4

 イルは吐息を洩らす。呆れた様子を隠そうともしない。

 ――誰だったかなんて、覚えてるわけないでしょう。〈青の帳〉のことはきっと、世界の法則だから覚えていられるだけなんだよ。

 ――なんだっていいよ。その理屈でいえば、消滅を免れる方法だって覚えていられるはず。相手が誰だっていい。私はそれを探しに行く。

 確たる口調で〈詩人〉は告げる。その気配が伝わったのか、イルは僅かに表情を変える。

 ――本気なの。

 ――もちろん。

 ――会わなくなったら記憶がもたないって言ったのはあなたでしょう。

 相手の目を見返しながら、〈詩人〉は微笑する。

 ――あなたが私を忘れたとしても、また最初からやり直せばいいだけ。消えてさえいなければ、何度だってやり直せる。

 ――そうかもしれないけど。あなたは私を覚えていられるの? 旅に出て、すぐに目的を忘れて、彷徨える魂になって終わり、なんてこともあり得ると思わない?

 ――心配してくれるんだ。

 ――馬鹿なことはやめとけって言いたいだけだよ。

 ――馬鹿でもいい。私は絶対に戻ってくるよ。約束する。

 そこで〈詩人〉は、いいこと思い付いた、と口調を明るくする。

 ――お互いの持ち物を交換しておこうよ。相手のことを少しでも感じていられるように。ね、それで決まり。

 決まりって、と抗弁しようとするイルを、〈詩人〉は彼女らしからぬ視線の力で沈黙させる。半透明の、煙と光の織り成した幻のような体を、慎重に両腕で包み込む。

 ――私の詩を読んでいい。待っていてくれるなら。私の言葉が、あなたの存在をほんの僅かでも濃くできるなら。

 イルは観念したように、どこからか自身の短刀を抜き出す。草の上で剥き出しになった刃は、持ち主とは正反対の、確かな質量を伴っている。

 イルはなにも言わないまま、〈詩人〉の額に触れる。指先で髪を掻き分けようとするが、それは叶わない。〈詩人〉もまた、相手の指の感触を知覚できない。こうする間にも、彼女は薄れつつある。

 ああもう、とイルは気色ばみ、それから〈詩人〉の唇に自らの震える唇を重ねる。その感触だけは、幻には違いないのに不思議と鮮明で、〈詩人〉の意識は遠のきかける。

 イルは一瞬ののちに体を浮かせ、〈詩人〉から飛び離れて背を向ける。

 ――行きなよ。忘れたら許さないから。

 ――イル。

 ――早く行って。

 うん、分かった、とだけ応じ、〈詩人〉は短刀を拾い上げる。そして代わりに、同じ位置に自身の詩集をそっと置く。片時も手放したことのなかった所有物との別れを、彼女は意識する。

 一歩、二歩、と〈詩人〉はその場から遠ざかり、やがて駆け出す。イルも〈詩人〉も振り返ることはない。

 これでいい、と〈詩人〉は繰り返す。これが正しいのだ。

 泉が完全に視界から消えたのを確かめ、ようやっと〈詩人〉は立ち止まる。イルの短刀を逆手に握り、切っ先を左腕へと向ける。位置を定めて強く突き刺す。

 すぐさま意識を痛みが支配するが、彼女は手を止めない。〈死せる魂〉になったとはいえ、自分はまだかろうじて、肉体だった頃の記憶を残しているようだと〈詩人〉はほくそ笑む。

 これでいい。なんと素晴らしいことだ。

 苦悶の末、〈詩人〉の左腕にはくっきりと一語が刻み込まれる。彼女にとって、もっとも愛おしい名前。

 イル。

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