6

 ――そうか。だがおまえも知ってのとおり、〈青の帳〉が訪れたらなにもかも終わりだよ。それまでの僅かな時間を引き延ばして、いったいなんになると思う?

 ――ふたりで同じ時間を過ごせる。

 はは、と女は乾いた笑みを覗かせる。

 ――所詮、おまえの身勝手だな。正直なところ、〈青の帳〉まで居残る連中は不運だよ。先に消えられるなら、ずっとそのほうがいい。

 ――苦しむことになるの。

 ――どうだろうね。私に言えるのは、余計な引き延ばしはしないほうがいい、ということだけだ。分かったら今すぐ、ここを立ち去れ。おまえの居ていい場所じゃない。

〈詩人〉は同じ場所に立ったままかぶりを振る。予想外の態度だったのだろう、女は形のいい眉を僅かに顰める。

 ――私の話が聞こえなかったか。

 ――勝手でもいい。最後にどんなことが起きてもいい。なにもしないで、あの子が消えるのを待つなんてできない。方法があるなら教えてほしい。

 相手に詰め寄り、ねえ、教えてよ、と〈詩人〉は声を荒げる。――なにか知ってるんでしょ。〈青の帳〉のことをあの子に教えたのもあなた。私には分かってるんだから。

 女は答えない。平然たる表情のまま、値踏みするかのようにこちらを見つめてくるばかりだ。その挑発的な視線に〈詩人〉は苛立ち、遂には激昂する。

 ――教えろって言ったの。あんたこそ、私の話を聞いてなかったんじゃないの。

 短刀を突き付けられてさえ、女は些かも動じない。呆れたように吐息を洩らし、それから一歩前に踏み出てくる。

 ――この私に脅しが通じると思わないことだ。もう一度言うぞ。引き返せ。

 ――嫌だ。教えてくれるまでここを動かないから。

 女は小さく首を傾けて腕組みする。

 ――どうしても気持ちは変わらないか。

 ――変わらない。なんだってする。

 不意に女の手が伸びてきて、〈詩人〉の頬に触れる。酷く冷たいその感触に、彼女は総毛立つ。

 取引だ、と女が低い声で発する。

 ――取引?

 ――そう。まさかなんの見返りも抜きに、私から情報を引き出せる気だったか。

 そんなこと、と〈詩人〉はかぶりを振る。女は満足げに笑む。

 ――なにを差し出せばいいの?

 ――おまえの名前は。

 唐突なその問いに、〈詩人〉は狼狽する。自分は詩人であり、他の何者でもない、と彼女は答える。

 ――ただの詩人か。

 ――うん。あの子が私をそう呼ぶから。あなたは?

 ――そうだな、〈調停者〉とでも。しかし残念だ。おまえが単なる〈詩人〉とはね。

 ――どういうことなの。

 ――名前というのは立派な所有物だ。それを寄越せば教えてやろうと思ったが、おまえには名前がないという。だったら交渉は決裂だな。

 待ってよ、と〈詩人〉は呻き、そして右手に握った短剣を横向きにして突き出す。――これをあげる。だから教えて。

 ――駄目だ。

 女の返答に〈詩人〉は愕然とする。

 ――どうして。

 ――それはおまえの所有物ではないからだ。借り物はいらない。

 断固とした口調でそう言い放つと、〈調停者〉は身を翻そうとする。追い縋るすべがもはや残されていないことを、〈詩人〉は悟る。なんということだ。あの詩集を持って来さえすれば。

 涙を零しつづける〈詩人〉を、不意に〈調停者〉が振り返る。ほう、とつぶやいて、〈詩人〉の左手を掴む。

 ――なにするの。

 ――欲しいものが見つかった。取引に応じるか。

〈詩人〉は目許を拭って〈調停者〉を見返す。――私の所有物?

 ――ああ。それで、どうする。応じるのか。応じればおまえの望むとおりにしてやる。おまえの愛しい〈死せる魂〉が、〈青の帳〉まで永らえられるようにしてやろう。

 その申し出に、初めはゆっくりと、続いて二度、三度と、〈詩人〉は頷いて応じる。なぜ〈調停者〉が急に気を変えたのか、彼女には分からない。しかしこの絶好の機会を逃せるはずもない。

 ――取引に応じる。

 いいだろう、と厳かな声で〈調停者〉が言う。――望みを叶えてやる。それでこの先どうなっても、私の知ったことではないがな。

〈調停者〉の蒼白い指先が、〈詩人〉の左腕を撫で上げる。またしても強い閃光が彼女の目を射る。はたと気が付くともう、そこには誰もいない。

 静寂に包まれたまま、彼女はしばし呆然と立ち尽くす。自身の左腕から傷跡がそっくり失せていることに、彼女は気付けない。

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