altra volta.

若槻きいろ

第1話

 耳鳴りのように、記憶の底でその音が響いている。

  



 真夜中に空を見上げた。息苦しくて飛び出た道路の真ん中で。まんまるい月があたりを茫茫に照らす。玉のような汗は未だ引かず、額から流れ頬を伝ってはアスファルトを濡らした。

 六月の、夏とも似つかぬじめじめした湿気の多い晩のことだった。

 僕は身を投げ出すように走っていた。心臓はどっどっどっ、と煩く一定のリズムを刻みつけている。

 電柱に手をついて、肺の全てを差し出すように息を吐いた。それを幾度か繰り返し、繰り返し。

 暗い天幕を仰いだまま瞼を閉じる。鼓動はまだ、僕の鼓膜に音を刻み続けていた。

 

 

 夢を見たのだ。

 昔々、この身体がまだ幼く、楽器の一部だったこ

ろ。肺から出す空気を命の如く吹き込んでいた、なにより自由だったあの時代。金ピカにひかる無機物が、何より僕の胸を昂らせていた時間。

 それらが、忘れようとしていたそれらが、ふっと夢を媒介として僕に降りかかった。かつての感覚を思い出せと無意識に三本指が宙を叩いてしまう。まるで何かが僕に乗り移ったかのように。

 思い起こせば耐えられなくて、それからは誰にも知られないよう、身を隠すように外に出ていった。

 ふらふらと当てもなく突っ掛けたサンダルを動かす。

 覚束ない足元は段々と速く、次第に黒染めしたアスファルトを早足で駆けていく。緩く緩い風を頬がきって、否応なしに、耳に世界の音が流れてきた。

 クラクション鳴らす車の騒音から鳴りようを、何処かの窓から漏れる何処か懐かしいラジオの曲調を、かつての記憶が引き摺り出していく。


 叫ぶように、囁くように。腹の底から呼吸を振るわせた。絶えた空気を求めて肺が生きたがるのを、在らん限りの酸素を唇から楽器に伝えるのを、今だ、今だ! と過ぎた身体が求めている。

 ふわり、と腕が動いた。かいなが構えを形作るが、けれどそこには幻しかない。はっと気づいて、慌てて手を下げた。……やめて以来、満たされていないと、本当は分かっているのだ。

 楽器は僕の半身だった。一番最初に渡されたとき、自分の子どものように大事にしなさいと習った。優しく、壊れ物のように繊細に。ぶつかろうものなら、身を呈して守った。

 ただの、金属の塊だというのに。息を吹き込むことは命を吹き込むこと。まるで命を分け合った双子みたいに。大切だった。

 終わりを告げたのは、子ども時代の最後だった。

 

 


 あの夜、不意に思い出してからというもの、僕は時折ベットから抜け出して夜の街を歩いている。繁華街の裏道を、酔っ払いが通る住宅街を、深夜遅くまで走る電車の真横を、歩いて、歩いて、歩いて。

 知っている音を集めて、口ずさむ。……足りない、足りない。あの何処までも伸びる柔らかな音が足りない。ソロでメロディラインを奏でる時の、緊張と心地よさが足りない。足りない、足りない……。

 いろんな音の重なりようが、僕のこころを何処までも弛たらせるのが心地良かった。ほんとうは、僕のほんとうは、いつまでも、浸っていたかったのだ。

 夜の底、深い水底を魚が泳ぐように。

 脳裏が叫べ、叫べ! と唆す。唇を震わせ、息が出来なくなるまで吐き出せと。

 あぁ、今すぐ叫びだしたいのに!

 当てなく歩いてどれくらい経ったのか。方向も道順も何も覚えてやしない。ずっと住んでいる街だというのに、取り巻く世界はなんとも他人行儀だった。誰もかもが無責任だ。自分を照らす街灯さえかったるそうに明滅している。どうせそんなものだ。

 ふらつく足で暗い路地に入った、その瞬間。今までと違う音を耳が拾った。



 ビリビリと鼓膜が破れそうな破裂音が、唸るような低音が、主役は自分だと言わんばかりの主旋律を奏でる高音が、それに乗っかるリズム隊が、今そこにあるかのように自分の耳に届く。

 はっ、として目を向けた。視線の先には地下へと続

く階段と、分厚くて重厚な朱の扉。たん、たん、と一段ずつ踏みしめて、扉の前に立つ。

 ぽつんと暖色のスポットライトが当たる扉の黒々としたプレートには、『BAR Andante』と金字で綴られていた。

 扉の向こうから音が僕を誘う。ずっと聴きたかった。ずっと求めていた。足りない僕のはんぶん。ずっと探していた正解のありか。期待するように心臓が高鳴った。

 叫べ、とこころが訴える。ここに、僕の望むものがあるはずだと。

 身体の全てを託すように、僕は扉を押し開けて。

 ようこそ、と世界が瞬いた気がした。


   

                                   Fin.





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