第9話 『昨日も、こんなコトやってなかったかしら』
「あちゃーっ、折れちゃったよ」
鍵穴の中に、折れた先を残さないよう、静かにそうっと箸を引き抜く。
でも、これで開いたはず、と扉をちょんと押してみるも動かない。
弱かったかな——。今度は強めに押してみても開かない。
ミトは、少し乱暴に扉を押したり引いたりしてみるが、それはビクともしなかった。彼女は思わず扉に向かって、両の手のひらをバンバンと打ち付ける。
「なんか、昨日も、こんなコトやってなかったかしら」
最後に扉をガンっと蹴飛ばすが、びくともしない。冒険者
長椅子にドンっと腰を下ろすと、両手で頬杖をつき、何事かに思いを巡らした。
なんだって、ワタシは部屋に閉じ込められてるんだろう。
きっとお酒のせいじゃないかしら——。
ハンゾウは切れた酒を取りに行ったきり、なかなか戻って来ない。
実は、手にした酒を、ジュウベエにも勧めていたりする。
わたしは、昼から酒は嗜まん。
いや、これは出陣の儀式だ、清めの酒よ。
うむ、ならば頂こう……。
なーんてやってんじゃないのー、ふたりだけで——。
「なんか、ハラたってきた……」
立ち上がり、何とはなしに窓からの景色を眺める。上へ下へ、右へ左へ視線を流すミトの目に窓枠のあるものが映る。
「なーんだ、窓にも鍵が掛かってたんじゃない」
どうりで開かなかった筈だわ——。
さっそく、窓枠の鍵をくりくりと回し始める。
ミトの屋敷にもある、その鍵は古い型式のものだ。先が
反対の向きに回せば、鍵はするすると外れ、落としてなくさぬよう細い鎖で繋がれたそれを、窓枠にぶら下げた。
鍵の外れた窓を、スパーンと勢い良く全開に引くミト。
流れ込んでくる風が心地よい。
うーん。伸びをして、彼女は、外の空気を胸いっぱいに吸い込む。
よしっ、と窓枠に足を掛け、半身を窓の外に乗り出すと、そのまま窓枠の上に立ち上がり、えいっ、と何の躊躇もなく、階下の地面を目がけて飛び降りた。
ミトの背後では、扉の向こう側で役目を終えた護符が、はらりと剥がれ落ち、同時に微かな音をたてて扉が開いたのであったが、それを彼女が知る由もなかったのだった。
○ ● ○ ● ○
「この者たちは……」
ジュウベエが問いかけてやめたのは、妖に対する怒りや、亡くなった者たちへの悲しみのためばかりではない。
この人を食ったような飄々とした坊主にも、触れられたくはない事もあるだろうと
あらかた酒を撒き終え、ふたりは剣の墓標に向かって、死者の魂の安息を願い、手を合わせる。
「この者たちは、皆、
坊主の思いがけない言葉に、彼の横顔をじっと見つめるしかできないジュウベエ。
「この辺りには、その昔、砦が築かれておっての。ワシも皆も、そこに詰めとったんじゃ」
ぽつりぽつりと、坊主は言葉を紡ぐ。
「ここから北の方には、ワシの同胞たちが多く住んどる。他の民の都もあるしのう。敵をここで食い止めようと必死だったわい」
話を聞いたジュウベエの頭の中を、様々なものが駆け巡る。
彼もまた戦っていたのか。ならばあの腕も納得できる。だがここ最近は戦など起きてはおらぬ。先の
「
いいや——。
ジュウベエの問いを否定し、それきり黙り込んでいた坊主だったが、不意に山向こうを指差してた。
「見てみい。今ワシらが狩っとる妖どもは、あそこからやって来るんじゃ」
ジュウベエが、はっと坊主の指差す方を見ると、向かいにある、この山とは双子のような佇まいの山の頂から、黒い煙のようなものが立ち昇っている。
「瘴気っちゅうもんはな、妖ばかりでなく人もまた発しよる。煙のように見えるあれは、まさしく瘴気の固まりじゃよ」
坊主が言うには、あの山全体に陣を描き、周辺の瘴気を集めているらしい。風向きのせいか、都から、この辺りへと流れ着く瘴気は特に多い。
都そのものは強い力で守られているので、人が心ならずも発してしまった瘴気が、都の内部に淀むようなことはないという。
「だからあれは、煙のように空に霧散しとるんじゃなく、逆に吸い込んどるんじゃよ」
それでじゃな——。
坊主は続ける。集められた瘴気を浄化しながら、何年かに一度、それを世に戻しているのだと言った。
「それがあのヌエどもだというのか。あの山で浄化しきるなり、
普通であれば、あれ程の量の瘴気をきれいに浄化してしまうのも、また瘴気が自然と妖と化してしまうのも、何年もの長い年月が必要だという。
あの山の術士たちには、山の力を借りたとしても力の限界がある。それならば、半ば浄化された弱い瘴気を、弱い妖と化して討伐してしまった方が話が早いらしい。
「そうやって、生み出された妖は、妖ともつかぬ弱い奴らじゃ。ワシでも簡単に倒せる」
だからまあ、作業の分担というやつじゃよ——。
坊主は髭を撫でながら、にやりと笑った。
「それに向こうの山は、ワシらの縄張りではないからのう。そうそう、口も手も出すこともできんのじゃ」
○ ● ○ ● ○
「待て、早まるんじゃねぇっ!」
潮の引いた、ハンゾウたちの立つ岩礁の上。今や完全に潮は引き、大岩まで一筋の道のように地続きになっている。
大岩の洞穴も完全に水面から顔を出し、冒険者たちを飲み込もうとするかのように、不気味な黒い口を開けていた。
討伐隊の冒険者のうち血気にはやる何人かが、我こそが先陣を切ろうと洞穴に向かって駆け出していく。
しかしそれは一瞬だった。ハンゾウの制止も虚しく、洞穴近くまで駆け寄った冒険者たちを妖が襲ったのだ。
洞穴から飛び出したそれは、大蛇のように岩の上をのたうち、鋭い牙の並んだ
一度に数人の冒険者たちを喰い荒らした妖は、即座にするすると洞穴に戻ると、暗闇の中から次の獲物を狙うように、その目を妖しく光らせている。
仲間の惨状を目の当たりにし、洞穴に向かいかけていた冒険者たちは、慌てて戻ろうとするものの、滑りやすく、ごつごつとした岩の上での動きは、思うに任せない。
岩礁の上で踠く仲間の一人を狙い、妖がずるりと洞穴から這い出てきた。太く長い胴体を気味の悪い粘液に光らせ、うねうねと冒険者に近づいていく。
そしてその大きな顎門を広げ、鋭い牙が露になった瞬間、パンッという何かが弾けるような音と共に白い光の矢が、妖の口中に吸い込まれていった。
途端に苦しそうに、その巨躯を大きくうねらせながら、洞窟にずるずると戻っていく妖。
「今のうちに、あいつらを助け出すんだっ。急げっ!」
ハンゾウの指示に、何が起きたのか判らないまま、弾かれたように仲間の救出に飛び出す冒険者たち。
生き残った冒険者たちが、こちらに戻ってくるのを見守りながら、ハンゾウはひとり呟く。
「あれは、ウミヘビなんかじゃねぇ。ウツボってヤツの化け物だ」
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