第3話 『修行は明日から本気だす』
「貴様も笑っていないで、先刻の小刀を貸してくれぬか」
あられもない姿で逃げようとするミトを、逃すまいとするジュウベエ。
ふたりの様子を、にこにこと楽し気に見守っていたハンゾウが、堪え切らなくなったように吹き出した。
「わっはっはっは。二人とも、もうこんな時間なんだし、修行は明日からにして、とっとと朝飯済ませちまって出掛けようぜ」
その声に、いつもの
ミトは、朝飯の言葉に、目を輝かす。
「うむ。そうだな……。宿の者に迷惑を掛ける訳にもいかん」
「やったー。ご飯だ、ご飯だ」
他の泊まり客が
「貴様は、いつもどこからか握り飯を取り出すのだな。何の秘術だ」
「バカ言え。俺が調理場に無理言って、握ってもらったんだよ」
「おむすびも、お漬け物も美味しい」
「いや、食事は大切だ。礼を言う」
「ははっ、よせやい。そんなに
握り飯を頬張っていたミトが、ふと食べる手を止めてハンゾウを眺める。
「今更だけど、ハンゾウっておかしな格好してるよね」
「うむ、それは寺社関係の者が、作業の時に身に付けるものではないのか」
「ああ、こりゃ作務衣じゃねぇよ。俺の習得した武術の道着だ」
「でも、兄様も似たようなの持ってたけど、もっと落ち着いた色だったよ。枯れた野原みたいな」
「うむ、そんなに目立つ色では、真っ先に敵に目を付けられるのではないか」
「そうかぁ、自分では気に入ってるんだが。国許では流行の色だしな」
ハンゾウは自分の身に付けている、
「お前さんの小袖だって、地味過ぎるだろ。その若さで
「そうそう、ジュウベエもさ、若いんだから。ワタシみたいに明るい色を着ようよ」
「いや、あのような派手な色は遠慮したい。第一恥ずかしいではないか」
ジュウベエは掛けてある、ミトの羽織を見てきっぱりと断る。
「恥ずかしいってなによー。あれはね、菜の花色っていって、うちの国じゃ、春になると、いーっぱい咲く花の色なんだから」
朝から賑やかな食事の光景。こんな食事をしたのは、いつの時以来だったか……、ジュウベエはひとり思い起こしていた。
それは、この団欒とも呼べるこの光景とは裏腹の、この旅に出る前、即ち免許皆伝の前に行った、山ごもりの日々なのであった。
ジュウベエ本人に問えば、おそらくは何と言うこともなかった、と答えるであろう、その修行。
道場内では、師匠以外に、彼に勝てる者はなく、若くして師範代にも取り立てられる。免許皆伝も目前かと思われたある日。彼は師匠に呼ばれ、奇妙な修行を命ぜられた。
それは木刀を一振り授けられ、「ある山に登り、山頂付近にある古寺へと赴いて、そこの主と勝負して来る」、という言葉にすれば、至って簡単なものであった。
重ねて師匠からは、無駄な殺生はしないように、と申し渡される。そのお陰で、例え道中で獣の類いに襲われたとしても、その相手は昏倒させるに留めなければならないのだ。
但し、山頂にて現れるモノとは、命懸けで仕合え——。
とのことである。何が現れるのか、までは教えては貰えなかったことも、奇妙たる
道場から一日歩き、夕刻に辿り着いたのは、鋸の歯のように険しく連なる山々。その山裾の竹林には、山に入るもの者を拒むかのように、虎が生息していた。
山の力を得て、力を増した獣たち。人の動きとは違う、獣の挙動に苦しむも、幾度か遣り合っているうちに、ジュウベエは、夜明け前までには獣を倒せるようになる。
その勢いで山頂に突き進むが、山中の道のりで出てくるのは、猿に、猪に、狼に……。一つの山で出会うのは、おおよそ有り得ない獣たちばかり。
当然、一日二日では、登りきれる筈もなく、野宿を余儀なくされるのだが、寝ている間も獣たちは彼に襲いかかる。
もともと、幼少のみぎりより刀を握り、剣術の修練中においては、就寝時の敵の来襲に備えた訓練までしていたジュウベエである。
気配を察すれば目を覚まし、その都度追い返す。それを一晩に何度も繰り返すことで、少しずつ眠って体力を回復した。
腹が減ったら、食用の野草と共に小動物を狩り、皮を剝いで焼き、手を合わせてから後、有り難くいただいた。
襲って来る獣たちを叩き伏せながら、毎日僅かずつではあるが山中を登り、日が暮れたら眠る。
遂には、獣たちもジュウベエが寝ていても、遠巻きに眺めるだけで、去っていくようにすらなった。
しかし、この命懸けの登山は前哨戦に過ぎず、本当の修行は山寺に辿り着いてからだったのである。
それからが長かったのだ——。
ジュウベエは、そう思い起こして、ほんの微かに片眉だけ上げる。
ハンゾウは、いそいそと食事の後片付けをしていた。
ミトは元気よく、ごちそうさまでしたっ。と手を合わせる。
その声を切っ掛けに、ジュウベエも立ち上がったのであった。
○ ● ○ ● ○
青空がきれいに澄みわたる、良い朝だった。
町は活気に溢れ、盛んに旅人や商人が行き来している。
町中で囁かれる噂話が、聞くともなしに耳に入ってきた。
どうやら、一夜にして隣の合宿の町から、ガラの悪い連中が消えてしまったらしい。
ゴロツキどもを束ねていた若旦那は、捕縛後に突然痩せ衰えて、大人しく番所へしょっぴかれていき、今回の騒動の首謀者と目される手代は、終始何かに怯えている様子だったという。
話に聞いていた私設関所らしきものも見当たらず、無事にこの町に到着できたと、行き来している旅の者たちは皆、嬉し気に話している。
合宿の町に通じる雑木林を抜けると、昨日までは荒れていた農地から、抜かれた雑草が山と積まれているのがあちこちに見える。
途中、遠目に見た手代の屋敷が方が騒がしかったのは、おそらくお上の御調べが入っているのだろう。
ジュウベエとハンゾウが壊してしまった長屋も、どうやら修繕が始まっているようだ。
合宿の町に足を踏み入れれば、確かに、そのどこにも、昨日までたむろしていたゴロツキたちの姿は見えず、代わりに威勢の良い若者たちが働いている。
その中で、一件の茶屋の前に差し掛かった時のこと、店先で団子を焼いていた少年から一行に呼び込みの声が掛かった。
「焼き団子、いかがっすかー! やきだんごー」
さっそく店に向かおうとするミトを、引き止めるふたり。
さっき、
名残惜しそうに振り返ったミトは、団子売りの少年と目が合う。
その顔には、どことなく見覚えはあったものの、どこで会ったかは、思い出せないのだった。
○ ● ○ ● ○
さて、このまま裏道を行くか、街道へ戻るか。思案するハンゾウ。
先へ進めるのならば、どちらでも良いだろうと言うジュウベエ。
「ちゃんと街道を歩こうよ。裏道ばっかりじゃなくて」
どうやらミトは、街道を進みたい派らしい。
「だって、この辺りから街道は海の側に通ってるんでしょ。海のそばっ」
海沿い、というのが問題なんだが——。何かを心配しているハンゾウ。
「ワタシ、海って見たことないのよね。見たいな〜、海」
ミトのこの一言に、ジュウベエも推され、街道を行くことになった。
「う〜みっ、う〜みっ」
はしゃぐミトの後ろを歩くハンゾウに、ジュウベエがひそひそと耳打ちする。
「街道を歩くと、何かまずいことがあるのか」
「いや、街道自体は問題じゃねぇ。海の側を歩くってのがなぁ」
「海がまずいのか」
「いやぁ、海沿いの町ってのは……」
それまで、飛び跳ねるように歩いていたミトが、クルッと振り向いた。
「あれ〜、ハンゾウったら、もしかして泳げないの〜?」
にしし——。と、何故か勝ち誇った笑いを浮かべ、彼らに向かって、後ろ向きにミトは歩く。
「ハンゾウが海に落っこちても、大丈夫。ワタシが助けてあげる。こう見えて泳ぐのは得意なんだから」
「君は泳げるのか」
「毎年、夏には里帰りして、近所の川や泉で泳いでるわ。あれ、もしかしてジュウベエも泳げない?」
その言葉を聞くジュウベエの目は、心なしか伏せられ、しかし返す言葉だけは力強い。
「そんなことはある筈なかろう。これでも都のトビウオと呼ばれたわたしだ」
まぁ、次の宿場に行けば判るか——。
からん。
ふたりのやりとりを、遠巻きに眺めるハンゾウの下駄は、軽やかに鳴るのであった。
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