9

 ――え?

〈調停者〉もまた同時に唇を開く。なにを言い出すんだ、こいつは。これまで一度として、こんな番狂わせは起きたことがない。片方が旅立ち、もう片方が見送る。このふたりに許されている行動はそれだけだ。他にはなにも起こるはずがない。決して。

 決して。決して?

 これが、とイルが告げる。その表情は凛としている。

 ――本当に正しいこと。私の望み。最後まで同じ時を過ごしたいなら、片時だって離れるべきじゃない。そうじゃない?

〈詩人〉である側はゆっくりと、それから強く、目で頷いて応答する。イルである側は再び体を低くし、相手の唇をそっとついばむようにして口づける。

 ねえ、と〈詩人〉である側が囁く。――やっぱり私にも名前が欲しいよ。付けてくれる?

 ――いいの? ここに来る前の、本当の自分を思い出せるかもしれないのに。

 いい、と〈詩人〉である側はすぐさま答える。――あなたと一緒にいることが、私の本当の望みだから。他の可能性がぜんぶ無くなったっていい。あなたの横にいるひとつだけ選び取れたら、それでいいの。

 ようやく〈調停者〉は唇の端を吊り上げる。馬鹿が。おまえたちがこの世界の住人であることに変わりはない。他者に与えられるのは自身の所有物だけだ。おまえの持ち物は短刀、そして自分の名前のみだ、イル。そして与えられた名前を、そっくりそのまま返すことはできない。

 ――エル。

 ――エル?

 そう、とイルは言う。――私にはそれが精一杯みたい。あなたがくれた私の名前の一部を、今度は私があなたにあげる。ごめんね、そのくらいしかできそうにない。

〈詩人〉――エルはかぶりを振る。その瞳は明るく瞬いている。

 ――いいよ。凄く嬉しい。本当だよ、イル。

 ――よかった。

 イルは安堵して笑み、それからやっと起き上がる。エルに向けて伸べた手は確かに濃度を増していて、そこに存在して見える。

 エルはイルの手を掴む。掴むことができる。

 ――じゃあ行こうか。

 ――うん。一緒に行こう。

 ふたりは同時に、握り合った掌に力を込める。懐かしい泉に背を向け、ゆっくりと歩きはじめる。

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