第5話 触れた指先から君の温もりに溶けて、混ざる。そして、確信する。


 触れていた唇を離し、秋夜君は目を伏せた。


「………ごめん、」


 ビックリし過ぎて何が現実かわからない。夢かな…?また僕は、都合のいい夢を見ているのかな。

 混乱した脳みそのままに秋夜君の顔を眺めて、本当に睫毛が長いなぁ…、なんて、場にそぐわないことを思う。本当に綺麗な顔立ちだ。どんな所作でも幻想的だった。暫く惚けていたが、やがてはっと我に返る。

 いや、違う。これは現実だ。

 「ごめん」と。そう言ったまま、未だに伏しがちになっている長い睫の向こうを覗き込むように、声をかけた。


「なんで謝るの?」


 涙で濡れた瞳で見る彼は、また一層、魅力的だった。

 秋夜君は伏せていた視線を合わせて、たじろいだ。気まずそうに、ふい、と視線を逸らして、「………順番が、逆になっちゃったから」と呟いた。


「おれ、お前のこと……………多分、もう好き。……凄く、好き……………かも」


 それこそ本当に、夢みたいなことを言う。

 僕は耳を疑った。けれど、理性で理解するより早く、僕は安堵していた。


「かも、って…」


 ふにゃりと、緊張が解れて表情が崩れた。

 嬉しい、と言葉を溢すのとほぼ同時に、僕達はまた、唇を重ねた。






 夢みたいだ。

 未だに夢見心地だった。

 さらり、とその黒い髪を撫でた。ずっと、こんな風に君に触れたいと想っていた…。


「………ん。[[rb:叶>かなえ]]……おはよ」

「お、おはよう…」


 腕の中で秋夜君が目を覚まし、まだ朧気なその瞼を擦った。

 どぎまぎとする僕の心臓の音が、彼の耳にも聞こえているのだろうなぁなんて思うと、また落ち着かない。

 あの後、僕達は言葉少なに互いの気持ちを話し、沢山キスをして、離れがたくて、一緒に寝た。……勿論、睡眠的な意味で。同じベッドの中だけど。

 未だに僕の腕の中に収まったままでいる秋夜君は、そのまま、僕の背中に腕を回した。


「…………っ……!」


 思いがけないことで、僕は固まってしまう。


「っ、はは!叶、心臓の音、凄い」


 僕の胸に耳を押し当てたまま、秋夜君は笑った。弾むような声。

 ああもう、可愛い…。可愛過ぎる…。好き。


「………からかわないで…。可愛過ぎる。食べちゃいそう…」

「顔も真っ赤。そんなこと言って、簡単には食べちゃえないくせに。そんなにうぶだなんて、知らなかった」


 赤面しているであろう顔をまじまじと至近距離で見つめられ、僕はやっぱりたじろいだ。


「…………あの、あんまり……見ないでクダサイ……」

「ははっ」


 彼は本当に愉快そうに、笑った。

 それからぎゅうっと抱き締める腕に力が籠ったかと思うと、パッと離れて、秋夜君が先に身を起こす。


「朝御飯、どうしましょうか」

 

 カーテンの隙間から射し込んだ朝日が彼を照らしたのか。眩しい笑顔がはにかんでこちらを見る。愛おしい…。

 今日が土曜日でよかった。と思いながら、「その、時々敬語になるとこ、ツボなんだけど」と全く違う言葉が口から出た。


「おれは、叶が意外と[[rb:純真>うぶ]]でツボ」

「っ、そう言うこと言わないっ…!」

「あはは!」


 “あはは!”?!あははって、笑いました?!今!

 彼はひらりと台所へ行き、冷蔵庫を覗いているようだ。

 僕ものそのそと起き上がり、ベッドから降りてカーテンを開けた。全身で浴びた朝日が想像以上に眩しくて、目を細める。

 目の前の道路にはまだ車が一台も通っておらず、「始まりの朝」と言う言葉を彷彿とさせる。


「顔、先に洗って来て下さいね」


 台所からかかる声に従わず、僕はいそいそと台所へ向かった。


「…………おはようのちゅう、しませんか…?」


 コホン、と咳払いをしてから、言う。「しませんが?」と返される覚悟に反して、秋夜君はきょとんとこちらを見てから、流れるような自然な動作で顔を近付け、ちゅ、と音を立てて唇を重ねた。

 ストン、と背伸びをやめてこちらを窺う秋夜君に、僕は制止したまますぐに反応が出来ないでいた。


「……………………」

「自分から誘ったくせに、顔、赤過ぎ」

「…………シュウヤ君は、意外とプレイボーイ過ぎ………」


 からかうように笑われて、僕はじとりと彼を睨んだ。…つもりが、どうかな。幸せ過ぎて、にやけているだけだったかもしれない。どうも昨晩から顔が締らない。

 ベーコンの匂いがして、朝食を作ってくれてるのだと分かり、尚更だ。


「………かお、洗ってくる…」

「うん」

「…目が覚めちゃって、全部夢だったってオチだったら……どうしよ」

「大丈夫。現実だから」


 ジューッとベーコンの焼ける音。

 顔を洗っていると、洗面所にまでコーヒーの香りがした。

 鏡に映る自分の顔を見る。

 確かに僕は此処に居るんだな、と自覚する。

 昨晩、鞄の中に持ち歩いていた歯ブラシを出して、洗面台に置かせて貰った。そこにそのまま自分の歯ブラシが並んでいるのを見て、こそばゆくなる。歯磨き粉を付けて口に入れ、キシリトールでも覚めない現実に、「ああ、本当に、現実なんだ」とやっと理解する。

 両手に溜めた水で顔を洗えば、存外に冷たいそれに、しっかりと目が覚めた。けれど、この夢は、覚めない。

 タオルで顔を拭き、鏡に映る自分にそっと触れてみた。

 きっと暫くは、こんな風に確認しては「夢じゃないんだ。現実なんだ」と胸に沁み込ませて感動するのだろうと思う。

 五感を持って、君が僕の隣に居ると言う現実を実感するのだろう。


(……自分の好きな人が自分のことを好きだなんて、奇跡だったんだなぁ……)


 改めて、想う。

 『両想い』と書いて、“キセキ”と読む。


『叶ちゃんにも、その元カノさんじゃ無かったんだよ』


 偶然に出会った敦也君と別れた後、居酒屋で芳樹はそう言った。僕のつまらない失恋話を黙って聞いてくれた後だった。


『その元カノさんが幸せになる為には、叶ちゃんじゃなかったように』


 その言葉には未だに古傷が痛むところがあったが、多分、そういうことなんだろうなぁとは…もう自分でも分かっていた。


(…………うん。だから、きっと、秋夜君に出会えたんだ)


 時は進む。僕を残してはいかない。やっぱりいつか、“過去”になる。

 僕が幸せになる為には、もうすっかり、秋夜君が必要だった。彼にとってもそうであるのなら、そんなに嬉しいことはない。


 ダイニングへ向かうと、小さなテレビの前のローテーブルの上には既に朝食が準備されていた。小さなテーブルは二人分の食器やマグカップだけで一杯になって、その表面があまり見えなくなってしまっている。

 バタートースト。ベーコンの上に目玉焼きが乗っているお皿に、レタスのサラダまで。それから、ホットコーヒー。

 夜通しのエアコンのお陰で、僕達は汗をかいていなかった。昨日、訪れて直ぐに出されたものはアイスコーヒーだったのに、と思うとその気遣いが嬉しくて、やっぱり、秋夜君は思っていたよりもずっと器用な人間なんだなぁと思った。


「…………幸せ過ぎる……。夢みたい……」

「現実だから」


 再び、秋夜君はそう言って苦笑した。

 一緒にいただきますをして、朝食を食べた。ご馳走様の後、秋夜君が食器を洗って、僕が拭く。

 二人並んで家事をしながら、「今日はどうしようか」という話をした。折角の休日だ。出掛けるのもいいし、こうして二人、緩やかに流れる時を愛するのもいいだろう。

 僕と秋夜君の関係は、一昨日と今日では明確に違うのだということが嬉しかった。僕はすっかり、なんでも出来る気になっていた。恐れるものは何もなかった。幸せしかない。

 両想いは最強だな、と思った。


「………そうですね。部屋で映画を観るとか……どうですか?DVD借りてきて」

「映画?」

「はい。今日は、二人で過ごしたいです」

「…………ッ喜んで…………!」


 こちらの様子を窺うように小首を傾げられて、きゅぅうんとした。

 もうすっかり、僕は彼に骨抜きだった。こんな美人な男の子が、僕の彼氏。僕達は両想い。付き合ってる。…何度も何度も心の中で反芻させた。じーんと感動し、きゅーんと胸が打たれる。


「何か観たいものあるの?」

「何本か気になってるのなら。あと、叶のオススメとかも知りたい」

「オススメかぁ…」


 パジャマにと借りていたTシャツを脱いで、昨日着ていたシャツに着替えた。ビデオ屋に行く前に、一回自分の家に戻りたい。

 秋夜君も同じに思っていたらしく、二人とも簡単な準備をして荷物をまとめ、二人で僕の車に乗り込んで、先ずは僕の家を目指した。




「…………凄く、久し振りな気がする」


 いらっしゃい、と玄関の扉を開けて招き入れられると、そのすっかり『懐かしい』になった見馴れた玄関に、つい、感動してしまった。

 相変わらず、広い家だ。玄関は許容人数十人くらい。側面にある飾り棚には、丸いガラスケースの中にバラと小さな花が入ったものが飾られている。ブリザードフラワーというのだとか。因みに、玄関の電気はシャンデリアだ。

 玄関で靴を脱ぎ、スリッパに履き替える。


「………『おかえりなさい』の方がよかったかな…」

「…………どちらでも」


 更にリビングに通してくれた叶がうーんと考えるので、おれはやっぱり苦笑した。なんか改めて、叶って可愛いな。おれのこと、ほんと好きだな。

 リビングに入ると懐かしい匂いがして、ああもう、記憶の一部になっていたんだなぁと、胸一杯にその空気を吸い込んだ。

 もう来ることはないだろう、と思っていた家だった。まさかこんな風にまた、足を踏み入れられる日が来るなんて。


「着替えてくるから待ってて」

「あ、おれも二階行ってもいい?」

「え、いいけど……?」


 おれはかつて“おれの部屋”だったゲストルームの扉を開けた。

 扉を開けて、先ず見えるシングルベッド。大きな窓から差し込む日差し。白を基調とした部屋。試験勉強した机。

 おれはやっぱり、溢れる懐かしさにそっと息を吐いた。

 ぼふん、とそのベッドに飛び込んでみた。


(……………叶の香りがする…)


 枕から、思いがけずに彼の香りがして顔を[[rb:埋>うず]]める。

 まるで彼に抱き締められているようだった。

 彼はいつも、香水なのかシャンプーなのか……いや、同じシャンプーを使っていてもおれにはそんな香りがしなかったから、多分、香水か体臭なんだろうけど…、優しい香りがした。


「準備出来たよ」


 コンコン、と開けっぱなしにしていた扉を叩いて、入り口に叶が立っていた。

 コロン、と寝返りを打って彼の方を向く。


「叶、この部屋で寝てたでしょう」

「…………うん」


 叶は気まずそうに視線を泳がせた。

おれはなんだか、溢れる気持ちにもぞもぞとした。愛おしい。


「………おいで」

「えっ……」


 そのままに、両腕を伸ばしてみる。

 叶は驚いた顔でこちらを見ていた。けれど直ぐに、「いいの?」と聞きながら近付き、ベッドに乗って、おれを上から抱き締める。

 おれもそんな叶の背中に腕を回した。服から覗く腕とか首筋とか細いくせに、背中は意外と大きかった。初めてこうやってハグをした夜から、未だに密かに驚いてしまう。

 ぎゅっと優しく力を込めれば、同じように温かく優しく、抱き締め返してくれる。

 どんなに、おれの事を恋い焦がれてくれていたのだろうか、と想った。純粋に、嬉しかった。


 おれを愛してくれている人がいる。

 おれも、彼を愛してる。


 そんな事実が。

 まるで、奇跡のようだと思った。


「…………バイトの無い日は、来てもいいですか?」

「勿論」

「…………合鍵、貰ってもいいですか?」

「っ、もちろん……」


 おれ達はぎゅうっと強く抱き合った。

 触れた肌から。その全身から。お互いの体温が伝わる。彼の、おれに対する『好き』が溢れて染み込んでくるようだった。おれの、叶への『好き』もきっと肌から伝わって、彼の中へと染み込んでいく。

 溶けて、混ざり合うみたいだ。そうしてまるで、一つになって落ち着くのではないかと思う。

 暫く無言で抱き合っていたが、不意に体が離れ、叶が両手をベッドに付いて上からおれを覗き込む。


(あ、真っ赤)


 叶は意外と、直ぐ赤くなる。可愛い。

 色素が薄い白い肌だから、朱が映える。可愛い。


「………すきっ、です。………大好き。愛してる」

「知ってる」


 手を伸ばす。その頬に触れる。


「おれも、好き」

「…………ッ………」


 引き寄せて、口付けした。叶のさらさらの髪がおれの肌を撫でて、こそばゆい。



 知らなかった。



 誰かに好きになって貰えるっていうのは、こんなに温かだったのか。

 誰かを好きって言うのは、こんなに優しい気持ちになるのか。

 口付けって、こんなに、幸せになるんだ。


「……そう言えば、今日バイト?」

「そうだよ」

「明日は?」

「明日も」


 おれ達は指と指を絡めて、気が付けば恋人繋ぎをしていた。息がかかる程近くに叶の顔がある。潤んだ目は澄み渡っていて綺麗だ。その中に、おれが映っているのが見える。叶が、真っ直ぐにおれを見つめている。


「じゃあ、送るからさ。今晩は泊まってくれない?」

「いいよ」


 さぁ、DVD借りに行こうか、と身を起こす。

 ともすればこのまま、バイトの時間までベッドの上でだらだらと過ごしてしまいそうだった。それもいいけど。なんだか、勿体無い。


 ビデオ屋では、敦也がオススメしてくれていたけど見ずじまいだったアニメーションの映画を借りた。叶さんのオススメは邦画と洋画で一本ずつ。


「秋夜君て、映画観るんだね。随分と懐かしい映画だけど、好きなんだ?」

「映画もテレビもあんまり…。でも幼馴染みが、以前オススメって言ってたんで」

「敦也君が?」

「え?おれ、敦也の話したことありましたっけ?」


 おれの指摘に叶は、あー、とハンドルを握りながら気まずそうに目を泳がせる。信号は丁度赤になり、僕は黙って叶を見続けた。


「………実は、シュウヤ君のバイト先の居酒屋に行ったことがあって……。でも、休みだって言うから…気になって、アパートに行ったことがあるんだ…」

「えっ」

「そこでちょっと……二人の会話を聞いちゃって……」


 叶の自白に驚きつつも、敦也が初めておれのアパートを訪れた日、階段の後ろから叶のような人影が上ってきていたような気がしたことを思い出した。


「…………あとひょっとして、[[rb:芳樹>よしき]]と居酒屋に来たこと…ありますか?」

「………………はい」


 やっぱり、と口の中で呟いた。

 敦也がバイト先に来てくれた日、「いらっしゃいませ」と言った店員がいたのに振り返っても新規のお客さんが居なかったことがあったのを思い出す。

 不思議に首を傾げると、外から「叶ちゃん!」と呼ぶ芳樹の声が聞こえた気がして、ますます首を傾げたのだった。


(…………幻聴かな、って思ってたけど。二人共、本当に仲が良いんだなぁ…)


「…………仲、良いんですね…」

「えっ、あっ、そんなこと………!…あ、あるかな………」


「……妬く?」小さな声。

「………ちょっとだけ…」素直に返した。

「………うれしい…」叶は、綻ぶように笑う。


「それで、名前を知ってたんです?」


 話を元に戻した。


「うん。あと、偶然、道中で出くわしたことがあるよ。少し話した」

「えっ…………。ああ、なるほど。だから…」


 敦也は帰り際、物知顔だったのかと納得した。

 叶の家に帰る前に、帰り道で飲み物や菓子、昼御飯の食材など簡単に買い物をした。

 それからDVDを一本観て、昼食にパスタを食べて、DVDをもう一本観た。

 敦也が好きだと勧めてくれたアニメーションは、何と無く敦也らしいなぁと感じるようなものだった。ボーイミーツガールだけど、焦点は恋愛と言うよりは、彼らの成長や思春期の心情に当てられていた。観てると、きっと敦也はこの台詞に同調したり、この場面でキュンとしたりするんだろうなぁなんて思った。

 叶のオススメの洋画は、「叶はどうしてこれをオススメにしたんだろうか」と考えた。面白かったけど、笑ったりするような面白さではなく、最後まで展開が読めずにハラハラとするそれだった。それでいて、大きなテーマは無いような。どちらかと言えば、ヒューマンドラマ…?というジャンルになるのだろうか。

 叶らしい、と言う程、まだおれは叶を知らないのだなぁと思う。


「……そう言えばいつも、本、何読んでるんですか?」

「えっ?本?」


 何作か本のタイトルを言われたが、おれはどれも知らないものだった。おれの頭にいくつも「?」が浮かんでいたことに察した叶が、改めて数名の作者の名前を挙げてくれたが、まるでわからない。


「ふふ、まぁ。推理小説かなぁ。サスペンスとか」

「………へー」

「シュウヤ君は?なんか好きなのある?本、読む?」

「………絵が多めで、吹き出しに台詞が書いてあるようなやつは読みますよ……」

「うん。漫画だね」


 ふふふ、と笑う。裏切らないねぇ、と。


「そこ、ギャップ萌じゃなくてよかったんですか?」

「えー、うん。どっちでもきゅんってする」

「…ふーん」


 手元の麦茶を一口飲んだ。

 映画鑑賞でコーヒーと言うのは何と無く違う気がしたけれど、叶は相変わらずブラックコーヒーだった。

 続いて邦画を観た。

 小説が原作のようで、先程、叶が挙げた中にそのタイトルがあったようだがすっかり右から左だったので覚えていなかった。ミステリというわけではないが、やはり、最後まで展開が読めずにハラハラとしながら主人公を見守った。それらは、ハッピーエンドというエンドには辿り着かない。バッドエンドでもない。

 わかりやすいテーマも感じない。でも、面白い。

 見終わった後に興奮している気持ちがある。考察している自分がいる。もう一回見直したいと思う。

 こういう余韻を、恐らく叶も楽しんでいるのだろうと思う。そう言うものが、きっと彼は好きなのだ。


「………面白かったです」

「そう?よかったぁ」


 彼は本当に安心したようで、息を吐いて胸を撫で下ろした。「人にオススメするのって緊張するね」と笑う。


「今度はシュウヤ君のオススメが知りたいな」

「…………おれ、あんまり映画とか知らないんで…」

「アニメでも。漫画でも。音楽でも。なんでも。…もっと、君のことが知りたいから」

「……………」


 同じ気持ちなのがくすぐったい。

 これから、時間をかけて少しずつ知っていけるのかと思うと楽しみだった。きっとそれも全部、叶も同じ気持ちなのだと思う。

 そろそろバイトの時間となり、叶に送って貰って一旦別れたが、開店したら叶が客として来店した。ぶれない男だ。おれは少し、笑ってしまった。

 彼は真っ直ぐにカウンターの席に座る。あの日、敦也が座ったところと同じ席だ。


「オニーサン、美人だね。ウーロン茶と、オニーサンのオススメを」

「オススメって…。本日のオススメのやつでいい?」


 オーダーを取りに行ったら絡まれた。あ、勿論、叶に。

 知的に見えなくもない流し目で、お冷やのコップを傾けながら、まるで誘っているような演出をする。


「………なんか、ふざけてる?」


 指摘してみた。


「うん。ちょっと、バーで会った風を演出してみた」

「………」


 なんだか楽しそうで、大変結構だ。

 にこにことご機嫌に笑う叶は「やっとシュウヤ君のバイトしてる姿が拝めた」と、またいつもの前のめりでおれを眺めた。何処と無く、うっとりとしている。

 そんなやり取りをしてる間に店の引戸が開く音がした。


「いらっしゃいま…あ、芳樹」


 目を向けると芳樹が立っていた。

 目を丸め、ボーゼンとした感じである。おれは首を傾げてから、また「いらっしゃいませ」と声をかけた。

 叶もそちらを向いて、来客が芳樹であることを認めて「あ」と小さく声を零した。

 叶と目が合った芳樹は、金縛りが解けたようにこちらへと歩き始めた。


「…………なんだよ、遂にか」


 そんなことを言いながら、叶の隣に座る。


「……オメデト」

「あ、ありがとう。………分かる?」

「そりゃ。幸せオーラ全開で、お花飛んでるから」


 叶と芳樹は小さくそんなやり取りをした。

 おれはますます首を傾げ、もしかして、と口を開く。


「……………知ってるの…?」


 なんのことかは、伏せた。

 けれど芳樹は、こくりと首を縦に動かした。


「………バレバレ」


 おれはかぁっと顔全体が火照るのを自覚した。

 叶と芳樹が目を丸めてそんなおれを見守り、二人して顔を見合わせ、うんうんと頷いた。


「…君の彼女、可愛いですな」

「おたくの彼氏、可愛いですな」

「…………やめて」


 注文は?と未だに赤いであろう顔を芳樹に向けて、ちょっと睨むように訊いた。芳樹が「いつものやつ」と言うので、「はいはい」とオーダーを通しに行くと、何やら叶が話した声の後に「叶ちゃんとは常連度が違う」と得意気な芳樹の声が聞こえた。ほんと、二人、仲良いな。

 そう言えば、初めて三人で出会った時も芳樹は既に「叶ちゃん」と呼んでいて、叶も芳樹のことを「芳樹」と呼んでいたっけ。


(二人は、どんな風に出会ったんだろう…)


 でも二人ともコミュニケーション能力が高いので、親しくなるまでにまるで時間がかからなかったんだろうなぁと思う。

 おれはそれから、徐々に増えてくる客のオーダーを取ったり、料理を運んだりとバイトに徹した。時々チラリと盗み見る二人は、やっぱり、まるで昔からの友人のように談笑していた。


「…………」


 なるほど、同性に恋をするって大変だ。


(………異性にも、同性にも嫉妬するわけか……)


 こりゃ、大変だ。

 おれが見ていたことに気が付いた叶は、何も知らずに笑顔で手を振る。おれは他人行儀にペコリと会釈をして、別のテーブルの空いた食器を片付けた。





「バイト中のシュウヤ君、いじらしかったね」

「………そうですか」


 “いじらしい”ってなんだっけ?と考えながら、開店の十七時から二十二時まで客として店に居た叶の図太さを思う。…まぁ、芳樹もいつもそうだけど。

 芳樹を送った後、おれ達は二人で叶の家に帰宅した。


「いつもこんな遅くまで?」


 リビングに入り、電気を点ける。

 パッと明るくなれば、もう寝るような時間なんて感じがしない。


「大体そうですね」

「一人で帰ってたの?」

「大体、芳樹が送ってくれてました」

「………流石、『彼氏』……」


 叶の苦笑いをまじまじと見つめると、「どうしたの?」ときょとんと返された。


「………おれの彼氏は、叶だよ」

「っ………!もぉぉおッ!だからぁーっ!そーいうとこだよおおぉ………!」


 ぎゅーっと抱き締められる。ふわりと叶の香りがする。

 寸前で、赤くなる叶の顔を見た。おれはちょっとしたり顔で笑ってしまったが、おれを抱き締めている限り叶がその顔を見ることはない。

 バイト後で眠気なんて無かったが、順番にシャワーを浴びれば、サッパリとした体がやがて休む体勢に入ったようだった。


「もう、休もうか」


 リビングのソファーに並んで座って何と無く飲み物を飲んでいたが、うつらうつらするおれを見かねて、叶が言う。こくりと頷いて、二人で二階に向かう。


「二択なんだけど」


 階段を上りきり、叶がおれを振り返る。


「うん?」

「シュウヤ君の部屋で一緒に寝るか、僕の部屋で一緒に寝るか。………どっちがいい?」

「それって実質、一択ですよね?」


 ふふふ、と笑う叶に、おれは呆れた顔をしつつも、その実、彼への愛しさで溢れてしまう。

 うーん、と考えて、返事をする。


「今日は叶の部屋で」


 一ヶ月と数日、共に暮らしたが、叶の部屋にはまだ入ったことがなかった。

 お互い、二階に上がればそれぞれの部屋で過ごしていた。何度か用事がある時にノックして訪れた程度。それも、部屋の中まで足を踏み入れた事はない。

 何と無く、本を好んで読んでいる印象がある。

 本棚に本が一杯の部屋を想像した。

 叶はちゃらんぽらんとしているところがあるが、実はとても頭が良く、聡明なのではないかと思っている。眼鏡をかけて本を読んでいる横顔なんて、優等生に見えなくもない。


「お邪魔します」


 色々と想像しながらどきどきと訪れた部屋は、やはり期待を裏切らず、背の高い本棚にびっしりと本が並んでいた。

 机には分厚い参考書や難しげなタイトルの本が並ぶ。でかでかとした地球儀なんかも置いてあって、いつかの叶少年がそれを眺めては世界に憧れていたのだろうかと思わせる。

 おれの部屋として与えられたゲストルームよりも狭い感じがするのは、恐らく物が多いせいだろうと思う。

 シングルベッドに、大きな出窓。出窓には、小さな多肉植物がちょこんと置いてあった。そこだけが、ひっそりとしていて、後は片付いてこそいるものの、沢山の物に溢れていた。…主には本だったけれど。

 年季を感じる古びたウサギのぬいぐるみ。飾り棚には何冊かのアルバムと写真立て。写真立ての中には、叶少年と両親とおぼしき人達が笑っている。ブリキの車が何台か。壁に絵画が飾ってある。海のように広がる草原に一本の木が立っていて、空の青が優しく広がっている。そんな幻想的な絵の横に、おれでもよく知る白黒のだまし絵が飾られている。水が下から上っていく絵だ。確か、マウリッツ・エッシャー。ちぐはぐだけど、どちらもなんだか叶らしかった。


「………ちょっと散らかってるけど。ようこそ、僕の部屋へ」


 照れたように笑う。

 きっとここには、叶が成長していった過程がまるで宝箱のように溢れているのだろう、と思った。きっと学生の頃からそのまま置かれているんだろうなと思うものには『かつての叶』の妄想を、最近のものだなと思わせるものには、『今の叶』の残像を見た。

 ベッドの傍のサイドテーブルに置かれた読みかけの本。叶が寝る前に読んでいるのだろう。早起きした朝とかかもしれない。その本から覗く栞がアンティーク調で、叶のイメージに合っているなぁと思う。

 此処は、叶そのものの空間なのだ、と思うと、先程とは違う高揚感がドキドキと心臓を鳴らした。部屋全体、叶の優しい香りがする。

 叶はまっすぐにベッドに行き、その縁に座る。招かれて、おれも倣うようにベッドに腰掛けた。


「………叶の部屋、初めて」


 尚もきょろきょろと辺りを見回していると、叶は照れて頬を掻く。


「……そんなに見られると、なんか恥ずかしいな…」

「ちょっと、本棚見てもいい?」

「いいよ」


 先程座ったばかりなのに、また立ち上がり、部屋の中をうろちょろとした。

 知らない作家の、知らない本ばかり。漫画は置いて無かった。


「借りたDVDの原作はこれだよ」


 気が付けば叶が直ぐ後ろに立っていて、横からすっと手が伸びた。

 トン、と指差された本の背表紙には確かに、今日知った映画のタイトルがそのまま書かれていた。


「………借りてもいい?」

「……いいけど。映画で観てないのにする?同じ作家の」

「んーん。映像が浮かびやすいから、知ってるやつの方がいい」


 抜き取って、抱き締めるように胸に抱えた。そのまま振り返り、目が合うと、叶は少し困った顔をした。


「………近いね」


 自分から近付いたくせに、と笑う。


「……キスしたくなる?」

「うん」

「いいよ」


 昨日からもう、何度目かと知れない口付け。


「……おれ、叶の事もっと知りたい」


 先程の眠気は何処へやら。すっかり、目が覚めてしまっていた。

 寝てしまうのが惜しい。一分、いや、一秒でも大事に過ごしたい。語らいたい。触れたい。感じたい。彼を、もっと知りたい。


「…………嬉しいな。シュウヤ君に、そう想って貰えるなんて」


 こんな未来に繋がっているなんて、と続けて紡いだ叶は、なんだか泣き出しそうな子供のような顔をした。

 ほら。どうしてそんな顔をするのか、おれは知らない。


「まず、そう言えば、訊けていなかったんだけど、どうして叶はこの家に一人で暮らしてるの?」


 踏み込み過ぎかなと思って、訊けなかったこと。踏み込んでみた。


「両親はね、もっと田舎の山奥で暮らしてるんだ。僕が高校生になってから、ずっと。自給自足でそうやって生活することに憧れていたんだって」

「……叶を置いて?」

「うん。酷い親だと思う?」

「………」


 かつて、薄っぺらに生きてきたおれは、今、しっかりと頭を働かせて想像してみた。当時の、高校生・叶の事を。

 言葉を間違えないように。

 …叶は学生でものらりくらりとしていそうだ。それから、誰の事も恨んでいなさそう。現状を楽しむタイプなんじゃないだろうか…?それでも、意外と甘えたなところがある。きっと、それなりに楽しんでいたけど、時折ふと、寂しさは感じていたんじゃないのかな…。


「………おれなら、開放的で、時々ふと、寂しいかな。風邪引いた時とか」

「…………そうだね。そうだったよ」


 ふふ、と叶が笑う。

 どうやらおれは間違えなかったようだ。ホッとした。


「両親は晩婚でね。子供も、なかなか授からなかったらしい。最後の望みをかけていたところに、やっと僕が生まれたんだ。沢山、愛してくれていた。だから、あんまり寂しく無かったよ」


 地球儀をくるくると回しながら、叶は懐かしんで笑った。頭の中に、大切にしている思い出が再生されたのだろう。


「何年経ってもラブラブでね。僕もいつか、なんて子供心に憧れてた。思春期になると、見てるこっちの方がちょっと恥ずかしかったけどね」


 シュウヤ君は?と不意に話題を振られて、面食らう。


「君の話も聴かせてよ」


 そんなに面白い話は無いんだけどな、と頬を掻いた。


「んー…。父親はサラリーマンで、母はパート勤めです。社会人の姉がいます」

「お姉さんがいるんだ!」


 叶は興味津々と言う感じに食い付いて来たので、内心、しまったなと思った。まだ、姉の顔を見せるのには抵抗があった。


「シュウヤ君が『弟』っての、かなり納得だね」

「……貶してます?」

「愛でてるんだよ」


 そこは「褒めてるんだよ」じゃないんだ?うん?文脈的におかしいか?

 幸い、姉の写真を見たいとか言う話にはならなかった。話は、幼馴染みのー敦也のー事に擦り変わる。


「敦也君とは?いつから一緒なの?」

「気が付いた時には…。保育園から一緒です」

「へぇ…」


 僕の知らない君を沢山知ってるんだね、と笑う顔には上手く隠していたけれど、嫉妬しているなんてバレバレだった。可愛いやつだ。

 点けた冷房が寒くなって、温度を上げるよりもおれ達は布団にくるまって、話し続けた。電気を消して、真っ暗な部屋に視界が慣れても、会話は途切れない。

 おれも芳樹の事を訊いてみた。「オープンキャンパスで、仲良くなったんだ」と返されて、やっぱり少しだけ妬いた。叶と芳樹は、おれが出会うよりも半年程前に、既に出会っていたらしい。


「ねぇ、」


 徐ろに、叶が言う。

 深夜の静けさに、良く響く声だった。闇に浸透して、それなのにハッキリと主張する。


「…僕は、敦也君みたいな君の太陽には成れないけれど、夜闇を照らすような月には成れると思うんだ……」

「……そう言えばストーカーでしたね、おれの」


 小学生の時、国語の教科書に“迷子になっても月が着いてきて道を照らしてくれた”みたいな話があったのを思い出した。

 おれの茶々入れに、叶は苦笑した。


「君の月明かりに成りたいと思うんだ。君の傍にいるのが僕でも、構わない?」


 その訊き方は少しだけ気に触った。おれははっきりと顔をしかめた。「構わないも何も」はっきりと、口にする。


「おれが好きなのは、叶だから。叶“で”いいんじゃなくて、叶“が”いいんだよ。とっくに。おれは」

「…………、幸せ過ぎて、明日死ぬかも………」

「それは困る。辛辣に返そうか?」

「それは困る。ほんとに死ぬ」


 二人で笑った。


「そう言えば、シュウヤ君の誕生日って、秋?」


 またしても突然、話題が変わる。


「そうですよ。名前のまま、秋の夜に生まれました」

「そうなんだね。プレゼント、何がいい?」

「まだ先ですよ」

「それでも。なんか贈りたくて、うずうずしてるんだ」

「貢ぎ属性ですか?」


 うーん、と考えても何も浮かばない。もともと、物欲に乏しい。ヒントを探すつもりで辺りを見回してみたが、おれの部屋とは欠け離れたこの部屋は何でも新鮮で目新しく映ったけれど、欲しいと思うものは見付からなそうだった。


「欲しいものは特には…。叶がいいなと思うものを、楽しみにして待つよ」

「えっ、プレッシャーやばっ!…でも、シュウヤ君の事を考えながらプレゼントを選ぶのって、楽しそう」


 一緒に買いに行こうね、と横から抱き付いてくる叶。

 二人の体温ですっかり布団の中は温かくなっていた。


「…………そう言えば、今、一番欲しいものがありました」

「うん?何?」


 抱き付かれた腕の中で、ゴロンと寝返りをして顔を付き合わせる。


「『秋夜』って、呼んで下さい」


 叶はずっと、「シュウヤ君」とおれの事を呼んでいた。

 おれは少しずつ叶の呼び名を変化させていったのに、彼は出会った頃から「シュウヤ君」だ。下の名前で呼んでいるくせ、どこか他人行儀な響きがあって、気になっていた。


「……………秋夜、」


 零れるような囁きに、満足しておれは笑った。おれがこんな風に笑うといつも、叶は赤面する。


「なに、叶?」


 ダメ押しの甘い声。

 叶は撃沈して、顔を覆い隠した。


「っうーーーーーー………。僕、死んだ。今、死んだ」

「死因は?」

「キュン死に」

「あははっ!」


 叶は本当におれの事が好きだな、と笑えば、好きですけど?と少し不貞腐れたような声が指の間から聞こえた。


 愛おしい。


「…………おれさ、『叶』って名前が好き。呼ぶ度、愛しさが増すんだけど。これが恋なんだね」

「…………そう言うこと、真面目に言わないでくれる…?」


 今度は照れ隠しに恨めしそうな声。


「きっと、ご両親の願いが叶ったから、嬉しくてつけた名前なんだろうね。それから、叶にも、『この子の願いも叶いますように』って祈りを込めたんだろうね」


 おれの憶測に、叶は反応しない。

 名前の由来の正しいところなんて、きっと既に叶は知っているだろう。おれも授業の一環とかで親に訊いた記憶がある。


「『かのう』じゃなくて『かなえ』なのはさ、『叶え』って、祈ったんだろうね。叶を守る名前だ」

「………必死そう?」

「うん?」


 願いよっ!叶えっ!……って、必死そう?

 叶は苦笑混じりに問う。


「その発想はなかった」


 おれも苦笑した。

 それから、叶の手を取り、指を絡めて額に当てた。


「イメージとしては、こっちかな」


 祈るように目を閉じて、開いた時、叶はなんだか憑き物でも落ちたような顔をしていた。


「……どうしたの?」

「ん?……今、秋夜く……秋夜のお陰で、浄化された魂があったんだよ」

「…………そんな顔してた」


 叶の心にこびりついていたそれは、果たしてなんだったのだろうか。

 そう思ったけれど、それはこちらから問い掛けて踏み込んではいけないことのような気がした。おれが敦也への想いに終止符を打ったことのように。ひっそりと、自分自身の胸に仕舞っておきたいものだってある。


「………ねぇ、お盆て帰省するの?」

「んー…。その予定は無いけど」

「ご家族、寂しがらないの?」

「叶こそ、ご両親のところに顔出しに行ったりしないの?」


 そんな話題に、いつか、叶を『彼氏』と紹介する日が来るのだろうか、と考えた。

 親はどんな顔をするだろうか。どんな言葉を言うのだろうか。……それともずっと、紹介すら出来ないのだろうか。


(………そんなのは、やだな)


 後ろめたいことなんて、無いのに。

 マイノリティと言うだけで、気に病むようなことは一つもないのに、と思った。

 驚くだろうけど、でも、悲しむことは無いだろうと思う。温かい、家族だ。おれや姉の幸せを一番に考えてくれていたと思う。


「…………今度、いつか、…一緒に、来てくれる?」

「え」


 叶は絡めていたままの手を引いて、今度は自分の額にそれを押し当てた。祈るように。願うように。


「……家族に、紹介したい。秋夜のこと」


 あと、僕は幸せだよって、言いに行きたい。ーーー叶の潤んだ真剣な瞳に吸い寄せられるようだった。

 これってプロポーズなのかな?って、ちょっと思った。


「…プロポーズ?」

「……違うよ。それはまた、然るべき時に指輪を買って来てするよ」


 どうやらプロポーズの意は無かったらしい。


「なんか豪華なホテルとか取って…船でもいいね。花束に、指輪。膝をついてさ、言うよ」

「……憧れてるんだ?」

「ちょっとね」

 

 その様子を想像してみた。ホテルの最上階。広くてお洒落な部屋で、叶が片膝を着く。または、豪華客船に乗って月の浮かぶ幻想的な夜。やっぱり叶は、おれの前で片膝を着く。

 まるでそれは、近い未来に本当に起こることのように現実味を帯びていて、周りの人達は驚きながらも拍手しておれ達の幸せを祝福してくれていた。


「秋夜の幸せに笑う顔を一人占めしたいような…。でも、沢山の人に祝福されて…っていうのも捨てがたいよね」


 叶も同じ想像をしていたらしい。声までうっとりと、どこか夢見心地だ。「それから、」と紡がれる言葉に、まるで幸せなお伽噺でも聴いているような心地になって、少しずつ、眠くなっていく。叶の声はいつだって耳に心地良い。


「あ、寝る?もう、寝ようか」


 目を閉じてしまったおれに気が付いて、おれの額に唇が触れた。


「おやすみ、秋夜」


 叶の髪がサラッとおれの頬を撫でた。閉じていた目を開けて、触れたその髪に手を伸ばし、指に絡めた。

 本当はずっと、こんな風に彼に触れたかったんだろうなと思う。いつからか。こんなに、お前に焦がれていたんだな、おれは。

 胸の奥からまた、じわりと温かく広がっていく幸福感に、おれは伝えずにはいられなくて、想いを言葉に、言葉を音にする。好きだよ、と。


「好きだよ、叶」

「………僕も。好きだよ、秋夜」


 どちらともなく、また、キスをする。


「おやすみ、叶。……また明日」


 それはなんて、幸せな言葉なんだろうかと想う。

 明日も。

 明後日も。明明後日も。きっとその次の日も、その次の次の日も、その先の未来も。おれと叶は一緒だろうと想うと、やっぱり幸せで。その先の未来は幸せに溢れているに違いないと、直感する。


 静まり返った優しい暗闇の中で、雨の音がした。

 ふと思う。失恋を知ったあの日から、雨の音は敦也を思い出してしまって嫌だったのに。もうすっかり、叶との思い出に塗り変わっていた。

 「君を軟禁します」なんて言葉は、なかなか、生涯で言われた印象的なワード二位くらいにはなるんじゃないかなと思う。…一位は、プロポーズの言葉かな?

 目が覚めて、「おはよう」と言い合う明日の朝のことを想像する。早く起きた方が淹れるであろう、コーヒーの香り……いつもの、朝の香りまでした気がした。

 聴覚。嗅覚。視覚。味覚。触覚。…それら全てに、彼との想い出がある。これからも、それら全てを持って、彼との幸せを確認するのだろう。



 雨の音。それから、コーヒーの香り。


 

 それらは『君と居る日常』と書いて、

 “シアワセ”と読む。








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雨の音、それからコーヒーの香り。 将平(或いは、夢羽) @mai_megumi

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