第2話 報酬はタラバ蟹

 会社は四十年以上の歴史を持つ従業員三千人の中企業で十四年前に市街地にあった工場を引き払って郊外の工業団地に移転してきた。


 七階建ての事務棟は二十年の歳月を経ているが社長の考えで小まめに改修が行われているため外観は建築当初の新鮮さが保たれているとのこと。一階はロビーや応接に秘書や守衛の詰所がありタイル張りのエントランスも広く取られている。二階は来客や工場に直接関連する生産管理部や品質保証部があり、わが調達部もここにある。三階は営業部、品質管理部、四階は品質技術部、生産技術部、五階は設計部、六階は開発部と海外企画部、七階には総合推進部、総務部、経理部があり社長室もここだ。


 朝一番の仕事は入荷品の確認業務だ。小一時間もあれば終わるだろうと思い通常ペースで伝票を回収しながらQRコードリーダーで読み込む。半分程度処理が終わった時だった。


「銀山さん大変大変。姉御から大至急戻ってって電話があったわよ」


 工務部の一文字瀬理いちもんじせりが飛び込んでくるなり大声で叫んだ。大水の従順な子分的存在で動きがいい。


 時計を見るとまだ三十分程度しか経っていない。大水の大至急はいつものことだが社長からの呼び出しとも考えられるので回収した伝票を持って走り出した。


 階段を駆け上がり息が切れてきたが休んでいるわけにはいかない。調達部のエリアに入る前に課長と目が合った。


「銀山ちょっと来い」


 社長からの返信かもしれないのに課長の相手などしていられないと思い大水の席に直行すると指先が課長の方に向けられていた。


 社長からの呼び出しでないことが分かりスピードを落とす。それを見た課長は急に怒り出し大きく手でかき寄せる動作をした。


「早く来いと言ってるだろう」

 訳がわからず小走りで課長の横に立つとパソコンにメールが開かれている。


「なぜ社長に返信する前に相談しなかった」


 メールは返信した者を招集するためのものだ。本人だけでなく上司にもCCで送られていた。


「時間もありませんでしたし」


「大水とべちゃべちゃ喋っているからだ。それより仕事の方は大丈夫なのか。受入れの検収は終わったのか。緊急発注の確認はできているのか。急に言われても対応できんぞ」


 まだメールの文面をしっかり見てもいないのに返事などできるわけがない。覗き込むと十時までに七階へ来るように書いてあった。


 えっと思い画面右下の時計を見ると五十分を過ぎている。緊迫感が現実のものになってきた。駈け出そうとしてまた課長から呼び止められる。


「ネクタイをしていかんか。それからいつもみたいな友達と話しているような言い方に気をつけろ」


 ハアハアという息に合わせて肩が上下していた。目を合わせないように課長の後ろを回り込んで席へ行く。隣では課長に向かって大きく舌を突き出していた大水が僕の引き出しを開けてネクタイを出してきた。


「検収と発注確認は任せておいて」



「ありがとう。えっとここまでは終わったから」

 持ってきた伝票を渡す。


「その代わり特別ボーナスが出たらタラバ蟹よ」


「タラバガニ」


 言い返す時間がないことを見計らって言葉を投げつけてくる。


「いいからさっさと行ってきなさい」


 始まる前から荷物を背負ってしまった。上手くいってもいかなくても何らかの散財はありそうだ。複雑な気分でエレベーターに乗った。


 扉が開くと他の階にはない重厚な木目調の壁に緊張させられる。逆にこの会社が製造業であることを最も感じさせない場所でもある。


「資材調達課の銀山さんですね。社長が順番にお聞きしますので最後尾にお並び下さい」


 一般の女性社員が着ている水色の制服とは違う紺色のスーツを身に着けた秘書課の小村早紀こむらさきから指示を受けた。


 普段から社長の相手をしているだけあって落ち着いた物腰だ。逆にこちらは初めての社長室で気が動転している。足をもつれさせながら体の向きを変えようとしたとき自分を追いかけるかのように手が伸びてきた。


「待って下さい」


 正面に回りこんでくる。


「なに」


「ネクタイが曲がっています」


 左手をネクタイの下に差し入れて右手で引く。その間およそ三秒。おそらく独身だろうからこの慣れた所作の相手は自ずと分かってしまう。立場も考えずに嫉妬した。


 薄暗い場所だからそう感じたのかもしれないが白くて細い指がとても魅力的だ。心臓の鼓動が速くなってきた。


「どうも」


 気の効いた言葉などとっさには出てこない。視線を合わせることもできず斜めの方向にお辞儀をしてその場を離れた。


 歩き出してすぐに振り向くとエレベーターに向かって立っている。こちらの想いを見透かされていなことに安堵するとともに自分に対して何の感情も抱いてくれなかったことに落胆した。

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