たとえば僕が君の猫だとして

谷川人鳥

たとえば僕が君の猫だとして



 たとえば僕が君の猫だとして、喉を鳴らして足下にいそいそと駆け寄れば、いつかの失恋がなかったことになったりしないだろうか。

 首をもたげてみれば、しん、と澄んだ空気の向こう側に青々した浅間山が覗く。

 昔に比べて、朝の風が肌寒く思えるのは、同じ恒温動物とはいえども、猫の方がきっと体温が低いからに違いない。

 桜並木の隙間から差し込む朝日を浴びながら、僕は猫になる前の日々を少し思い返したり、しなかったりしていた。


「おはよう、トモくん。今日もいい天気だね」


 行儀よく背筋を伸ばして座る僕に、薄手の黄色いパーカーを羽織った彼女が小さな歩幅で近寄って来て、普段と変わらぬ穏やかな声で話しかけてくる。

 ゆらん、ゆらんと、小風に髭を揺らされながら、僕は口を大きくあけて、初めて出会った頃に比べて、ずいぶんと大人になった彼女に挨拶を返す。

 そうすれば彼女は嬉しそうにはにかんで、じゃあ、行ってくるね、なんて言ってバス停の方に向かって歩き去って行った。

 彼女の住む家の窓は開いていて、そこから覗くのは、空っぽの鳥かごだけ。

もう彼女が飼っていたインコのサイはいないのだから、片付ければいいのにと思ってしまうけれど、そういえば彼女はまだ自転車に乗れない年の時から、ものを捨てるのが苦手だった。

 僕と色がお揃いだった黄色のニット帽子を、ぼろぼろになっても手放さなくて、母親のヨーコさんと言い合いをしていたのを思い出す。

 結局、新しい緑の帽子を買い直した後、僕がたまにその時のヨーコさんの口真似をすると、彼女はいつも怒ったっけ。

 八年も一緒にこの街で過ごしたせいで、もう赤の他人になった彼女との思い出が、まだまだ色濃く心の内側に残っている。

 ふるさとは遠きにありて思うもの、帰るところにあるまじや。

 ふいに僕の名前の由来になっている、彼女の大好きな詩人の一節が頭に浮かんで、僕は尻尾を筆のように振るった。


「おはよう、あなたは相変わらず早いわね」


 日課の挨拶を経て、早朝早々やることのなくなり、老いに昔語りをするだけの僕に、すると気だるげな声がかかる。

 にゃーおと、大きな欠伸をしながら、猫とは思えないほど緩慢な動作で僕に近づいてくるのは、ご近所のヤマダさんだった。


「あ、ヤマダさん。おはよう。今日は早いんだね」


「まあね。最近ちょっと太ってきたから、朝のお散歩でもしようかしらと思って」


「なるほど。それはいい心掛けだ」


「なに? 私は太ってるって言いたいわけ? 噛むわよ?」


「なんて見事な罠なんだ。これがほんとの猫だましだね」


「朝から君はご機嫌ね。羨ましい限りよ」


 ヤマダさんはやれやれと言わんばかりの態度で、僕の隣りに座ると、さっきしたばかりの欠伸をもう一度繰り返し、気品のある相貌を歪ませた。

 僕はその美しい毛並にまんまと惹かれて、肉球を伸ばして毛づくろいをする。


「……んっ。なによ。急に撫でないで」


「いや、あまりにも綺麗だったからさ」


「私が綺麗なことなんて、いつものことでしょう?」


「そうだけど、ほら、見たらなんか撫でたくなるじゃん。反射だよ。ヤマダさんが僕を見たら欠伸したくなるのと同じこと」


「ふーん。あっそ。まあ、べつにどうでもいいけれどね。撫でたいなら、好きなだけ撫でればいいわ」


 柔らかな毛並を、頭から背中の方まで堪能すると、ヤマダさんは気持ちよさそうに目を細めた。

 僕とは違って、飼い猫ということもあって、ヤマダさんのさわり心地は天下一品だ。

 蒼みがかった緑の瞳と灰色の体毛のおかげか、触っていると心が落ち着いてくる。

 しかし調子に乗って、お腹のあたりを撫でようとしたところで、柔らかめの猫ぱんちが飛んできてしまう。


「そ、そこまでよ。それ以上は、撫でるの禁止」


「もう終わり? さっき好きなだけって言ったじゃん。もっと僕、ヤマダさんのこと触りたいんだけど」


「だめ。やっぱりだめ。今日の分は終わりよ」


「今日の分。明日ならいいのか」


「好きなだけって言っても、限度があるでしょ。大きな猫たちだって、君ほど長く撫でないわよ」


 名残惜しそうに宙を漂う僕の前足を、ヤマダさんはそっと押し付けるようにして地面に降ろさせる。

 ヤマダさんは人間たちのことを、大きな猫と呼ぶ。


「だいたいなんで、あなたはいつも私のことばかり撫でるの? 毎朝挨拶してる、あのお気に入りの大きな猫のメスでも撫でてればいいじゃない」


「彼女はだめだよ。彼女は撫でる側だからね。どっちかというと」


「ふーん。特別扱いなのね」


「なに? 妬いてるの?」


「……」


「って痛い痛い痛いっ!?!? 尻尾踏まないでよヤマダさんっ!?」


「あら。ごめんなさい。嫉妬のあまり周りが見えなくなっちゃって」


 両の前足を僕の尻尾に乗せるヤマダさんは、ぐるぐると不機嫌そうに喉を鳴らす。

 猫は気まぐれ。

 さっきまで、あれほど気分良さそうに髭を揺らしていたのに、今はご覧の有様だ。


「ほら、行くわよ、トモくん。私のお散歩に付き合いなさい」


 僕の尻尾を何度かスタンプすると、それで満足したのか、ヤマダさんは自分の尻尾を立たせて、優雅に歩きだす。

 少し遅れて僕もその後ろに着いていく。

 空は青く、季節は春。

 僕が猫になってから、もう一年が経とうとしていた。




 耳賑やかな風切り音と共に、電車が通り過ぎ去っていく。

 僕は乗ったことないけれど、あの中には、数人では収まらない沢山の人が押し込められているらしい。

 あんな細長い箱の中にすし詰めにされて、しかも知り合いでもなんでもないのに、喧嘩の一つや二つもせずに済むなんて、案外皆仲が良いみたいだ。


「……まるで僕とヤマダさんみたいだね」


「……いきなり何の話かまったくわからないけれど、そんなに嬉しそうに言えるなら、同意しておいてあげるわ」


 心地良い沈黙を、ふいに破った僕を見て、ヤマダさんは怪訝に髭を揺らす。

 ちょうど登校の時間帯ということもあって、お散歩中の僕らだけでなく、沢山の中学生が落ち葉と枯れ枝まみれの道を、かたまりになって歩いている。

 そのすぐ脇をすいすいと通り抜けていく美麗な灰毛の猫に、見惚れて足を止める子供たちは何人もいたけれど、当の本人であるヤマダさんは何も気にならないようで、立ち止まることは一度となかった。

 そのただ見てるだけで声すらかけられない姿に、猫になる前の僕を重ねてしまい、どことなく懐かしい気分になった。


「こんな朝早くから、大きな猫の子供たちは群れをつくってどこに行くのかしらね」


「ヤマダさんとは違って、人間たちは忙しいんだよ。彼らは今から、ここからちょっと先にいった中学校ってところに行くんだよ」


「ふーん、そうなの。あなたは大きな猫に詳しいのね」


「ミライも毎朝行ってたからね。今はもう違うところに行ってるみたいだけど」


「ミライ? あのあなたのお気に入りの大きな猫のメスのこと?」


「そうだよ。彼女は僕に色んなことを教えてくれた」


「あっそ」


 彼女の話をする時、ヤマダさんはいつも少し機嫌が悪くなる。

 でもそれが、僕はちょっとだけ嬉しかったりする。

 そして、そんな僕のよこしまな考えはいとも簡単に見抜かれてしまったようで、ちょっと前を歩くヤマダさんの尻尾が僕の顔を軽く叩いた。


「そこ、ニヤニヤしない」


「うふふ。ごめんなさい、ヤマダさん」


「まったく。あなたって本当にいい性格してるわよね」


「ヤマダさんと一緒にいると、つい舞い上がっちゃうんだ。僕、舞い上がるのが得意でさ」


「いつでも掴み落としてあげる。逃がさないわよ。私、こう見えて狩りは得意なの」


「おー、怖い怖い。でも、ヤマダさんになら、狩られてもいいよ、僕。むしろ、狩られたい」


「はぁ……」


「その呆れた表情も、セクシーだね」


「よくもまあ、そんなくだらない言葉が次から次へと思い浮かぶわね。感心するわ。悪い意味で」


「実は舞い上がるのだけじゃなくて、喋るのも昔から得意なんだ」


「昔からって、まだあなた生まれて一年くらいしか経ってないでしょ」


 猫になる前の僕を知らないヤマダさんは、綺麗なグリーンの瞳を細めて苦笑する。

 ミライは僕のことを喋りの天才だといつも言ってくれた。

 そんな彼女と、今はもう朝の挨拶でしか言葉を交わせないのは、たしかに少しだけ寂しい気がしなくもない。


「あなたは、行ったことあるの? この大きな猫の子供たちが向かう場所に」


「僕は一度か、二度くらいしかないよ」


「楽しかった?」


「いや、あんまりだったかな。僕が行くと、色んな人がいっぱい僕のところに来て、疲れるんだよね。人気者はつらいよ」


「はいはい。そういう見栄はいいから」


「いやいや、ほんとだからね!?」


「嘘に決まってるわ。だってあなたの魅力を、私以外の猫が見抜けるとは思えないもの」


「……ふふっ。なにそれ。どういう自信だよ。ヤマダさんには敵わないな」


「当然よ。勝負にならないわ」


 子供たちとは真逆の方向に進みながら、僕らは穏やかな小風を身に受ける。

 通学路を抜ければ、途端に人気は減って、下り坂の先に川が見えてきた。

 深まる緑。

 その脇に覗く小奇麗な施設。

 たしかこの辺りはムーゼの森と呼ばれる、芸術方面のカルチャースポットだったはず。

 彼女の住む街の地図を片手に、いつの日かミライがそう教えてくれた。

 その証拠に、絵本の森美術館や、エルツおもちゃ博物館といった文字の表記された看板が視界には映り込んでいた。

 さすがヤマダさん。なんともお洒落なお散歩コースだ。


「こっちよ」


 若干古めかしい薄桃色の門が右手に見えると、川にかかる橋を渡る前に、ヤマダさんはそちらの方に方向転換をする。

 “軽井沢タリアセン”

 タリアセンというのは、ウェールズ語で輝ける額という意味だと、ミライから聞いたことがある気がする。

 もっとも、僕はウェールズ語というものがまったくよくわからないし、猫になっても額はふさふさなので輝くことはないのだけれど。

 なんて、どうでもいいことを僕に考えさせる看板を横目に、もし僕らが人間だったら手続きが必要そうなゲートを、誰に咎められることもなく通り抜ける。


「……おー、綺麗なところだね」


「そうでしょう? 私、ここ好きなのよね。あなたも気にいった?」


「うん。僕もここ、好きだな」


「そう。それはよかったわ」


「まあ、ヤマダさんが気に入った場所なら、僕、どこでも気に入るに決まってるんだけどね」


「なんて紹介しがいのない猫なのかしら。全肯定されてもあまり嬉しくないわ」


「そうなの?」


「そうよ。私の共感して欲しいところだけ共感して、私の共感して欲しくないところは共感しないようにしなさい」


「ややこしさの塊だね。僕以外がヤマダさんの魅力を見抜けないのも納得だよ」


「どこかで聞いた台詞ね」


「オマージュだよ。気が利いてるでしょ?」


「気が利きすぎて、ちょっと鬱陶しい」


「でも、そんなところも、好き?」


「とは言ってない」


「惜しい。あともうちょっとだったのに」


「何も惜しくない」


 木々の陰になっていてやや薄暗い入り口を抜けると、そこには涼し気な景色が爽やかに広がっていた。

 清々しい晴天を、鏡のように反射する広大な湖畔。

 湖の中央には、浮島のようなものがあって、若い男女が記念撮影をしている。

 水際のベンチには、深い紅のカーディガンを羽織った老婆が一人腰掛けていて、向こう岸に見える二階建ての館をぼんやりと眺めている。

 手入れの行き届いた芝生の上を、湖に沿うようにして僕らは歩く。


「ヤマダさんは、どうしてここを散歩のコースに選んだの?」


「ここはなんだか、時間がゆっくり流れている気がするの」


「たしかに。ここは、落ち着く」


「時間は遅ければ、遅いだけいいわ。急ぐことなんて、何一つない」


「至言だね。時間はいくらあっても足りないよ」


「ずいぶんと実感のこもった言い方をするのね」


「まあね。ここに来るまで、ずいぶんと時間がかかったから」


「そんなにかかってないでしょ」


「ざっと八年と一年くらいかかったよ」


「どうやらあなたと私じゃ、時間の感じ方にいくらか隔たりがあるようね」


「それは否定できないね」


 ゆったりとした歩調で進む僕らを邪魔するものは、ここには何もない。

 ただ時々、水面を風の気まぐれに任せて漂う鴨と目が合うだけ。

 何か言いたげな視線を受けるけれど、結局僕らが言葉を交わすことはない。

 かつて同じ屋根の下で過ごした彼女とも、今はもう会話ができなくなってしまったように、僕の言葉は彼らにはもう届かない。


「ここは、彼らの唄がよく聴こえるの。だから好きってのもあるわ」


「……これはたぶん、カワセミとアカゲラだね」


「唄を歌う彼らの名前?」


「まあ、だいたいそんな感じ」


「そう。あなたは物知りね」


「僕も時々、唄を歌うからさ」


「そうだったの? 今度聴かせて」


「いやあ、それは難しいかも。僕、昔ほど上手くは歌えないから」


「上手くなくてもいいわよ。ただ、君の声で唄が聴きたいだけだから」


「……むしろ、ハードル上がっちゃったなそれ」


「ふふっ。そう? でも私、本気よ。いつか絶対聴かせて貰うわ」


「うーん。そうだな。じゃあ、ヤマダさんも一緒に歌ってくれるなら、いいよ」


「それは絶対嫌」


「えー、なんで?」


「嫌なものは、嫌なの……だって、恥ずかしいじゃない」


 珍しく照れているようで、ヤマダさんは目を伏せる。

 あまりに可愛らし過ぎて、からかうことを忘れた僕は、ただ見惚れるだけ。


「……そういえば、あなたのお気に入りの大きな猫のメスにも、唄を歌う小さな弟がいたわよね?」


「……よく覚えてるね。まあ、あれは弟じゃなくて、インコのサイだけどね」


「サイ? それが彼の名前?」


「そうだよ。室生犀星むろおさいせいっていう綺麗な言葉を使う大きな猫がいて、彼の名前からとったんだってさ」


「へえ、そうなの。私の名前にも由来があるのかしら」


「たぶんあるんじゃないかな。気になる?」


「いえ、私は気にならないわ。私は、私だから。どんな名で呼ばれも、私が変わることはない」


「さすがだね。惚れ直した」


「でも、トモくんの名前の由来は知りたいわ」


「え、なんで?」


「教えなさい」


「うーん、やだ?」


「え、どうしてよ」


「……だって僕がどんな名前だろうと、僕が僕であることに変わりはないからさ」


「怒るわよ」


「ごめんなさい」


「そのうち、教えて」


「わかったよ。そのうちね」


 僕は意外に思う。

 ちょうどヤマダさんの住む家の道を挟んだ向かい側に住むミライは、たしかに鳥のインコを一匹飼っていた。

 僕やミライは、一緒によく窓からヤマダさんのことを眺めていたけれど、まさかヤマダさんの方も僕らのことを見ていたなんて。


「そういえば、彼の唄は聴こえなくなったわよね」


「……まあ、もう彼は、いないからね」


「あらそう。それは、残念ね。彼の歌声、私、好きだったのに」


 ミライの飼っていたインコのサイは、もう、この世にいない。

 死因は知らないけれど、たぶん、病気か何かだと思う。

 わざわざ墓まで作って、丁寧に埋葬したミライは、目を真っ赤にして泣いていた。

 そんなに泣くなよと、あの日の僕は声をかけられなかった。

 毎朝、家を出て街に出かける彼女に、挨拶をし続けているのは、その償いみたいなものなのかもしれない。


「あなたは、いなくならないわよね?」


「ヤマダさんは、僕にいて欲しい?」


 夏の青も、秋の紅葉も、冬の白化粧も、僕は君と一緒に見て、感じたい。

 僕の思い浮かべる未来には、いつも君がいた。


「……私は、ずっと一人ぼっちだったけれど、それに耐えられた。一人でも構わなかった。でもそれは、ただ、耐えられただけ。それでもいいと思っていたけれど、望んでいたわけじゃない。本当は、ずっと待っていたのよ。こうやって、私の隣りで、一緒に歩いて、どうでもいいお喋りをして、共に時間を過ごしてくれる相手を、探していた。ただ、これまでは、見つからなかっただけなの」


 湖を半周した辺りで、芝生が土道に変わり始める。

 また木々が生い茂り初めて、ヤマダさんの瞳孔が大きくなった。

 澄んだ瞳は、真っ直ぐと僕を見つめていて、優しくて、それでいて穏やかな光が宿っている。


「いて欲しい、って言えばいなくならないでいてくれるなら、いくらでも言うわ。トモくん、あなたはいなくならないで。お願いよ」


 僅かに潤んだ瞳を、僕もまた逸らさずに見つめ返す。

 僕は知っている。ヤマダさんがいつも一人ぼっちだったことを。

 道を挟んで、反対側の“山田”と書かれた家に住む君は、窓越しからいつ見ても一人ぼっちだった。


 僕の飼い主の女の子だったミライは、ただのペットのインコにしか過ぎない僕に、色んなこと教えてくれた。


 山田さん家のおばあちゃんは夫に先立たれて、しばらく前から介護施設に入りっきりなのに、飼い猫の引き取り先が見つからないこと。

 毎日、介護施設の従業員の人と、近所の人が餌を与えてはいるけれど、ただそれだけ。

 いつも、いつも、一人ぼっち。

 そんな君を、僕はずっと窓越しから見てきた。

 初めは同情だったかもしれない。

 でもそれは本当に、最初だけ。

 一人ぼっちでも君は、ずっと美しかった。

 凛として、気品に溢れていて、いつも自由で、自信に満ち溢れていた。

 そんな君に、僕はいつからか憧れた。

 憧れは、焦がれて、恋へと変わった。

 でも、結局最後まで、届かなかった。

 僕は空だって舞えたし、言葉だって喋れたけれど、君に想いを伝えることだけはできなかった。

 そして僕は、気づけばもう、息ができなくなっていた。

 それは僕にとって、最初で最後の失恋。

 僕は、君のものになりたかった。

 僕はずっと、君の猫に、なりたかったんだ。


「……いなくならないよ、ヤマダさん。だって僕は、君が好きだから。ずっと、君の傍にいるよ。そのためなら、もう、飛べなくたって、歌えなくなったって、構わないって、本気で思ってる。本気で思ったから、たぶん僕は今、ここにいるんだよ」


 僕のかつての飼い主である彼女は言っていた。

 あの子とトモにいて欲しいと。

 だから彼女は僕を、新しく、トモくんと名づけた。

 ミライのためにも、僕は君と共に生きていく。


「……ありがとう、トモくん。あなたが私のところに来てくれて、本当によかった。私もあなたのことが、大好きよ」


 安心したように頬を緩めるヤマダさんは、髭を揺らして、尻尾をゆるやかに振ると、そしてまた歩きだす。

 そして僕もその隣りにぴったりと寄り添って、共に並んで歩いていく。


「いま、僕のこと大好きって言った?」


「言ってないわ」


「惜しい。気のせいだったか」


「ふふっ、たしかにいまのは、ちょっとだけ惜しかったかもしれないわね」


 たとえば僕が君の猫だとして、喉を鳴らして足下にいそいそと駆け寄っても、いつかの失恋はなかったことになったりはしないけれど、べつにそれでもいい。


 美しくない過去は、美しくないままで。

 綺麗な未来を目指して、僕は君と一緒に、これからを共に歩いていけばいい。


 空は青く、季節は春。



 僕が、君のために猫になってから、もう一年が経とうとしていた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

たとえば僕が君の猫だとして 谷川人鳥 @penguindaisuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ