11

 イルは歯噛みして短刀を振り上げる。その腕を、傍らからそっとエルが掴んで制止する。

 ――私たちを挑発して目的を達成するつもりなんだよ。

 ――だけど。

 ――私にこれを貸して。大丈夫だから。

 促されるままに、イルは自身の短刀を手渡す。詩集と短刀の両方を抱えたエルを、〈調停者〉の冷たい眼差しが見据える。

 ――あなたの役割とか、私たちがこれまで繰り返してきたこととか、すべてがすでに定められていたことだとしたら、その筋書きはどこに書かれてるのかな。きっと私たちには読み得ない形で存在しているであろう物語。私たちを今の私たちたらしめている言葉たち。〈死せる魂〉やその記憶、〈青の帳〉、もしかしたらこの世界を丸ごと内包しているかもしれない文字列。

 ――仮にそんなものが存在するとして、どうなる? 

 どうかな、と言ってエルは空を見上げる。そこにはむろん、なにもありはしない。しかし彼女の瞳はずいぶんと長いこと、なにもないはずの空を凝視している。

 ――それを通して、私たちを外側から見ているのかも。閉じた箱庭のなかで流転する私たちを、その流転をもって完結と見做したがる意思があって、私たちはそれに従ってるだけなのかも。

〈調停者〉もまた虚空を見上げる。エルの言葉に耳を傾けている。

 ――完全に閉じた円環は、外側から見たらきっと綺麗だよ。私も〈詩人〉だった頃は、そういう詩を目指していたかもしれない。でも今は違う。私はもう〈詩人〉じゃなくなった。イルに名前を貰ったから。

 ――今のお前の望みはなんだ。

 ――イルと一緒に運命を壊すこと。

 ふふ、と〈調停者〉が笑う。――本当にそれが可能だと思うのか。

 ――私たちだけじゃきっと無理。でもあなたが、そして外側の、円環の向こうにいるかもしれないなにかが、そう望んで手助けしてくれるなら、できるかもしれない。

〈調停者〉は再び空へと視線を移す。彼女の目になにが映っているのかを知るすべは、イルにもエルにもない。空の向こう側に、本当になにかがあるのか。別の世界が広がっているのか。

 やがて〈調停者〉が目を閉じて頷く。そうして、何度となく繰り返してきた言葉を、ゆっくりと発する。

 ――それでどうなったとしても、私は知らないぞ。

〈調停者〉の手が伸べられて、エルの持つ短刀に触れる。途端に刃は蒼白い、これまでとは明確に違った輝きを放ちはじめる。

 ――おまえたちに貰ったすべての傷を返した。その力をどう使うかは、おまえたち次第だ。

 ありがとう、とエルは言って、そっと詩集を地面へと放る。はずみで開かれた頁のうえに、自分たちの決して知り得なかった無数の言葉が綴られているのを、イルとエルは目にする。その文字列はこんなふうに始まる。


 ……水面に映りこんだ曖昧な自身の影を飽きることなく眺めている少女の胸元には、古びた詩集が抱えられている。文字は薄れ、表題は読み取れない。扉を飾っている肖像もまた色褪せて、ただかろうじて、それが女であろうと分かるのみである。……


 エルが短刀を握りしめる。イルはその掌のうえにそっと、しかし確たる意思を込めて、自らの掌を重ねる。ふたりは目を合わせて頷き合う。一緒にやろう。一緒に。

 振り下ろされた短刀が、詩集の頁に突き刺さる。そこから溢れ出した蒼白い閃光が一帯を包み、イルにもエルにも、〈調停者〉にも、円環の外側にいるかもしれない者にさえ、なにも見えなくなる。

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