ハッピーエンドの殺し方

百崎千鶴

拝啓

 例えば、ソーシャルゲームに課金した後。死にたくてたまらなくなる。

 他でもない自分が好きでプレイして、誰に脅されたわけでもなく自分の意志でお金を使ったにもかかわらず、時間が経つにつれ大きな後悔が襲ってくるのだ。頭がおかしいとしか言いようがない。


 同じで文章を打っているにしても、きっと今の世が明治時代であれば「これも一つの才である」と認めてもらえたかもしれないが、令和の今はただその辺りに転がる一匹のメンヘラだ。太宰治も首に紐を繋げたまま同情して鼻で笑うことだろう。


 毎日毎日、「自分には生まれ持った文章の才があり、顔もそれほど悪くない」と脳の味噌に思い込ませなければ生きていくことができない。そうしなければ息ができない。

 私には何もないのだと、誰よりも理解しているのは他でもない私自身なのだから。

 現実を直視することがひどく億劫である。鏡に映るこのみにくい生物は誰だろうか、ああ自分だったかと落胆するのにも随分慣れた。


 何よりも誰よりも、私こそが世界で一番醜い生物だと思う。いや、見た目の話ではない。心の話だ。

 私は、自動化したレジの操作すら満足にできない他の客を見て「なんて頭が悪いのだろう」と心の中であざけるのだ。立派な頭脳を持っているわけでもないくせに。ああ、死にたい。


 成人式を終えて社会に出た途端、まるで数十年来の親友かのようなツラで話しかけてくる元いじめっ子に吐き気がする。しかし、同時に不安が襲う。

 もしかすると「いじめられている」と思っていたのは私だけなのではないだろうか? いや、もしかすると私の妄想だった可能性すらある。なんせ、“いじめを受けている”と認識していた期間のことを、私はどう足掻いても思い出すことができないのだ。

 記憶にはひたすら空白ばかりが続き、気づけばいじめは終わっていたように思う。私の妄想だったのなら、大げさに学級会まで開かせてしまったことを詫びなければならない。本当に申し訳ない、死んでつぐなわなければ。


 でもでもだってと、心に住む五歳児が駄々をこねる。

 私がおかしいのは私だけのせいではない! 両親の精神的虐待によって精神がじ曲げられてしまった結果である!

 ああ、結果論。そう考えなければ今この瞬間、平気な顔で息が吸えないのだ。自分自身の愚かな部分は、いつまでも親に責任を押し付けるのが一番楽だ。しかし以外の事柄は、自分のせいにするのが一番幸せである。

 私のせいですと考えれば、私なんかのために責められて傷つく人間が相対的に減るからだ。などと立派な自己犠牲精神をはたかかげて振りながら、私はいつまでも両親を許すことができない。


 スネをかじりながら何が『許せない』のだろうか? 死んでしまえばいいのにと私が笑う。よくわかる、私もそう思う。

 どれだけ嫌おうと死ぬ瞬間までこの体の中にはあれらと同じ血が流れているのだと考えるだけで、透析とうせきで全ての中身を入れ替えたくなる。


 どうして人間なんぞに生まれてしまったのだろうかと、はえを殺しながら考えた。

 私は人間に向いていない生き物だと常に思う。蚊として生を受けられたなら、一瞬で人生を終えることができたのに。

 人間は死ぬ瞬間まで面倒だ。以前は「あと二年経ったら、電車に飛び込んで生涯を終えよう」と考えていたのだが、先日のテレビでバケツとトングを持ち深夜まで自殺者の散らした肉を集める駅員を見た時、「申し訳ない」という思いが真っ先によぎったのである。

 正直に言うと電車の遅延ちえんが起こると聞いてもどうでもよかった。しかし、真面目に働く彼らに死んだ後まで私のような人間のために手間と時間をかけさせるわけにはいかない。飛び込みは却下になった。


 著名人が先立つたび、画面越しにファンが涙を流すたび、「私が代わりに死ねばよかったのに」と心の底から思う。なぜ価値のある人間ほど死が近く、価値のない人間から死は遠ざかるのだろうか。理解に苦しむ。

 名前を書けば死ぬノートが私の手元にあったのなら、まず自分の名前を書き込むだろう。これこそ『正義』だ。

 ああでも、あれは自死に使うと罰があるのだったか。聞くところによれば、通常の自殺にも魂の代償があるそうだ。それは嫌だと考えるのだから私はいつまで経っても駄目なままなのだろう。死ぬ瞬間まで周囲に甘えきり、死んだ後まで甘やかしてほしいと願うのだから救いようがない人間だ。安楽死が合法になるのは何年後だろう?


 つまるところ、私は「消えてしまいたい」のだ。この世からも、私に関わった全ての人間の記憶からも。綺麗さっぱり抹消してほしい。

 もしも一つだけ特殊能力をもらえるのなら、「死にたい」と口にすれば消えてしまえる力が欲しいとのたまいながら、きっと私は実際にその瞬間を迎えた時「嫌だな」とみっともなく生にすがるのだろう。

 死ぬ夢を見て目が覚めた時、悲しくて仕方がなかった。それは本当に死ねていなかったことをなげいたのではなく、夢の中ですら私は「死ぬことが怖い」と考えていたからである。なんて無様なのだろうか。


 神は人に二物を与えないと言う。私には何の才もないと思っていたが、ともすれば“頭がおかしい”のが自分に与えられた唯一の“もの”なのかもしれない。

 では、小説に関する才能は望めないと考えるのが妥当だろう。ううん、絶望感たるや。死んでしまいたいと口癖のように考える。


 医者から処方された『おかしなことを考えない薬』を飲んでも、頭の中で自殺の予行練習をしてしまうのだ。『気分が落ち込まない薬』を飲んでも、ふとした瞬間我に返り死にたくなってしまうのだ。

 先に言っておくが、私は鬱病患者でなければ統合も失調していない。ただこの十数年間、不安に襲われ環境に適応しすぎるだけである。

 医者は「気分の落ち込みを深く考えるな」とアドバイスするが、では深く考えないように考えることをやめるにはどうするのが最適だろうか?


 たった一人でも誰かに必要とされたい・誰かの特別でありたいと願うくせに、人間に向いていないため特定個人のためにできる限り時間や金を使いたくないと考えてしまう。

 昔々、人生で唯一心の底から愛した相手に依存した結果、「私を生きる理由にしないで」と別れを告げられた。ぐうの音も出ない正論である。以来、まともな恋人を作ることができない。依存してしまうことを恐れて、他人とは必要以上に深く関わらないようにしている。ただの弱虫だ。


 私を嫌う人間は本気で探せばこの世にごまんといるだろうが、その全員に強く主張したいのは「世界中で誰よりも私のことが嫌いなのは私自身だ」ということである。どれだけ私が嫌いでも、傍観ぼうかんする“他人”であり続ける限りきっと「殺してやる」とまでは考えたりしない。

 しかし自分自身にとって一番のアンチである私は、隙あらば殺す機会をうかがっているのだ。私が大きな罪を犯すとするならば、きっとたった一回の殺人罪のみだろう。


 一時間かけてここまでぐだぐだと書きつづってきたが、この話では何も起こらなければ発展もなく、転じず全体を締めくくる言葉もない。誤字脱字を修正しルビを振る瞬間まで、頭のおかしい私が「死にたい」と考えているだけだ。外で歌う鈴虫の方が、私より才能に溢れ素晴らしい人生を送っていることだろう。

 今ここにあるこれも、ブックマークを二つ三つ貰えれば上出来だ。


 いやしかし、困ることが幾つかある。二つ三つ貰えるということは、少なくとも私という物語が二、三人の記憶に残ってしまったということだ。更にとてもポジティブな思考を持てば、私なんぞの書いた話が好きだと思ってくれたことになる。

 そうなってしまうと、私はその二、三人のために生きなければならない。


 念の為ここにも書き加えておこう、この物語はフィクションだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ハッピーエンドの殺し方 百崎千鶴 @chizuru_mo2saki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ