終炎守手の送り火

揺木ゆら

命を燃やし、街に蔓延る悪を絶て


 ――寒い。


 全身を襲う針のような痛みに、微睡まどろんでいた陽太郎はパチリと目を開けた。

 その途端、彼の全てを一つの色が支配する。


 白銀。


 あらゆる生命の輝きを奪う極寒の嵐が、世界そのものを覆いつくしていた。

 死神の吐息の如き凍気が、陽太郎の肌をなぶり魂を連れ去ろうとする。


 ――死にたくない。


 彼は一刻も早くその場から逃げ出そうとするが、動けない。

 ギ、ギギギ……と軋む首を動かしてなんとか下半身を見れば、陽太郎の身体は足元から腰にかけて大きな氷の中に閉じ込められていた。


 氷は徐々に厚みを増し、彼の身体をゆっくりと飲み込んでいく。


 少しずつ、少しずつ。

 気の遠くなるような時間で、それでいて目に見て分かる速さで。

 降り積もった雪が層を成して氷牢となり、陽太郎を閉じ込めていく。


 なんとかしようと必死になって藻掻こうとするも、どうしようもなかった。

 がちがちに固まってしまった白き死神の御手は、陽太郎の全てを捉えて離さない。


 吐く息が、白い。


 身体の芯から意志を、魂そのものを抜き取られてしまいそうな感覚に、陽太郎はこの日初めて死への恐怖を知った。

 流れ出た涙が、薄氷となって皮膚に張り付く。

 だらりと垂れた鼻水が、つららとなって上唇に当たる。


 ――このまま、情けない姿で死んでしまうのか。


 呼吸が上手くできない。

 血流が滞り、意識がゆっくりと遠ざかっていくのが分かる。


「――っあああっ!」


 生けとし生きるものならば誰もが恐れおののく、死神の足音がコツコツと聞こえてくる。段々と明瞭となる、この世とあの世の境目。


 ――だが、の彼は知っていた。


 このおぞましい光景を外側から眺めている、今年十六歳になる陽太郎は――当時僅か七歳だった自分の頭に響いたその足音が、決して幻などではないことを。

 ましてや、死神なんて馬鹿馬鹿しいくそったれのものなどではない、ということを。


 白き視界の先に、光が灯る。

 絶望と孤独に塗れた世界を暖かく照らし出す、太陽の如き魂の輝きが。

 その光が、死にゆく運命だった少年の胸にそっと差し込まれて――。



 ★☆★☆★



「父さん――!」


 現実の陽太郎が目を醒ます。

 ばっ、と身体を起こせばやけに自身の部屋の中が寒いことに気づく。

 季節はもはや、初夏を通り越して真夏。

 つい昨日も最高気温の更新を為したばかりのこの地域において、どうしてこの部屋だけ凍えるほどに冷え切っているのだろうか。

 彼が慌てて近くのエアコンのリモコンを見ると、寝る前に消したはずの電源がオンになっている。設定温度はなんと22度に設定されていた。


「ふ、ふざけんなよっ」


 懐かしく忌まわしい悪夢を生み出してくれた原因に文句をぶつけるべく、陽太郎はシャツとパンツのままで熱を求めて外へと飛び出した。

 廊下に出れば、既に高く昇った太陽の光が暖かく天窓から差し込んでいる。

 そのありがたい恵みをじんわりと全身で受け止めながら、彼はこの一件の元凶を探して、近くの階段から一階へと降りた。

 ギシ、ギシと年季を感じさせる板張りの廊下を進み、唯一の家族が待つ居間の扉を開く。

 ――ぷぅん、とほのかな味噌汁の匂いが彼の鼻をくすぐった。


「あ、起きたのよーたろー?」


 丸い食卓の向こうに見える台所に立つ、水玉模様の寝巻きの上からフリルの可愛いエプロンを羽織った女性が陽太郎の方へ身体を回転させる。

 肩の上に垂らされたふわりとした栗色の髪房と、ぽよんとした一部の部位が遅れてたわんだ。


「ああ、おはようほむら姉さん。あんたがガンガンにクーラーを効かせてくれたおかげでな。おかげで風邪引くところだったっての」

「だってよーちゃん、暑そうにしてたんだもん。最近は熱中症も多いし、エアコンつけてあげれば良いかなーって」

「限度があるだろ、限度が。……まあ、ありがとな」


 ため息を吐きながらも感謝を述べ、陽太郎はてきぱきと姉である焔を手伝いにかかる。カウンターに準備されていた料理を、一皿ずつテーブルへと移していく。

 ベーコンエッグにサラダ、ミョウガの味噌汁とお椀いっぱいの白ご飯。

 大学生である彼女が整えた簡素な朝食は、今日も元気に湯気を立てて陽太郎を出迎えた。


「ん、ありがとね。それじゃあ最後に、はいなっと」


 最後に箸と一緒に、コップ一杯に注がれたお手製の野菜ジュースを手に焔が席に着く。


「はい、よーたろーの分」


 どんっ、と置かれたコップの中で、緑色の表面がでろりと揺れる。

 姉特性の栄養満点ドリンクだ。

 確かに体には良いのだが、その青臭さと粘性を陽太郎は大きく苦手としていた。


「うっ……いただきます」

「いただきまーすっ! ――んーっ、今日も朝ご飯がおいしー!」


 合掌し、ぱくぱくと箸を進める二人。

 その視線の向こう側では、今日もテレビが朝のニュースを読み上げていた。


『本日未明、陽炎病院の近くにてトラックが横転し、危うく横の歩道を通り過ぎていた老人をはねるところだったと――』

「まったく、最近は危険なニュースが多いよねっ」

「本当にな。嫌な話だ」


 手短な感想を呟きながら、味噌汁を飲む。

 すーっ、とミョウガの残り香が爽やかに喉を通り過ぎていった。


『現場の近くには不審な焦げ跡があり、運転手だった男性は人魂を見たとの証言を――』

「人魂ねー。面白いよね、こんな科学的なご時世なのに」

「そうだな。確かにもう少し誤魔化しようがあるだろうに。それでも、これくらい面白そうな与太話の方が視聴者も興味を持つんだろ。良くも悪くもな」

「なるほどー。そんなものなのかな?」

「そんなもんだよ、テレビも世間もな」


 事件をあくまでも他愛のない話題として聞き流しながら、二人は十分も経たないうちに朝食を食べ終えた。


「ごちそうさまっ」

「ごちそうさま。それじゃ、後は片付けとくから」

「ん、いつもありがとっ」


 食器を水に浸し、陽太郎は洗剤をスポンジにつけた。

 朝食を作る役目が姉の焔なら、弟がその後片付けを分担するのは自然なことだった。

 なにせ陽太郎は、ただでさえこの家に居候をさせてもらっているような身なのだ。

 焔はそのことについてとやかく言わないが、出来る限りの家事は手伝わせてもらわなければ彼の気が済まないのも事実だった。


 なにせ彼には、ただでさえ返しきれない恩がこの家族にあるのだから――。


「――よし」


 泡立った洗剤を流し、食器を棚へと立てかけた陽太郎。

 彼が居間に戻ると、ちょうど私服に着替えた焔が淹れ立てのコーヒーと牛乳を持って待っていた。

 黒いままのそれを受け取って、ごくりと一口。

 鮮烈な熱さと苦みが、陽太郎の鼻と胃を焼く。

 これを飲んでようやく、彼の目が醒める。

 隣では、たっぷりの牛乳と砂糖を注いだ風味台無しのミルクコーヒーをゴクゴクと飲み干す焔の姿があった。


「それじゃ、俺も着替えてくる」

「分かったよ。お姉ちゃんはここにいるからねっ」


 再び自分の部屋へと戻り、陽太郎は部屋のハンガーにかけてあった制服を身に着けていった。

 着始めて既に一年になる紺色のブレザーは、大分こなれて彼の身体の一部のようになっている。

 しかし、成長期という事もあってかところどころが窮屈そうに見える。


「……ふぅ」


 きゅっと腹回りのベルトを締めて、陽太郎は勉強机の上に放置されていた教科書などを纏めて引っ掴む。その表紙についていた消しかすをパッパッと払ってから鞄に叩き込み、彼は再び階下に降りようとした。

 しかしなにかを忘れていたようで、目を見開いて慌てて部屋に戻る。

 暗い部屋の中、枕元に置かれていたものを手探りで探して制服の内側にしまい込んだ。


「危ない危ない、っと。こいつ・・・を忘れちゃ駄目だからな」


 ほっと胸を撫でおろして、彼は今度こそ焔の下へと向かう。

 充電器から外された携帯が表示する時刻は、七時半。

 まだ余裕のある時刻に、彼はもう少しゆっくりしていくつもりだった。

 戻ってきたリビングのソファーに腰掛けながら、一息。

 ふわぁ、と陽太郎が出した大きな欠伸を焔が見咎めた。


「ほら、残ってるコーヒーをちゃんと飲まないと。学校の授業は大事なんだよ?」

「はいはい、分かってるよ」

「昨日帰ってきたの、二時くらいだっけ? いくらなんでも、そんな時間に出なくても良かったのに」


 どこか遠くを見る様子でそう呆れる焔に、陽太郎は一転して目を鋭くさせる。


「――それは違うっての、姉さん。あれは俺がやらなきゃならないことなんだ」

「よーたろー……」


 制服のネクタイの上から、ちょうど心臓のあたりに右手を当てながら陽太郎は語る。

 ――カツン、と裏のポケットに収納されているものが固い音を立てた。


「本当なら死んでいたあの日。父さんに与えられたこの命は、そのために使う。俺はそう誓ったんだから」

「お父さんは、そんなことは望まないって何度も言ってるでしょ?」

「そうかもしれないな。でも、俺はそうしたいんだ。そうしなきゃ、俺が生かされた意味がない」


 あの閉ざされた夢の中で、未来を奪われたはずの陽太郎に新たな運命を与えた存在。

 かの偉大なる父の後を継ぐことこそ、自身に与えられた贖罪に他ならないのだと彼は考えていた。


 その真剣な目に、彼の姉としてあることを決めた焔はこれ以上とやかく言うことを止めざるを得なかった。

 二人で暮らし始めて、もう十年になる。

 それだけの時間を過ごせば、目の前の少年がどう説得しても道を変えないことくらい、焔は嫌というほど分かっていた。


「……だけど、それならなおさら勉強は真面目にしなきゃだめだからね。今の時代、勉強できなきゃなにも出来ないんだから」

「分かってるよ。成績表ならちゃんと渡してるだろ? 推薦は無理だけど、このままなら国立大学だって十分狙えるって三者面談でも言ってたの聞いたろ」

「それでも、だよ! 成績は一度気を抜くと転がり落ちちゃうんだからねっ!」

「へいへい」


 彼女に出来ることは、精々が陽太郎のやることにいちゃもん染みた条件を付けるくらいだった。

 それでも彼はなにも迷うことなく、自身のやるべきことのために彼女の言い分を乗り越えていく。

 その陽太郎の強さに安堵すると共に、いつか壊れてしまうのではないか――そんな危惧を、焔は抱えていた。

 そのような結末を迎えないように、彼女はたとえ言うことを聞かないと分かっていても何度も大切な陽太郎へと忠告する。

 それが彼女なりの、義理の弟への想いだった。


「それじゃ、そろそろ行きますかね。このままソファーにいると、つい寝てしまいそうだからな。姉さんは大丈夫なのか?」

「大丈夫大丈夫っ。大学生は余裕なんだよっ。って、それじゃあお見送りしないとっ」


 重そうな鞄を抱えて玄関へ出る陽太郎の背中を、わたわたと焔が追いかける。

 学校指定のピカピカの革靴を履いた彼が最後に振り返った。


「よし。それじゃあ、行ってきます」

「うん。行ってらっしゃい、よーたろー!」


 ぶんぶんと元気良さそうに腕を振る姉を背後に、陽太郎は外へと歩き出した。

 残された焔は彼の背中が見えなくなるまで手を振り続ける。

 その視線の先には、いつの間にか自分よりも背丈が高くなった弟の姿がある。


「お父さん。お父さんが助けたあの子も、あれだけ頼もしくなったよ……」


 まなじりに涙を浮かばせながら彼女は、今は手の届かない遠くにいる父親に想いを馳せる。

 かつて愛する父が命を賭して救った少年が、今は己の父親の後ろを歩んでいる。

 そのことを誇らしげに――それでいて悲し気に想いながら、焔は今日も空に祈る。


「どうか、よーたろーを守ってあげてね――」



 ★☆★☆★



「――では、前後で四人組を作るように。十分後に代表者に発表してもらうから、きちんと意見を整えておいてください。今年で二回目の文化祭なのですから、良いアイデアを期待していますよ?」


 教師の言葉と共にガタガタと騒がしくグループを作り始める、陽太郎のクラスメイト達。

 彼の前に座る二人も同じように、椅子をぐるりと回して陽太郎と顔を合わせた。


「よぅ日暮ひぐれ。先生の言ってたこと、ちゃんと聞いてたか?」

「んふふ、聞かれたって教えてあげないからにゃっ」


 片や快活そうな短髪のよく日に焼けた小麦肌の男子、三川勝一。

 片や金色のツインテールを翠のリボンで留めた童顔の女子、晴馬春香。

 席の近いこともあって、自然と仲の良くなった陽太郎の友人たちだ。


「聞いとるわ。夏休みの後の文化祭で何を出すかだろ。わざわざ教えてくれんでもいい」

「おっ、ちゃんと聞いてたか。いつもこういった時間は適当にしてるお前にしては、珍しいじゃねぇの」

「どうでもいい話でも一応聞いとくさ。なにせ、ただでさえ減点食らってるからな」

「そうだなぁ。体弱いから・・・・・ってよく早退するし。出席点ヤバいんだろ?」

「ちゃんと計算してるっての。流石に卒業できないんじゃ、全日制に通う意味ないからな」

「普通はそんなこと気にしないはずなのにゃ……」


 陽太郎の身体の弱くなる時やるべきこと、とは突発的に発生する。

 たとえ平日の授業中でも、相手・・は彼の都合なんて全く考慮せずに現れる。

 それを片付けるために彼が学校を途中で早退する光景は、理由を知らない一般生徒からしてみれば一種の名物のようなものだった。

 陽太郎はその事情について、決して真実を話すつもりはない。

 世の中には知らない方が良いものもあるのだから、と。


「で、文化祭の出し物だ? んなもん適当に他の発表に合わせとけばいいだろ。お前らにやりたいことがあるんなら別だがな」

「別に、俺も特にねぇよ。どっちかっつーと剣道部の演武の方が大事だしな」

「アタシもどうせなら楽して、自由気ままに他のクラスのを楽しみたいにゃ」

「んじゃ決まりだな。人数が少ないとすぐ決まって楽だ」


 そう言いながら、陽太郎は自身の隣の座席を見る。

 綺麗に磨かれた木目がきらりと輝く、空席。

 その前面には、鬼灯ほおずき真樹まきと書かれたネームプレートが貼られている。


「ああ、ヨウ君の隣はいっつも休んでるもんねー。……にゃ」

「そういや、顔合わせの日から一回も見たことないんだよな。テストもいっつも保健室で受けてるとか聞くし」

「最近じゃ引きこもりも珍しくないからな。去年は普通に通ったたらしいし、なにかあったんだろうさ」

「そんなもんかねぇ。嫌な時代になったもんだ、学校もな。ただでさえこの地域はアレだってのに。聞いたか、今朝もトラック事故があったらしいぜ」

「ああ、姉さんと一緒にニュースで見た」

「人魂って話だにゃ? きっと酒でも飲んでたに違いないにゃ」

「……かもな」


 なんてことはない、よくある話だ。

 彼らが住む中部地方の一角、明松市は他の地域と比べて明らかに事件が多い。

 週に二、三度はそこらで事故が発生しており、二月に一度は死人の出るような事件も発生する。

 朝起きれば真っ先に自分の住んでいる地域の事件を放送している所など、日本全国を探しても人口の多い東京と大阪、それとこの明松市しかありえない。


「ま、そんくらいなら今更な話だしな。トラックが一台事故ったところで、ふーん、ってくらいにしか思わねぇよ」

「そうだにゃあ。一昨日なんかウチの叔父さんが足を滑らせて腰を打ったらしいし。春も終わりなのに地面に氷が張ってたって話だにゃ。でも、そんな氷なんて他の人は見なかったのにゃ。さらに、なんか光ってるのも見たって言ってたのにゃ」

「ほんと、よく分からん話が多すぎるわ。でも、そういやその中には大体いつもその光ってるの、今朝の人魂みたいなのがあるんだよな」

「そうだにゃ。大体その事件の時にはいつも、光る何かがあるって言われてるにゃ。ええっと、なんだったかにゃ……」


 春香が手元のスマホを、教師に見えないようにしながら動かしていく。


「そうそう、光る人影、だったかにゃ。一番それを近くで見た人は、それが人みたいな形だったって言ってるにゃ」

「人間が関わってるってのかね。けどまあ、そんなん都市伝説だろ。調べようにも、俺たちに調べられないんじゃぁなぁ。面白半分に聞くしかねぇわこんなん」

「……そうだな」


 陽太郎はそんな二人の話を聞きながら、退屈そうに目を細めてくるくるとペンを回していた。

 窓の向こうに広がる、良く晴れたグラウンドの空を見上げる。

 その下で過ごす人々の平穏が脅かされている。

 彼らは今の勝一と春香のように、どうしようもない危険と表裏一体の日々を送っている。

 人々が慣れ親しんだはずの日常の中に、その危険な話題とやらはいつだって突然に侵略を開始するのだ。

 ――それが、陽太郎には許せなかった。

 本来ありうべからざる危険を警戒しなければならない、この世界の理不尽が。

 彼らの魔の手からありきたりの平和を取り戻すために、彼は戦っている・・・・・


「――っ!」


 ふと、陽太郎が胸を押さえた。

 心臓を貫くような鋭い痛み。

 それは、いつもの合図だ。


「お。……ったく、しょうがねぇな。せんせー!」

「む、また日暮か。分かった、早く帰りなさい。一人残して、どっちか玄関まで肩を貸してあげなさい」

「はいはいっと。行くぞ陽太郎」

「悪いな……」


 心臓を中心として全身が煮え滾るような感覚に、脂汗を浮かべる陽太郎。

 情けなく謝罪する彼に、翔一は明るく答える。


「気にすんなよ、いつものことだろ?」


 それを受けて、陽太郎はますます顔色を悪くする。

 彼の胸の内で燃え盛る熱の正体――それ自体は慣れ親しんだものだ。

 彼の心をなによりも悩ませるのは、こうして体を貸してくれる親友を騙しているという事実だった。


 なるほど確かに、今の彼の体調は常人に比べれば悪いのだろう。

 この状態の陽太郎の体温は優に40度を超え、普通なら病院送り間違いなしだ。

 平熱が高い陽太郎だからこそ、ちょっと気分が悪い程度だと言い張れる。


 これは病気などではない。

 兆しだ。

 街を襲う災厄が出現したという、あの日義父から胸に埋め込まれた魂の叫び。


 陽太郎はこの胸の訴えに、応えなければならない義務を背負っている。

 それこそ学生の本分を放棄したとしても――。


「ありがとう、勝一。助かった」

「気にすんな。お礼ならまた今度、勉強会でな」

「ああ、任せとけ。ううっ……」


 よたよたと気分悪そうに歩きながら、学校の門をくぐる。

 そこからしばらく歩いて、ようやく誰の目にも止まらなくなるような場所まで進んだところで陽太郎は姿勢をしゃんと正す。

 ここまでくれば、仮病の仮面をかぶる必要はない。


「さあ、行こうか相棒」


 裏路地の中で呟かれた、独り言。

 陽太郎の周囲には、人の影は見当たらない。

 彼が話しかけているのは、自身の内に眠る熱の正体だった。

 それは、今も叫んでいる。

 この街の平穏が脅かされていると。

 人々に恐怖をもたらす存在が出現したことを、主たる彼に教えている。

 悪を砕け、正義を掲げ――命を、燃やせ。


「分かってるよ――俺も、同じ気分だ」


 ぎゃりっ、とアスファルトを蹴り砕いて陽太郎が走り出す。

 常人の脚力をはるかに超えた速度で、胸の絶叫に導かれて街を駆ける。

 ――その背に、紅く揺蕩う陽炎の如き残光をたなびかせて。



 ★☆★☆★



 自身の胸中に眠る熱が示す先へ、陽太郎は疾走する。

 線のように過ぎ去っていく周囲の光景を捉えながら、彼は首を傾げていた。


「――静かだな」


 人の出歩かない深夜であればともかく、今は真っ昼間だ。

 陽太郎の想定通りの状況ならば、事件の発生している現場では人々が混乱によって悲鳴を上げながら逃げ惑っているはずだ。

 しかし、事実として人々の錯乱の声は一向に聞こえてこない。


「まあ、それはそれでありがたいんだが」


 逃げ惑う群衆というのは、秩序のない暴力のようなもの。

 それを掻い潜って現場に近づく苦労がないのなら、そちらの方が陽太郎にとってはよほど都合が良い。

 彼は自身の胸の鼓動に従って、『ヒノボリ商店街』と書かれた巨大なアーチをくぐった。

 戦後間もない時期から存続する、彼にも馴染みのある歴史ある商店街だ。ただ、普段は数多の人通りでにぎわっているはずのその中は、今は廃墟のようにがらんとしていた。

 その中を駆け抜けるにつれ、ようやく僅かな女性の叫びと破壊音が聞こえてくる。

 大地を砕かんばかりの派手な地響きが、コンクリートを通して陽太郎の身体に伝わってくる。


「そこか!」


 花屋の角を抜けて、見えた噴水広場。

 本来ならば買い物の最中に一時の休憩を過ごそうとする人々で賑わっている空間が、今や無惨にも破壊され尽していた。

 天に昇る太陽を象った大理石の噴水は粉々に砕け散り、ごぼごぼと泉のように壊れた水道管が水を吐き出している。

 商店街の象徴ともいえる広場を破壊し、その悲しい光景を作り出した元凶は果たして――その真上に佇んでいた。


「――ヴェロロアアアァァァアアアァァァッ!」


 商店街の雨避けを大きく突き破って聳え立つ、巨大な緑色の化け物。

 その全身をよく観察してみれば、極太の茨が何重にも折り重なって成り立っているのが分かる。まるで十字架のように生やした両腕代わりの二本の蔦を自在に伸び縮みさせて振り回し、周囲をやたらめったらと破壊している。

 鈍い叫び声を放つ顔のような深紅の大輪が、その中央に見て取れた。


 名づけるなら、薔薇の化物といったところか。


 特に重要なのは上半身と同じく太い根っこで、それを噴水のあった場所に突き刺して湧き出る水をごくごくと飲み干している。

 今日の空は晴れ晴れとしており、植物状の見た目から考えるに、陽太郎の前の怪物が育つにはこれ以上ない好条件に見える。


 このままでは、更に広範囲に被害を及ぼす恐れがある。


「――さっさと仕留めないとな。うん?」


 始末の手順を見定めた陽太郎が、を振るう覚悟を決める。

 彼が制服の裏側のポケットに手を伸ばしたところで、新たな声が聞こえた。


「はっ、次はこっちに来てみなさいこのデカブツ!」

「――ヴェアアアアァァァアアアァァァッ!」


 よくよく見れば、なんと怪物が振り下ろす蔦の嵐の隙間を駆け抜ける一人の少女がいるではないか。

 襲い掛かる大蔦は、彼女の胴回りよりも二、三倍は太い代物だ。

 たっぷりと質量を伴わせたその一撃は、命中すれば柔らかな少女の肢体など簡単に押し潰してしまうだろう。


 現に、彼女の周囲では至る所にコンクリートが陥没し、下の地面がくっきりと見えるほどに深く抉られている。


「――おい、早く逃げろ!」


 思わず、陽太郎は少女へ向けて叫んだ。

 蔦の鞭の連続攻撃は、絶え間なく少女の上から降り注ぐ。

 あんなものを何時までも避け続けていられるはずがない。


 やがて訪れる最悪の光景。それを幻視した陽太郎が、一刻も早くこの場から立ち去るように向けた忠告。


 ――しかし。


「まだ逃げてない馬鹿がいたの!? 良いからアンタこそ、さっさと逃げなさいっての! ――ほら、このデカブツ! あんな情けないヒョロ男よりもこの美少女を狙いなさい!」

「ヴォロロロァァアアアァァァッ!」


 彼が誰かを心配するなら、誰かが彼を心配するのもまた道理。

 少女はちらりと陽太郎の方を見据えた後、再び自身を襲う狂鞭へと意識を戻す。

 彼女は彼を逃がすために囮になるつもりなのだ。


 ――否、恐らくは。

 正確には、ここまで彼女はこの場にいたであろう全員を逃すための囮となっていたのだろう。

 彼女が怪物の意識を一手に惹きつけていたからこそ、他の人々が惑うことなく逃げおおせることが出来たのか。


「――強いな。でも、それじゃ足りない」


 陽太郎の見たところによると、彼女自身には目の前の怪物に対抗する力など備わっていない。


 自分の身一つで囮を成し遂げる胆力があろうと、現状を解決するには至らない。

 それは少女も分かっているはずだ。


 それでも他の誰かを気にかけて、自らの身体を躊躇なく危険に晒す――。

 そんな彼女の勇気こそ救われなければならないと、彼は思う。


「――オラァッ!」


 だからこそ、陽太郎は近くに落ちていた瓦礫を拾い上げて勢いよく投げつける。

 その狙いは、先ほどから少女の挑発に応えて叫んでいる顔のような薔薇の花の中央部。


「ちょっ、なにして――」

「ヴェァッ!?」


 茨の巨体が陽太郎の存在に気づいて、ずるりと身体を捻らせた。


「こっからお前の相手は俺だ、このデカブツ!」


 だいぶ挑発に弱いらしく、化物は容赦なく陽太郎を睨みつけて蔦を振り下ろしてくる。

 ――ズガァァンッ!


 上から襲い掛かる極太の鞭を前に転がって避けながら、陽太郎は手当たり次第にコンクリートの塊を投げつけていく。


「ヴガァァァッ!」


 ――ドゴッ! バキッ! ドガァンッ!

 迫りくる蔦を危なげなく避けながら、陽太郎は再び少女に逃げるよう促す。


「ほら、こっからはこいつは俺が受け持つから! ――そっちは早く逃げろ!」

「そんな、アンタを見捨てて逃げることなんて出来るわけないでしょ!? この、こっち向きなさいよこの化け物ぉ!」


 だが、その忠告は少女からブーメランのように投げ返された。

 彼女は陽太郎の真似をするように石を投げつけ、再び自身の方に注意を向けようと促し始めたではないか。


「グォォォオオオォォォッ!?」


 それにキレた茨の化け物は、躊躇なく二人を纏めて叩き潰そうとする。

 互いに蔦の嵐を掻い潜る相手の姿を確かめながら、二人は叫びあう。


「なんで逃げない!」

「それはこっちの台詞よ!」


 陽太郎が真横から迫りくる薙ぎ払いをしゃがんで避けると、彼女は思いっきりジャンプして上空に逃げる。

 彼が上から迫りくる連打を横に大きく身を投げ出せば、彼女はあえて前進することで動きの小さい蔦の内側へと侵入した。

 一向に引く様子を見せないお互いに、投げかける声も次第に荒々しくなっていく。


「アンタこそあれをどうにかする手段がないのならさっさと逃げなさい!」

「それはそのまんまお前に返してやる!」


 蔦が纏められて拳となり、流星群のように降り注ぐ。

 巨体である分、その動きは緩慢だ。

 それでも、普通ならば襲い来る死の一撃に人は恐怖して動けなくなる。

 だがそんな常識を笑うように、彼と彼女はその攻撃の隙間を縫うように回避する。


「お前こそ何も出来ないのなら逃げろっての!」

「んなこと出来るわけないじゃない! ――きゃっ!」


 ――もともと陽太郎が来るまでの間、ずっと身体を激しく動かしてきた少女。

 そのツケがついに回ってきたとでも言わんばかりに、彼女の足がもつれて転がっていた煉瓦の欠片に引っ掛かってしまう。

 そして、その上から迫りくるトドメの一撃。


「――っ、くそっ!」


 急ぎ、少女の下へと駆ける陽太郎。

 視線の先には痛めた足を抱え、上から襲い掛かる巨大な蔦の拳を見上げる少女の姿。

 ――あの芯の強い子が、こんなところで死んでいい道理など何処にもない。

 彼女を逃がすためならば――。


「やらせる、かよぉっ!」


 ――焦げるような匂いが、陽太郎の鼻に届く。

 突如不自然なほどに加速した彼の脚が、数メートルはあった二人の間を瞬く間に駆け抜ける。

 そして、少女の身体に覆いかぶさるようにして――彼はその拳の一撃を、代わりとなって受け負った。


「ぐっ!」


 食いしばった歯が砕け散りそうなほどの衝撃に、陽太郎は必死になって堪えながら空中で身を捩じらせる。

 弾き飛ばされた二人の身体は、近くにあった八百屋の一角に突っ込んだ。

 彼は今度は自身の身体をクッション代わりとして、着弾の衝撃からも少女の身を守ったのだ。


「ちょっと、大丈夫!?」

「――ああ、まぁ、なんとかな」


 咄嗟に離れた少女に言い聞かせながら、陽太郎はぱんぱんと体に着いた埃を払って立ち上がった。

 その身体に、傷はない。


「なんとかって、あんな衝撃を受けて――あれ? 本当になんともない?」

「これでも丈夫な身体なんでな。それより、これで分かったろ。その自慢の足ももう使い物にならないだろうし、早く逃げろ」


 視界の端に見える茨の化け物は今の一撃で二人が死んだと判断したらしく、水を吸収することに注力している。

 その身体は、陽太郎がここへ来た時よりも一回り大きくなっているように見える。


「時間をかける度に水を吸って、奴は強くなる。手に負えなくなる前に仕留めないと、更に被害が増えそうだからな」

「でも、あんなのどうしようも――」

「ん、まぁ、な……」


 歯切れの悪い、陽太郎の答え。

 それを怪物による怒涛の連撃を見切っていた鋭い目で、少女は見咎める。


「なによ、なにかあるの?」

「いや、そういうわけじゃないんだが……」

「いえ、あるのよね。――よく考えればおかしな話だわ。ここは危険な場所だって見れば分かるし、アタシの身代わりになろうとしてくれたことから考えて、野次馬みたいに面白半分に飛び込んできたわけでもなさそうだし」

「うっ……」

「なにかあるのなら、ちゃっちゃと吐きなさい。っていうかなに、この焦げ臭いのは……?」


 少女は眉を顰めて、その匂いの元凶を探す。

 そして、すぐに彼女はその正体を見定めた。

 ぶす、ぶすと不完全燃焼のように白い煙を放つ、陽太郎の脚。


「そこからね? それが貴方の持つなにか、なの?」

「――ったく、仕方がないな」


 ここまでくれば、もはや隠すことなどできなそうだと陽太郎は悟る。

 そもそも先ほど庇おうと決めた時点で、目の前の少女には見られても構わないと考えていたのだから。


「いいか、今から見ることは内密にしてくれよ? これが広まると、面倒なことになるからな」

「……分かったわ。貴方に助けられたんだし、恩人の迷惑にならないことはしないわよ」


 指を唇に当てて話を漏らさないように念を押すと、彼女はすぐに頷いた。

 それを満足げに認めてから、改めて陽太郎は怪物の方へと向き直る。

 ――しゃきっ、と制服の内ポケットから抜き出した、10cm程度の真紅の握り手グリップ

 気高く燃える炎の意匠を刻んだ目覚めの鍵を手に、彼はその先端を自身の胸に押し当てた。


【BURN BLAZER SET UP始動

「よし。行くぞ――紫焔、顕現ッ!」

PHOENIXフェニクス-HEARTハート ACCESSアクセス……】


 彼の握る棒の逆サイド――柄尻から、機械的な音声が流れだす。

 次の瞬間、陽太郎の胸と握り手グリップの接触面を起点として、彼の全身に炎が燃え盛った。


「きゃっ!?」


 陽太郎から放たれる眩い炎の雄叫びに、後ろにいた彼女は可愛らしい悲鳴を上げた。

 同じく、水を吸っていた茨の化け物もまた動きを止めて、その熱の強さに思わず彼の方へと意識を向けずにはいられなかった。


BURNING燃えよ……WARNING警戒せよ……BURNING燃えよ……WARNING警戒せよ……】


 静まり返った商店街の瓦礫の中、二重に被さるような平坦な機械音声が鳴り響く。


「ちょっ、アンタ大丈夫なのそれ!? なんか身体が燃えてるけど!」

「まぁ、ずっと燃えっぱなしって訳じゃないからな。――それにこの炎は、決して俺を傷つけない。まあ見てろって」


 少女の悲鳴に構わず、彼は自らを覆う大火の中で、自身の鍵であるを力強く握りしめる。


ACTIVATE目覚めよ――】


 一際大きく弾けた炎が、やがて次第に等身大へ圧縮されていく。

 まずは、陽太郎の手に握られていた柄の先に、炎が実体を持ったような紅い光沢のある一つの刀身が姿を現わした。一直線に伸びた長大な刃が、太陽のように煌々と輝く。

 その切っ先を地面に突き立てながら、陽太郎の変化は更に続く。

 全身を覆いつくす炎が、見かけの量を減らすのに反比例していっそう熱量を増し――。


「きゃぁっ――!?」


 肌に伝わった恐ろしいほどの熱量に、少女は反射的に自分の顔を両腕で庇った。


「――あれ?」


 しかし、いつまで経っても体の焼け焦げる感覚がない。

 少女は恐る恐る防御を解いて、気づく。

 少年の身体から溢れ出ていた炎――それは決して、こちらを傷付けるための暴力的なものではないということに。

 炎は、先ほどの剣と同じように収縮していく。

 いつの間にか出現していた金属の装甲が、彼の炎を封じるように押し込めていく。

 頭や両脚、腕に腰。順に展開する鎧が、最後に胸部を守るように陽太郎の身体に装着された。


「ふっ!」


 最後まで燃え盛っていた頭部の炎を振り払うように、陽太郎だったものが首を振る。

 舞い散る火の粉の先に、少女は――もう一つの太陽を見た。


【――THE DARKNESS 闇は過 SETS IN THE PAST去となり, THE JUSITICE 未来にWILL RISE IN正義の火を THE FUTURE掲げよう

「――ヴェアァァァ!?」


 先ほどまで暴虐の限りを尽くしていた巨大な茨の化け物が、目の前の矮小に見える存在に対して大げさなほどに驚く。

 植物の大敵である炎――それ以上に、化け物は慄いていた。

 植物の本能が示す、その炎が内側に秘める膨大な光のエネルギーの存在に。


「アンタ、まさか……?」

「なんだ、知ってたか? ま、俺もそこそこは有名になってきたみたいだしな。狙って見られてるんじゃないんだけど、ちょくちょく噂を聞くようになってきた」

「――色んな所で見られてる光るヤツの正体って……」


 クラスメイト達が知っていた噂を、後ろの少女もまた知っていたのだろう。

 口に手を当てて、眼を大きく開いて彼の姿を食い入るように見つめる。


「嘘、でしょ……」

「俺もそうだったら良かったんだけどな。残念ながら現実にゃ、目の前の奴みたいなのがたくさんいるんでな。噂話の中にいつまでも、引っ込んでいられねぇんだよ。なぁ、化物さんよ?」

「ヴ、ヴォオオオォォッ……」


 この場から逃げ出そうと、後ずさりする化物。

 水をたっぷりと吸っていた大切な根っこを地面から引き抜いてまで、徐々に後ろに下がっている。


「さて、長話をしてると警察が来ちまうからな。どこの誰かは知らんが、さっさと消えてもらうとするか」


 陽太郎は地面から引き抜いた剣を肩に担ぎ、走り出す。

 水を好きなだけ蓄えた化け物はその図体だけならば彼とは比較するまでもない。しかし、それに比例して動きが更に鈍重になっているのが大きな欠点だった。

 彼は足裏から炎を放出して加速し、瞬く間に化け物の側面を駆けのぼる。そうして、化け物の目に見えて分かる弱点――薔薇の花の中心へと辿り着いた。

 ――大きく振りかぶった炎の大剣が、再度ぶ厚い炎を滾らせる。


「さあて、こいつで終いだ! てめえの浅慮をあの世で悔いやがれッ――【終炎之刃エン・ブレイズド】!」


 噴出した光熱の刃が、より天を貫かんとするほどの大剣を成す。

 直上から両手で振り下ろされたそれが――化け物をバターのように容易く一刀両断した。

 ずずぅん……と、音を立てて茨の身体が崩れ落ちる。


「ふぅ、これで終わりだな」

「――ヴァ、ヴゥグググゥッ……!」


 未練がましく、化け物がざわざわと体を再生させようと試みる。

 だが、その様子を見届けることもなく陽太郎は今の姿を解いた。


FIRE, OVER鎮火、完了……】


 普通の制服の姿に戻った彼は、炎剣の柄を懐に戻して少女の下へ歩み寄る。

 そうしてなんてことはないかのように微笑みながら、提案した。


「よし。それじゃあ、逃げるか」

「え?」

「このままここにいると、警察からの事情聴取で面倒だぞ? それに――」


 陽太郎は少女のことを改めて観察する。

 恐らくは彼と同年代の少女、年のズレも一つか二つ程度のはずだ。

 そんな少女がいれば間違いなく、なんでこんなところにいたのかと事情聴取を受けさせられるに違いない。


「見たところ、君も高校生だろ? こんな時間から外をうろついていることがバレたら、まずいことになるんじゃないか」

「そ、そうだけど。あの化け物は――」

「大丈夫さ。俺の炎は、簡単に消化できるほど柔じゃない」


 ちらりと後ろを振り返ると、再生しようと必死になっている化け物の姿が目に入る。

 しかし、その復活よりも早く――断罪の炎が全身を覆っていく。


「ヴォロロロォォォ……ヴェグゥアアアァァァ……ッ!」


 怪物が悲鳴を上げる度に、炎は一際大きく燃え盛る。全身を焦がす激痛に苛まれ、先ほどまでの暴威はなんだったと言わんばかりの情けない声を吐き出している。

 その光景を眺めながら、陽太郎はキュッと制服のネクタイを締め直した。


「奴が死ぬまで、あの炎は燃え尽きることはない。あいつはあの地獄の中で、自分の犯した罪を後悔しながら終わりを迎えるのさ」

「……助けられないの?」


 陽太郎は、眼前の化け物へと向けられた少女の瞳に憐憫が浮かんでいることに気づいた。

 自分を殺そうとしていた相手に対しても情けをかけようとしているあたりに、彼女の善良さが伺える。

 だが、彼は首を振って彼女に残酷な現実を教えた。


「ああなっちゃ救いようがない。一度ああなれば、もう戻って来られないのさ。俺に出来るのは、せめて彼らが更なる罪を犯さないように、片を付けることだけなんだ」


 燃え続ける怪物から視線を外し、陽太郎は少女にそう言い聞かせた。


「さあ、行こう」


 じたばたと自らに絡みつく炎を解こうとしながら、醜い叫びを上げ続ける敵だったもの。

 放っておけばいつまでもその姿を見守っていそうな少女の手を取って、陽太郎はぐいと引き上げた。


「失礼。おっと、他意はないから叫ぶんじゃないぞ?」


 少女の膝裏と背に手を差し込んで持ち上げ、陽太郎はもはや隠すこともなく靴裏から炎を放出して駆け去っていった。

 その後も彼女はずっと、姿が見えなくなるまで彼の腕の隙間からあの怪物のことを見つめていた。

 ――遠くから、遅れてサイレンの音が聞こえてくる。

 騒ぎを聞きつけた警察と消防が現着するとほぼ同時に、静まり返った商店街の中で化け物の断末魔が空しく木霊した。



 ★☆★☆★



 少女を連れた陽太郎は自宅へと戻ってきていた。

 彼女の住所など聞ける雰囲気ではなく、また例の姿を見せてしまった以上は彼自身の事情についても多少なりとも説明しようと考えていたからだ。


「……ほら、これでも飲め。心が安らぐ」


 作ったばかりの湯気の立つホットココアを、ソファーの上に座った少女に差し出す陽太郎。

 少し離れた場所にある食卓前の椅子に腰かけ、彼は自分のコーヒーを傾けながら落ち着くように一息吐いた。


「この街じゃ、ああいったことはよくある話だ。それこそ、仲がいい夫婦の痴話喧嘩くらいにはな。一々気にすることでもない」

「……」

「……ほら、早く飲まないと冷めてまずくなるぞ」

「……」


 つたなくも慰めようとする陽太郎だが、その言葉はどうにもうまく届かない。

 仕方なしにちびちびと自分のコーヒーを飲みながら、彼は自室から取ってきたパソコンを立ち上げる。

 カタカタと打ち込んでいるのは、今回の戦闘記録だった。

 だが、そんな作業を続けながらもちらちらと上目遣いで彼女の様子を窺っている。

 しかし少女は、膝を抱えたまま机の上のココアに手をつける様子がない。

 困ったように陽太郎が眉を顰めていると――。


「はいはーい! よーたろー、いるんでしょー!」


 ばたんと勢いよく扉を開けて、深刻な空気を破壊するように陽太郎の姉、焔が飛び込んできた。

 ふわふわの金髪は今朝と変わらないが、今身に纏っているのはぐでんと着慣らした白衣だ。

 ピンク色のセーターをばるんっと押し上げる巨大な二つの果実も、元気そうに揺れている。

 そんな彼女は部屋の中を軽く見渡すと、大げさに両頬に手を当てて叫ぶ。


「って、よーたろーが女の子連れ込んでるぅぅぅっ!?」

「うるさいぞ姉さん、今シリアスな雰囲気なんだから。少しは黙ってくれ」


 呆れながら立ち上がる陽太郎。

 彼女の傍に近寄って、頬を抓ってぐにぐにとたしなめるように弄ぶ。


「あぅあぅあぅ」

「彼女は今日の件の被害者……いや、功労者なんだよ」

「そうなの? でも今までそんな人を連れてきたことなんてなかったよね?」

「そ、それはだな……」


 彼女の手を取って壁際に引っ張り、ひそひそと耳を近づけて事情を説明する。


「ほら、見た目的に俺と同じくらいだろ? こんな昼間っから出歩いている所を、駆けつけた警察に見つかってみろ。事件とは関係なしに根掘り葉掘り聞かれるのも嫌だろうし」

「んー、そうかなぁ……」

「そうだろ。他に何か疑問でもあるのか?」

「よーたろー、なにか隠してるよね?」


 ぎくっ、と陽太郎が分かりやすく口の端を歪める。


「な、なんのことやら……」

「それ、もう自白してるのと同じだよ……。というか、よーたろーはいつも、なにか隠し事があると目を合わせないよね」

「……はい」


 じぃっと食い入るような姉の視線に逆らうことなど出来ず、陽太郎はしぶしぶ吐いた。


「……へー、見られたんだ。力を使ったところ」


 誰かを厄介ごとに巻き込まないために、普段の陽太郎は一般人の目に映らないように出来る限りの注意を払っている。

 それは唯一陽太郎の事情を知っている、先代の一人娘である焔に何度も言い聞かされたことだった。


 彼らの知る限り、この街に出現する例の怪物に対抗できるのは陽太郎の持つ力だけだ。その力は決して量産できるものではなく、有力者に目をつけられればどのように利用されるか分からない。そのような余計な問題を招かないために、人目につくことを避ける――それが陽太郎と焔の約束だった。


 なにより、この力を奪われることは陽太郎にとっては文字通りの死活問題なのだ。


「なんだ、そのくらいねー」

「え?」


 力の秘匿の重要性を何度も念押しされていた陽太郎は、てっきり雷が落ちるだろうと予想していた。

 そのための覚悟も決めていた陽太郎だが、予想外の焔の反応に気が抜けてしまった。


「よーたろーがヘマを犯したんじゃないことくらい、簡単に分かるからねっ。あの子のこと、信用できるって思ったから見せたんでしょ?」

「そうだけど……」

「それなら大丈夫よ。弟の勘ですもの、お姉ちゃんも信じるわっ!」

「……ありがとう、姉さん」

「それじゃ、私がいたらお邪魔みたいだしー、後は二人でごゆっくりー!」


 バタバタと戻っていった焔の背中を苦笑いしながら、陽太郎は見送った。

 最大の懸念が降り切れたところで、彼は改めて少女と向き直る。

 見れば、彼女は俯かせていた頭を上げて今の二人のやり取りを窺っていたようだ。


「……お姉さんも、知ってるの? あのこと」

「まあな。というか、姉さんは協力者さ。俺の持ってるこれも、姉さんが作ってくれてるんだ」


 ごとり、と陽太郎は机の上によく見えるように赤い握り手グリップを置く。


「すごいのね」

「まったくだ。俺にはどんな絡繰りがこの中に詰まっているかなんて、さっぱりだってのに」

「ふーん……」


 じぃーっ、と目に見える陽太郎の秘密道具を眺めながら、少女が呟く。


「ありがとね、ココア。おかげで少しは落ち着いたわ。だから、説明してくれる? あの化け物は何で、貴方は一体何者なのか」

「そうだな。まずはこっちに来てくれるか? そこにある姉さんの椅子を使って良いからさ」


 近寄ってきた少女に、陽太郎はパソコンを回転させて画面の中の一つの画像を見せた。


「これは……種?」


 映っているのは、ピンポン玉サイズの固そうな外殻に覆われた灰色の種子だ。

 一見、普通の植物の種のように見える。


「そうさ。ただ、普通の種じゃない。――俺たちはこれを、【変革種珠イクシード】って呼んでる」

「イクシード? ……促進……進化?」

「ああ。こいつを呑み込めば、誰だって一瞬で信じられないような力を手に入れることが出来る。大人だろうが子供だろうが、簡単に力を手に入れられる。

 ……それこそ、さっきみたいに自分が持て余してしまうくらいにな」

「……やっぱりあれは、元は人間だったのね?」


 陽太郎の言動から薄々感づいていたようで、少女は確認する。


「そうだ。何をしたかったのかは知らないが、どこからかこいつを手に入れて使ったんだろうさ。

 一度使ったら、二度と人間には戻れないなんてことも知らずにな。そんな奴らが、この街にはごまんと溢れてるんだ」

「……それを分かっていて、貴方は彼らを殺せるのね」


 そう問いかける少女の瞳が、またもや鋭く光る。

 化け物に変化したとはいえ、元は自分たちと同じ人間の命。

 それを奪うことの重みをどう背負っているのか――陽太郎はその問いに、まっすぐに彼女に向き合ったうえで答えた。


「殺すか、殺さないか。迷っていたら、結局関係ない他の誰かの命が失われる。悩んでいる内に誰かが殺されたなら、それは俺が殺したも同然なんだ。そんな後悔を抱えるくらいなら、俺はこの手で奴らの心臓を抉ることだってやってみせる。――それが俺の、使命だから」

「警察や自衛隊には任せないの?」

「あんなのを、たかが銃やナイフで殺せると思うか? 今日のは火炎放射器でもあればなんとかなったろうが、それでも仕留めるまでにどれだけの犠牲が出るか。そんなのを黙ってみてるなんてのは、俺には出来ない」

「……そう、でしょうね。アタシだって、そう思うもの」


 少女は先ほどの巨大な植物の化け物の姿を思い出していた。

 確かにあの体に鉛玉を打ち込んだところで、殺しきれるとは思えなかった。


「んで、俺の力のことについてだが――ぶっちゃけ、俺もそんなに知らないんだ」

「そうなの?」

「俺がこの力を手に入れたのは偶然だし、俺より良く知ってる姉さんも詳しく説明してくれなくてな。ただ、この力があいつらを倒すのに便利だってことくらいは分かってる。それで十分だろ?」


 隠すような陽太郎の言い分に、少女は目を細める。

 しかし、あの炎の姿になる前のやりとりで彼が信頼できるような人間であることは分かっていた。

 故に彼女は陽太郎を信じて、深く追求するようなことはしなかった。


「他に何か聞きたいことはあるか?」

「そうね……。あの化け物退治はいつからやってるの? だいぶ手馴れてるみたいだったけど」

「七歳の時からだな」

「そんな昔から!?」


 少女は絶句する。

 目の前の平凡に見える少年が、そんな過酷な環境の中を長い間戦ってきたことに。


「慣れたもんさ。今じゃよほどのことがない限り苦労はしない」

「慣れたって……」


 労基も真っ青な経歴に、少女は上手く言葉を紡げなかった。


「それに、この力を持つのは俺だけなんだ。俺がやらなきゃ、誰かが悲しむ。――それに、そんなことになったら先代に顔向けできないからな」


 視線を逸らして、懐かしむようにどこか遠くを見る陽太郎。

 その姿に、少女はその先代がどこに居るのかをうっすらと察した。

 そして、その垣間見えた陽太郎の哀しくも不動の決意に、彼女は自身の胸内にとある決意の炎が宿るのを感じた。


「……そう」

「まだあるか? ないなら家まで送っていこうか」

「――いえ。もう一つだけ質問、いえ、お願いがあるのだけれど」

「なんだ?」

「私を貴方たちと一緒に、戦わせてくれないかしら?」

「はぁっ!?」

「この街にそんな化け物が蔓延っているなんて、放っておけるわけないじゃない。アタシは不登校なんだけど、もともと別の所であんなのが暴れてるのを見て、放っておけないからって学校を休んでたんだ」

「なにも出来ないのに? ――いや、違うか」


 陽太郎の記録によれば、時折今日のように妙に逃げ遅れた客がいない日がここ数か月ほど多かった。

 原因は不明だったが、恐らくはあれらも目の前の少女が努力した結果なのかもしれないと陽太郎は気づいた。


「とは言ったって、君に何が出来るんだ? まさかまた危険なところに首を突っ込むつもりなら止めてくれ」

「その種の入手ルートとかの特定に、人手がいるでしょ? いくらお姉さんの頭が良くても、たった二人でなんでもできるかしら?」

「そうだけど……」


 陽太郎はこれ以上、この心優しく気高い少女にこちら側に足を踏み入れて欲しくなかった。


「お姉ちゃんはそれに賛成だよっ!」

「おいっ!?」

「んー、姉は弟の異性関係に口を出す権利があるんだよ?」

「んなわけあるかっ! ってか話をずらすな!」


 だが、気にせず焔は少女に詰め寄る。


「あなたの言う通り、私だけじゃ手の届かないこともあるし、ちょうどよかったわ。もう、一番大事なよーたろーの秘密も知っちゃったし。

 もしこのままフェードアウトするつもりだったら、頭の中改造いじくっちゃって記憶をぱっぱらぱーにしなきゃならないもん」

「……ったく、さすがにそこまでさせるわけにはいかねーよな。しょうがない」


 姉が受け入れるのなら、仕方あるまい。

 それに、いくら天才的な機械工学の知識を持つ彼女とは言え、知人となったものの脳味噌までを弄らせるわけにはいかない。

 弟である陽太郎はがしがしと頭を掻きながら、諦めるように肩を竦めた。


「だけど、学校を休むのはいただけないなー。ねぇ、君もちゃんと行きなさい。そうじゃないと、全てが解決した後に困っちゃうからね」

「はっ、はい……」

「それじゃ、改めまして――ねぇ、よーたろー。この子なんて言うの?」

「あ、聞いてなかったな」


 そう言えば、自己紹介すらしていなかったことを陽太郎は今更ながら思い出した。


「俺は陽太郎。日暮陽太郎だ。まあ、あんな感じの怪物退治なんかをやってるが、それ以外は普通の高校生だよ」

「姉の日暮れ焔でーす! よっろしくねー!」

「……鬼灯真樹です。これからどうぞ、よろしくお願いします」

「うん、一緒にがんばろーね、まっきーちゃん!」

「ま、まっきーちゃん?」


 早速姉に緊張感の欠片もないあだ名をつけられ、抱きしめられた少女を見やりながら、陽太郎は残っていたコーヒーの最後の一口を喉に流し込んだ。

 底に沈んでいた濃厚な苦みが舌を焼く。

 だが不思議と、視線の先でいちゃついている新たな仲間と姉の姿を見ていると、それだけで舌先が甘くなってくる。

 ちょうどいい塩梅になった残り香をきゅっと飲み込んでから、陽太郎はまずは不登校気味だったという隣席のクラスメイトの成績を知るべく、鞄の中から問題集を取り出した。



—――――――――――――――――――――

 初めまして。

 こちらは試し書きの短編となりますが、ご容赦ください。

 数多の作品の中からこの作品に触れていただいたこと、誠に感謝いたします。

 本当にありがとうございました。


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終炎守手の送り火 揺木ゆら @Yuragi_1203

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