3

 長く続いた習慣が〈詩人〉から消える。彼女は水面を見つめることを忘れる。泉を訪れれば必ず先にイルがいて、彼女を嬉しげに歓待するからだ。ふたつの〈死せる魂〉は隣り合って、取り留めなく語らう。その時間を、〈詩人〉は愛おしく思いはじめる。

 頭の片隅にあった〈青の帳〉にまつわる物語が、〈詩人〉のなかで少しずつ薄れる。イルは常に楽観的で、享楽的でいる。ずいぶんと頻繁に彼女が笑うことを、今の〈詩人〉は知っている。色のない少女の色のない笑みから表情を読み取るのも、もはや容易い。

 詩集の空白になった頁に、〈詩人〉は自らが詩人であるために新たな言葉を書きつける。巧拙を判じる能力が、自分に備わっているとは露ほども思わない。それでも胸の内から溢れ出る奔流を、彼女は留め置けない。

 なにを書いてるの、と身を横たえたイルが訊ねる。無造作に晒されたその手足を、〈詩人〉は詩人の目で鑑賞する。

 ――新作を。

 ――私にも見せてよ。

 ――まだ途中だから。

 ――もう書き上がってる作品だってあるでしょう。

 ――ないよ、まだ。もう少し待ってて。

 普段どおりの直截さで、嘘つき、とイルは言う。半透明の体を起こして、〈詩人〉との距離を詰める。

 ――そんなに熱心に毎日書いてるくせに。一篇もできあがってないわけがないでしょう。

 イルの怒りはもっともだと、〈詩人〉は納得する。頁と相手の顔とを交互に見つめつつ、せめてもの言い訳を口にする。

 ――出来栄えが気に入らないの。

 ――あなたが気に入らなくても、私が気に入るかもしれない。だから見せてよ。

 ――まだ駄目だってば。きっと気に入らない。私を嫌いになる。

 ――ならないよ。約束するから見せてって。

 なおも渋り、詩集を抱え込んだ〈詩人〉の態度に焦れたのか、イルは〈詩人〉に掴みかかる。ふざけ半分の動作でこそあったが、不意を突かれた〈詩人〉は酷く驚いて後方に倒れ込む。

 間近に迫ったイルの顔を見返しながら、〈詩人〉は奇妙な感覚に見舞われる。折り重なっているはずの体の重みを、彼女はまるで感じていない。触れあっているはずの肌の感触もまた、そこにはない。反射的に突き出した腕はなんとイルの体を貫通して、向こう側の虚空のうちにある。

〈詩人〉はようやく、自分たちが〈死せる魂〉であることを思い出す。そろそろと腕を引き抜くと、イルの影が陽炎のように揺れて、掻き消えそうになる。

 ――もうじきなのかな。

 他人事のような飄然とした口調で、イルがつぶやく。怒りも悲しみも、恐怖でさえも、彼女は宿していないかに思われ、〈詩人〉は感情を乱される。

 ――もうじきって、あなたはそれでいいの。

 ――仕方ないものは仕方ない。

 私は、と言いかけて、〈詩人〉は口を噤む。今でこそイルに纏わる記憶は鮮明だが、それは毎日のように顔を合わせている功績にすぎない。この世界で記憶は持続しない。書きつけたはずの詩でさえも、時間とともに失せてしまう。

 ――明日あなたがいなくなって、私はいつもと変わらずここで待ちつづけて、そうするうちにあなたを忘れて、それきり。そんなふうになってもいいの?

 よくはないけど、とイルは応じるが、口調は変わらず淡々としたままだ。身じろぎもしないまま、仰向けになった〈詩人〉に覆いかぶさりつづけている。

 ――私たち〈死せる魂〉はたぶん、二回目の機会を与えられてここにいるわけでしょ。それも全うして終わるなら、もう充分だって気がしないでもないんだ。

 そんなの認めない、と〈詩人〉は声を荒げる。肉体が存在した頃でさえ、これほどの激情に見舞われたことがあったかどうか。

 ――触れることもできない。言葉も残せない。なにもなくなって終わりだなんて、私は信じない。

 ――だけどさ。

 ――だけど、じゃない。ねえイル、あなたに〈青の帳〉について教えた人がいるはずだよね。その人はきっと、ほかのこともいろいろ知ってる。会えれば、なにかいい方法を教えてもらえるかもしれない。

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