

 ジュウベエの視線の先には、柵から道へとはみ出しそうな勢いで伸びている、一際立派な竹があった。


 ふむ——。


 ジュウベエは、その立派な竹の前に立つと、その根元を照らし出してみる。

 確かに先ほど、少年の言っていたと思わしき傷が付けられていた。


 だがこれは、何か小さな獣が爪を研いだかのような——。


 小さな獣から、ジュウベエはミトを連想する。


 そういえば、あの娘は小さな獣のように、わたしを追ってきたのだった——。


 先だっての山道では、ミトが姿を現した途端、山もまた騒がしさを取り戻したのであった。


 うむ——。


 ジュウベエは竹の根元に、提灯の柄を差し込むと、腰から刀を外し、小径の中央に立つ。

 刀を手に、一歩前へ出ると、暗い小径の奥に潜むであろう何ものかに一礼した。

 その場で蹲踞そんきょの姿勢を取ると、そのまま目を瞑り、心を静める。


 かっと両の目を見開くと共に立ち上がり、暗闇へと射るような視線を投げた。

 そして大上段に構えるやいなや、力強く踏み込み、大きく刀を振り下ろす。

 刀を振り下ろした姿勢から、素早く正眼の構えを取り直したジュウベエは、己の一撃が何ものかを斬り裂いたことを感じる。


 斬撃を飛ばした訳ではないものの、辺りのどんよりとした空気は斬り払われ、風が吹き抜けていく感覚を捉えた。


 頭上では、竹の枝葉が風に鳴り、再び雲は流れ、月の明かりも小径に差し込む。


 ジュウベエは、腰に刀を差し、提灯を手に取ると、何事もなかったかのように友人の別邸を目指すのであった。



  ○ ● ○ ● ○



 月の光が仄かに照らす、白い城壁を一気に飛び降りたハンゾウは、そのまま空堀の中に飛び込んだ。

 斜面に出来た月影の中に、自らを隠すと、堀の形に沿って、その突き当たりまで走り込み、橋桁の下から辺りを伺う。


 来る時は、お侍の作法に乗っ取ったんだ。帰りは好きにさせてもらうぜ——。


 領主に笑顔で言い残したハンゾウは、城から下がる時の面倒な手続きを一切省いて、ここまで来たのだ。

 それは一刻も早く、領主の子息が囚われていると思われる別邸から、彼を解放したいという一心からであった。


 見廻り組が出払っているのを確認すると、橋の下を駆け抜け、その勢いで空堀の斜面をも駆け上がる。

 土塁の上に伏して、武家屋敷の並ぶ通りを伺うと、ある一件の屋敷が目に止まった。

 遠目ではあるが、門戸の前に、女性のような人影が佇んでいるのが見えたからである。


 あれは、先刻ジュウベエが、誰かと話していた屋敷か——。


 何かしらの、心を惹くものを感じたハンゾウは、通りまで降りると路地や塀で身を隠しつつ、その屋敷に向かう。


 屋敷に近づくと、折から流れてきた雲が月を隠して、辺りは一層暗さを増す。

 夜目の効くハンゾウは、門戸に掲げられた表札を見て、少しばかり驚いた。


 ここは、領主の子息の屋敷か——。


 塀越しに庭の方から屋敷を垣間みると、どの部屋も雨戸まで閉められており、漏れてくる灯りもない。

 先ほど、確かに見たと思っていた人影も消えており、屋敷には誰も残ってはいないようだ。


 ただ、うっすらと、城に上がる前に感じていた、妖気の残滓のようなものだけが感じられる。

 ハンゾウは、片膝を立てててのひらを地に付けると、大地から、そして頬を撫でる微風から気を探った。


 これは、やはり妖気……、いや霊気も混じってるのか——。


 ハンゾウは立ち上がり、掌の土埃をぱんぱんと叩いて払いのける。


 ジュウベエの行方が気には掛かるが、特に悪いものは感じねぇ——。


 領主の言う別邸には、既にジュウベエも向かっているであろうという予感もする。


 手遅れにならないうちに、先に子息の元へ急ぐとしよう——。


 両隣の屋敷から微かに漏れる夕げの声や灯りを背に、ハンゾウは、その足を別邸に向けた。


 ハンゾウは城に西側の丘を登り、日頃は城に勤める者しか通らないであろう細い道を駆け抜ける。

 武家の屋敷が軒を連ねる通りを、ぐるりと回り込むよりも、別邸までの距離としては短くなる。

 また市中を見廻る連中と、顔を会わせなくても済むことで、足止めを食らうという心配もない。


 丘の上に立つハンゾウが、別邸のある方角を見渡すと、雲の去った空から月の光が竹林を浮かび上がらせた。

 全体を覆うように、ぼんやりとした紗が掛けられているようにも見える竹林に向けて目を凝らす。


 一瞬、その広い竹林全体が、大きく揺らいだかのような錯覚を覚えたハンゾウは、そちらを凝然として見つめた。

 ハンゾウの目には、竹林を覆う紗が、見事に斬り祓われた後の景色が映る。


 今のアレは……、ジュウベエか——。


 何の証立あかしだてもないものの、一瞬にして竹林を覆っていた何かを祓った力は、ジュウベエの技を思わせた。

 ハンゾウは、一息に竹林を目指して丘を駆け降りると、竹林に続く田畑の中の一本道へと至る。


 けられているのか——。


 一本道に入った辺りから、ハンゾウの背後には微かな妖気を纏った何ものかが、付かず離れず追ってきていた。


 殺気は感じねぇが——。


 人ではない、何ものかの正体を見極めようと、ハンゾウは意を決して立ち止まり、そして振り返る。

 地を照らす月のお陰で、真っ暗な闇ではないものの、来た道のその奥までは見通すことはできない。

 ハンゾウが立ち止まると同時に、その人ならざるものも立ち止まったようだ。こちらを見つめる視線を感じる。


 仄暗い闇の中、ハンゾウを追ってきた何ものかは、月の光を映した、その目だけをキラリと輝かせるのであった。

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