第4話 初めて触れた唇は、涙とコーヒーの味がした。
『あのさ、明日、お前んとこ行っていい?』
敦也からそんなメッセージが来ていたのは昨晩で、気が付いた時には『明日』と言われた日の朝を迎えていた。
寝起きの頭でぼーっとその文字を眺めながら何度か読み返し、やっと脳みそが覚醒して意味を理解する。
「え?急」
独りごちた。
『今メッセージ見たんだけど?』
直ぐ様送ったメッセージは直ぐに既読が付いた。
『わりぃわりぃ。今、新幹線に乗ったとこ』
「えっ?!急っ!」
また同じ台詞が口から出た。
慌てて洗面所で顔を洗い、頭の中で今日のスケジュールを確認した。バイトのシフトが入っていたはず。直ぐに交替できる人間を探した。案外簡単に見付かって、ホッと胸を撫で下ろす。よかった。
後は?掃除?買い物?
再び敦也とのやり取りの画面を開く。新着のメッセージが連続して二件、入っていた。
『三時頃着く。遠くない?』
『手ぶらで行くから、必要なもの現地調達。手伝ってな』
「……無計画だな」
敦也らしくない。と思った。
衝動的だ。急だし。…何かあったのかも知れない。
(……………彼女と別れた、とか…?)
ドキリ、と胸が鳴った。
それがどうしてだかは分からない。彼女と別れたからと言って、どうだと言うのか。
「…………取り敢えず、…何しよう…?」
部屋は綺麗だった。
叶の家からアパートに戻り、変化したことが沢山あった。
まず、掃除が日課になっていた。何と無く手が空いている時、時間をもて余している時は片付けや簡単な掃除をした。それから、毎日カップ麺ではなく、時々ちゃんと、自炊もした。
友人の家にばかり招かれて遊びに行っていたが、最近はおれの家にも呼ぶようになっていた。いつもつるんでいる中の誰よりも大学から近い場所にアパートを借りているので、そのまま皆で雑魚寝して、一コマ目に向かったりもした。
まだ朝の八時だった。敦也が駅に着く十五時までにはまだまだ時間が有り余っていた。
(晩飯、作ってみようかな…?)
それを見て目を丸める敦也の顔を想像して、おれは一人で楽しみに笑った。
まずは買い物に行かないと!
敦也は本当に軽装でやって来た。
ジワジワジワ、だかそんな風に。何処かで蝉が鳴いていて[[rb:茹>う]]だるような暑さだったのに、敦也は爽やかだ。
今まで新幹線に乗っていたからだろうか。それとも、おれのフィルター越しだからだろうか?何だか眩しくて、二回程瞬いた。
ワンショルダーのバッグには財布とスマホしか入っていないと言う。帰りの切符も買っていないらしい。
卒業式以来に会う敦也は、記憶と何も変わっていなくて、やはりドキリと胸が鳴った。
「ごめんなー!突然」
駅でおれの姿を見付けるなり、敦也は片手を大きく挙げた。小走りにやってきて、第一声がそれだった。
おれは垂れてきた汗を拭う。久し振り、と言ってから「本当に」と先程の敦也の言葉を肯定した。
新幹線が停まる駅まではアパートから最寄りの駅で電車に乗り、二駅先にある。おれはそこで敦也が来るのを待っていた。
「今日も暑いなぁ~」
「だね」
「変わらないな、秋夜。髪とか染めてたらどうしようかと思った」
「…敦也こそ」
久し振りに会うその懐かしい顔。声。雰囲気。変わらなくて、まるで、昨日も会っていたかのような気がした。全てが心にスッと沁みて、自然とおれは微笑んだ。
「取り敢えず、下着とか明日着る服とか買いたい」
もう少し懐かしんでくれても良かったが、敦也はマイペースにキョロキョロと辺りを見回した。
「デパートとか、無いの?」
「ここらにはあるわけ無いよ。どれだけ田舎だと思ってるの?」
「まじ?」
「まじ」
新幹線が停まる駅、と言っても、都会の駅なんかを想像されては困る。駅に高いビルなんて入ってないし、近くにそれがあるわけでもない。勿論、地下街なんてものも無い。ただ、駅があるだけ。キヨスクがひっそりと佇んでいる。
じゃあ買い物はどうしてるんだ?と訊かれたがそう言われてみれば、おれは大学に通い始めてからスーパーとコンビニ以外に買い物で店に出掛けたことが無い。……叶と出掛けたのは例外で。
ショッピングモールなら、と案内したのは、在来線に乗り換えて、敦也にとっては一駅戻る場所。服や下着、歯ブラシなどの日用品を買い、再び電車に乗って僕の住むアパートへ向かった。
途中の駅で下車すれば、叶の家の最寄り駅だ。
電車からはその家は見えないけれど、見慣れてしまった駅を通過する時、なんとも表現しがたい気持ちになった。
最寄り駅ーー勿論、僕のアパートからのーーで降り、徒歩でアパートまで案内する。茜色の空は暗くなりかけていた。
「突然来るから…。ほんと、何も無いよ…?」
嘘だ。
ビックリさせてやろうと、晩御飯を用意していた。「このまま食べて帰ろうか」と言われないかと、ヒヤヒヤしていた。
「知ってる知ってる。お前が生活力皆無で毎日カップ麺ばっか食べてる事も」
「………野菜炒めくらいなら出来る…」
「へぇっ?!凄いじゃん…!マジで?」
階段を上っている最中そんな他愛もない会話。不意に、後ろから来ている人が叶に見えて、どきりとしてしまった。えっ?と思って振り返れば、もう居なくて。
幻覚?と、なかなかの重症さに心の中で笑ってしまった。「何?」「ううん、何でもない」そんなやり取りが、蝉の声に混ざる。
「どーぞ」
「えっ!わ、綺麗じゃん!」
三階の部屋に着き、玄関からダイニングへ抜けると、敦也は目を丸めた。
どれだけ汚い部屋を想像していたのだろうか…と、ちょっと苦笑した。
もともと物欲も無いので物も少ないが、片付けや掃除は苦手だったので、実家のおれの部屋はいつも何と無く散らかっていた。放課後や休日に遊びに来た敦也が見兼ねて片付けてくれる事が多々あった。なるほど確かに、おれの一人暮らしなんて、荒れ果てた部屋しか想像できないだろうな…特に、敦也は。
「百均で掃除道具買っちゃったじゃん」
「………そんな気がしてたよ」
寄った百円ショップで◯◯クリーナーやらダスターを購入していたので、まさかなと思ったらそのまさかだったらしい。ほんと、こいつ。おれの何なの?親なの?
エアコンのスイッチを点ける。生ぬるい風が、徐々に部屋の温度を下げていく。
「適当に荷物置いて。寛いでて」
椅子なんて物はない。狭い1DKだ。シングルのベッドかフローリングに直に敷かれた百均の薄い座布団か。おれが座るように敦也に促したら、驚いた顔がそのままこちらを向く。
「えっ?!何?!まさか、お茶とか煎れようとしてくれてるの?」
「…………ソウデスガ……」
「おまっ…お前………。秋夜が、秋夜が大人になってる………ッ…!」
うっ!と、目頭を押さえて泣く真似をする仕草はどこかで見た事があった。…ああ、叶だ。初めておれが、コーヒーとトーストを用意した朝のことだ。
おれはちょっと面白くなくて、それには反応せずに台所へ向かった。
「テレビ買ったんだ?ちっさ!」
「秋夜らしいね、必要最低限しか置いてないじゃん」
「マンガも床に直置きじゃんか!本棚くらい買えよ!」
飲み物を用意している間にも、敦也は特に返答を求めていないような大きな一人言を言って騒がしい。
「どーぞ」
テレビの前のローテーブルの上に置いたグラスを見て、敦也が固まった。「ん?」と思ってから思い出した。そうだ、敦也はコーヒーが飲めないのだった。
「あ、ごめん…。つい、癖で」
…叶のこと、思い出したから。
おれがそれを下げて別のものに変えようとすると、敦也がその手を掴んで、それを制した。
「いや、俺だって大人になったんだぜ?コーヒーくらい、飲める」
「………」
にやりと笑うその顔に、「いや、絶対嘘でしょ」と言えなかった。気を遣わせてしまったと言うよりも、敦也らしいその気遣いに、水を注したく無かった。
“おれさぁ、お前のこと、好きだったんだよ。”
つい、口から溢れてしまうんじゃないかと思った。………気を付けなければ。
改めて、心臓が鳴った。片想いをして、ついにその想いを告げることがなかった……その相手が、部屋に居る。
密室で、二人きり、共に過ごす。
大丈夫なのだろうか……。
今更ながら、そう思う。
叶の家のように、広くない。プライベート空間なんて無いのだ。自分の飲み物も横に置けば、ほら、今だって肩がぶつかりそうだ。なんだか不意に、悪いことをしている気分にもなった。
(……あ、布団。干したらよかった…)
どぎまぎと、そんなことを思う。
少し雑談や近況、思い出話をして。
冷蔵庫で冷やしておいた味噌汁や野菜炒めを温めて、炊き立ての米と一緒に配膳したら、やっぱり敦也は驚いて目をしばたいた。おれは愉快に笑った。
食後には買ってあったアイスを一緒に食べた。テレビも点けていたが、二人とも話ばかりで観てはいなかった。
「………もうバレてると思うけど、」
風呂はシャワーにして、交代でさっと汗を流した。
まだ寝るにも早く、懐かしむ気持ちもあって布団にも入らずにテレビの前で二人、涼んでいれば、突然、敦也がそんなことを言い出すものだからドキリとした。
『俺、お前のこと好きだったんだ』
続くはずの無い言葉を無意識に想像してしまった。
そんな続きを思わせるような、言い出しにくそうな雰囲気を帯びていたから。
『俺、お前の気持ち知ってたんだよね』……こっちかも知れない。
「俺、………彼女と別れたんだよね」
「…………へぇ」
まぁ、でしょうね。
一番可能性が高かった言葉が続いて、僕はそっと息を吐く。
点けていたエアコンが寒くなってきて、少しだけ設定温度を上げた。敦也はコップに出してあった炭酸ドリンクを一口飲んだ。朝に買い物に出掛けて、用意していたやつ。敦也の好きなドリンクだ。
「傷心旅行しよっかなって…」
「こんな遠くまで」
「…お前の顔が浮かんだから」
「……」
きっと深い意味なんて無いのに。
気軽にそんな言葉を口にするものでは無い、と思う。殺傷能力が高い。敦也には知る由も無いのだけれど。
…悔しいなぁ。おれは苦笑した。
「なにお前、おれのこと好きだったの?」
「へぇ?…うん?まぁ、好きは好きだけど……」
「おれは好きだったよ。恋愛的な意味で」
「えっ?!」
ーーーーーって言うのは、妄想で。
現実に続いたやり取りは、こっち。
「……何?やらかした?」
「やらかすってなんだよ。別に。他に、好きな人が出来たんだってさ」
「………へー…」
おれも自分の前に置いていたオレンジジュースを一口飲んだ。おれは炭酸が苦手だったので、炭酸は敦也用。
敦也は何でもない風を装っていたが、てんで駄目だった。彼は素直な性格だから、いつも、誤魔化すのが下手くそだ。見たところ、癒えない傷はまだ深いようだ。
歴代の彼女の顔や名前なんて浮かんでこないのに、敦也の彼女の顔は直ぐに浮かぶ。あまり話したことは無かったが、この人がそうなのか…と、敦也と二人で並んでいるところをよく見かけた。
それからは、カノジョを見掛けたらつい、目で追ってしまっていた。それは勿論、彼女に対する淡い気持ちなんかではない。鑑定するような、そんな意地悪な気持ちがあったと思う。
鬱陶しいくらい長い髪。いつも、うっすらと化粧をしていた。男子の中では低い方の身長のおれよりも背が低い。彼女は所謂、『助けてあげたくなるタイプ』の部類の人間だったと思う。特別に可愛いと言うわけではないが、小動物のようで愛嬌がある、と誰かが言っていた。おれは全然、タイプじゃなかったけど。敦也の良さに気が付いた人だ。………まあ、いんじゃない?……そんな風に、思おうとしたこともあった。
「…………敦也を選ばないなんて、見る目無いね、あの人」
あの人、という言葉が存外に冷たい響きを放って、恐らくそのせいもあって、敦也は目を丸めてこちらを見た。…今日の敦也は目を丸めてばかりだ。地元に帰る頃には、くりっくりのおめめになってしまうかもしれない。
「…………ありがとう」
慰めの言葉だと受け取ったらしい。
敦也は少しはにかんで笑った。それから、「お前の方は?」と話題を変える。
「どうなの?もう、彼女とか居るんだろ?お前、昔っからモテるからなぁ…」
開けた袋をそのまま皿にしたスナック菓子を摘まんで、わざとらしくぼやくように言う。おれもそれに乗ることにした。倣うように菓子を摘まんで、一口食べてから、気軽に口を開く。
「彼女というか…。どうもおれが、『彼女』らしい」
「はぁ?」
「おれ、[[rb:芳樹>よしき]]って言うヤツの、『彼女』なんだよね」
なんだそれ!と敦也は笑った。おれもホッとして、笑った。
「それはあれ?入学式の日にナンパしてきたって言う男?」
「それはまた別の奴」
「なんだそれ!今は男にモテてるわけ?」
ヒーヒーと目尻に出てきた涙を指先で拭いている。おれも発破をかけるように「ほんと、皆、おれのことが好きらしい」と困った顔を作れば、敦也は更に笑った。
一頻り笑うと、「でも、良かった」と敦也が溢した。
「友達とか。秋夜を想ってくれてる人が、沢山居るんだな。傍に」
慈しみの深い目をして言うものだから、ああ、やっぱりこいつ、おれの親だったのかな?保護者かな?と納得した。
おれの想いなど知らずに、「表情も豊かになった…。一人暮らしって聞いた時はどうなることかと思ったけど、良かったんだな」なんて、敦也はうんうんと一人で何度も頷いていた。
「それで、お前に好きな子は?いるの?その、芳樹って奴が好きなの?」
何食わぬ顔でそんなことを言うので、何処から本心なのか分からない。芳樹は男だけど?おれが「うん」って頷いたら、どんな反応するつもりなの?…けれどおれは、素直に首を振った。
「ふーん?…お前って、昔っから、結局誰のことも好きじゃなかったよな」
「…………」
「…あ、すまん」
おれの無言を失言の為だと受け止めて、敦也は慌てて謝った。それでも、「でも、そうなんだろ?」と弁解するように苦笑を浮かべた。
「本当に、見違えたと言うか…。久し振りに会ったって言っても、五ヶ月くらいとかそこらなのに。お前なんか変わったからさ。何か……そうさせる変化があったのかなと思ったんだよ」
「………」
何と答えるべきなのか。
一巡しても二巡しても、その答えはおれの脳みその中には無かった。
ゆっくりとした動作でオレンジジュースを飲みながら、「おれが本当に好きだったのは、お前だったんだよ」と言う言葉と「おれが変わったって言うなら、それは叶の影響だろうな」という言葉に辿り着いて、やっぱりどちらも口に出来ないなと断念した。空になったコップを置く。
「…………あ。何、そのキーホルダー」
沈黙に耐えかねてか、敦也が突然、指を指した。
人差し指が指す方を見れば、床の上にトートバッグが転がっていた。講義の教科書とかを入れている、麻の生地のものだ。その手提げ部分の片方に、キーホルダーを付けていた。
「なんか、懐かしみがあるな。中学の時くらいに、女子の間で似たのが流行ってなかった?」
「…………そうだっけ?」
「そうだよ。何?プレゼント?」
「………まぁ、そんなとこ…」
本当はおれが買ったんだけど、とは会話の流れから言い出せなかった。そんなにチョイスが幼かっただろうか?と首を捻りつつも。
おれの目線の先、クローバーの横で、クマのイラストがコーヒーを飲んでいた。
「じゃ、世話になったな!」
「今度はもっと早めに教えてよね」
「わりぃわりぃ」
結局、敦也はきっかり一週間、滞在した。
一週間もバイトの交替を頼むのは忍びなくて、敦也を残してバイトに出たり、敦也がカウンター席に座ってくれる事もあった。シフトの入っていない日は少し観光に出たりもした。そんな風に、あっという間に一週間が過ぎていた。
「あ、そういえば」
「ん?」
もう新幹線が出ようとしている。敦也は一歩、新幹線に乗り込んで、こちらを振り返って言った。
「俺、『芳樹』とお前をナンパしてきた男、分かったよ」
「え」
この一週間で?
二人に出会った記憶はなかった。はてな?と首を傾げた。
ジワジワジワ、と一週間前と同じに、蝉が鳴いている。額や首筋、背中に汗が流れたが、そのままにした。
「………おれさぁ、あの、……。偏見とか、無いから」
「え」
敦也はこめかみから流れた汗を拭って、少しだけ言い淀んでから、しかし最後はきっぱりと言って、澄んだ目でおれを見た。
「お前のことを好きな奴が居て、お前もそいつのことが好きで幸せなら、それが一番だと思うから」
「………」
「お前、ほんと、変わったよ。……[[rb:ナンパ男>かなえさん]]のお陰なんだろ?よく笑うようになったの」
「………」
ああ。敦也。
君に、言っておかなければいけない言葉があるんだ…。
太陽のように眩しい笑顔を向けられて、つい、目を細めた。眩しくって、敵わない。青い空に真っ白な入道雲が背景によく似合う。どこまでも真っ直ぐで、爽やかな奴だ。……おれの、好きだったヒト。
おれの事に敏い敦也は、ひょっとしたらもう、気が付いているのではないかと思った。まさか。きっと、そんなことはあるはずがないのだけれど。でも。もしかしたら……。
いつだって心からおれを想ってくれるこの太陽に、おれは封印していた言葉を口にする決心をした。
「おれは、お前の事が好きだったんだ。敦也」
敦也ははっとした顔をして、直ぐにきゅっと口を結んだ。深刻な表情はその一瞬で、直ぐに表情を崩す。
「……………知らなかった」
ほらね。
敦也は嘘が苦手だ。彼は、へんてこな顔をして笑った。おれはそれに、苦笑した。困らせたくて言った訳じゃないんだと伝えるように。
「ありがとう。おれに会いに来てくれて。好きだよ、敦也。お前は、おれの大事な友達だ。これまでも、これからも。変わらず傍に居て欲しい」
友達、という言葉を強調した。好きだよ、は勿論、LOVEじゃなくてLIKE。傍に居て、は物理的な距離のことを言うわけではない。
もうこの想いは、過去のものだったから。
すっきりと無くなったりはしないけれど。くすぶっていた炎は、おれの心をどきどきとさせたけれど。それでも、もう、想い出の中にあった。アルバムを捲って懐かしむような、そんな淡い想いになっていた。
敦也にもそれは十分に伝わっていたのだろう。こくりと一つ、頷いて破顔した。今度はよく知っている、あの眩しい笑顔。
「ありがとう。親友。俺も好きだよ、お前の事。お互い、幸せになろうな。これからも、末長く、ヨロシク」
言い終わると、ドアが閉まった。
おれは敦也の言葉に応えるように、にっこりと笑った。
お互い手を振る。流れるように緩やかに、新幹線が前進した。
さようなら、おれの初恋。
そんな風に想うのは、ちょっと女々し過ぎるかな。
そう想いながら、新幹線が見えなくなるまで見送った。
この恋はやっと、成仏したのだ。
見えなくなった新幹線と共に、その想いに終止符を打った。
(…………さて、と…)
スマホを取り出し、メッセージを開く。
“あの日”から、動きの無い画面。
おれはやっと、文字を打つ。
送る言葉が本当にそれでいいのだろうか?と少しだけ考えて、結局、その文章のまま送信ボタンを押した。それから、姉とのやり取りの画面を開く。
『姉ちゃん、おれも。孫の顔、親に見せてあげられないないかも』
いつかの、姉の台詞を思い出して、打った。
送信する。
清々しい気持ちで見上げた空は、清々しい程の、快晴。
晴れ渡って何処までも澄んでいた。
おれは実は、怒っていたのだ。
『………もう、行きますよ』
『うん』
『………今日からもう、そちらへは行きません』
『……うん』
あの日。
彼は少しも、おれを引き留めてはくれなかった。ので。
なんなんだ、本当に、お前は。
そう、本当は憤っていたのだ。
何かにつけては、最後最後と繰り返す。
何?おれのこと好きって言ったの、嘘だったの?本当に、顔面だけだったの?
モヤモヤとした気持ちは、しかしどれも言葉として口から出ない。
自分から「アパートに帰る」と言ったくせに、その実、「本当は引き留めて欲しかった」なんて。女々しいにも程がある。
それでも。やっぱり。
聞き分けのいい彼は、実はおれのことをたいして好きじゃないのではないか?と思うと、痛む胸があった。
ーーー『私のこと、たいして好きじゃないんでしょう?』
歴代彼女達の台詞が脳の中で木霊する。ああ、ごめん。おれ、本当に最低だった。皆、こんな気持ちだったんだね……。こんなに、苦しかったんだね…。ごめん。
無視できない。もう、無視しない。
知らないフリも、もう止めよう。
やっと送ったメッセージには、『会いたい』を沢山込めた。
おれから連絡をするのが癪で、いつまでも待っていたのに、遂に叶から『会いたい』のメッセージは来なかった。
おれはイライラと、しかしその分確実に、この想いを自覚していった。
『連絡してっ!どれだけ…っ、待ってたと思うの?!今日こそはもしかしたら、……なんて!スマホ眺める夜がどれだけ長いと思ってるのっ?』
おれが軟禁された、あの日。あの、雨の日。
彼はそう言った。
おれは理解する。
確かに、連絡を待つ夜は長い。切なくて、腹が立って、寂しい。空しい。
新着メッセージの無いスマホの画面を撫でては、贈ったキーホルダーに対して『ありがとう』と言う言葉が送られて来たあの日から時が止まってしまったやりとりの画面を見つめる。
あの日に、戻れたら良いのに。……そんなことを、想う。
カタンコトン、と電車に揺られて、叶の家への最寄り駅を通過した。
タイミングよく新着メッセージを知らせてスマホが震えた。もしかして、と画面を見れば、姉からだった。
少し落胆するような気持ちもあったが、先程送ったメッセージがメッセージだったので、緊張する想いで画面を開く。
『私は既に確定事項となりました。あんたの方も、健闘を。祈る』
文字に続いて、親指を立てたスタンプがでかでかと送られて来ていた。
『幸運を祈る』ではなくて、『健闘』を祈っているところが姉らしくて、笑った。
恋にだけ、いつも臆病だった。彼女は。
『待っていても、幸せは来ないのよ?』
ーーーそんな口癖を持っていたくせに。こと恋愛になると、姉はいつも、息を殺していた。度重なる失恋が彼女を臆病にさせたのだ。
(よかった。そうか、出会えたんだ…)
おれは嬉しくて、この気持ちをなんて言葉にして返そうかと思案した。
いつも失恋しては傷付いて泣いていた、僕の最愛の姉。美人で、強くて、聡明で、格好いい、僕の姉。同性愛者だと言うことだけが唯一、まるで神様が与え[[rb:給>たもう]]た最大にして最強の試練のようだった。
『おめでとう』
この溢れる喜びを何て表現したらいいかと考えてみたけれど、しかし、行き着いたのは結局、そんな短い言葉。でも良いのだ。ありったけの想いを込めたから。きっと、返ってくる『ありがとう』にも、色んな感情が溢れて集約されているはずだから。また、ゆっくり話そう。そう思う。
それから、思い出して、更に短い文字を付け加えた。
『おれも、頑張る』
おれも、頑張るよ。
カタンコトン、揺れる電車に身を委ねて目を閉じた。
網膜の裏で、叶がこちらを見て、笑った。
『酔っぱらいに尻を触られたので、今晩、おれのアパートに来て下さい』
新着メッセージに、「なにぃっ?!」とつい、大きな声が出た。バンッと机を叩いて、勢いよく立ち上がる。
職場で大注目を浴びて、「あ、すみません…」と遠くへ行ってしまったキャスター付きの椅子を取りに行き、座った。
(………………落ち着こうか)
ドックドックと煩い心臓をトントンといなすように叩いて、ふぅーっと息を吐いた。
深呼吸。
何食わぬ顔を取り繕って、パソコン画面を見た。……けど直ぐに、手元に置いたスマホ画面に目を向けた。
『酔っぱらいに尻を触られたので、今晩、おれのアパートに来て下さい』
何度見ても、そう書いてある。
それから、いつだろう?と考える。
だって、芳樹がちゃんと彼の見守りをしていたのに……。
「あ、」
ひょっとしたら、あの日かも。
僕の心はすっかり此処には無くなってしまっていた。
僕は思い出す、あの日の事を。
◇◇◇◇◇
いらっしゃいませー!と言われたが、直ぐに踵を返して店を出た。
「あっ!ちょっと!」
後ろから聞こえたその声は、店の人間のものではなくて、一緒に店に来た芳樹のものだった。
「叶ちゃん!」
呼び止める声がする。
足早に店から離れていく僕の後ろで、着いてくる足音がした。
「叶ちゃん!待てって!」
腕を捕まれて、立ち止まる。
厭に煩い蝉達が、また僕を嗤っているようで嫌になる。むしむしと暑い夕方だ。どちらの汗と無く、捕まれた腕が湿る。
振り返る僕に、芳樹は腕を掴む手を離した。その顔を見て、「何?」と顔を歪めて嗤った。
「店、入んないの?何?さっき話してた男に嫉妬したとか?」
ならかなり重症なんですけど?と続く。
彼は知らないから、と今度は僕が芳樹を嗤う番だった。
「…………シュウヤ君には、ずっと前から好きな人がいるんだ……」
秋夜君の想いを簡単に人に話すのは良くないことだけれど、何も知らない彼につい、打ち明けてしまった。
脳裏にこびりついているのは、カウンター越しで仲良く話す秋夜君と敦也君の姿。幸せそうな、楽しそうな、秋夜君の横顔。
見たことの無い顔だった。あの、階段の途中で見た顔と同じ。あどけなくて、少年のようで、それでいて、何かとても大切なものに向けている、優しい顔。
だから僕は、背を向けた。ぎゅっと捻り潰されそうな心臓の痛みに、もう、どうしようもなかった。
通勤用の鞄に付けているキーホルダーが、カチャリと音を立てた。
うん、それで?
しかし聞こえた声に耳を疑って、その声の主を見た。
「それで?だから?叶ちゃんが秋夜の事を好きなのと、なんか関係ある?」
「…………」
芳樹は随分と涼しい顔をして言う。
僕ら、同志じゃなかったの?ーーー僕は裏切られた気分になってムッとした顔をしてしまった。
「………僕の片想いなんだなってこと。結局」
「…………なにそれ、本気で言ってる?」
芳樹も同じように、怒った顔になる。
僕は内心首を傾げた。…本気も何も、本当のことじゃないか。
「望み薄なの知ってて近付いたくせに、急に臆病になるってのは…女々しくない?何がしたいの、叶ちゃんは」
「………」
芳樹の眼光に、僕はたじろいだ。
夏の暑さに、こめかみを伝った汗がアスファルトに落ちる。暮れなずんだ空はまだ茜色で、僕達の影をはっきりと映した。落ちる雫が涙のように見える心配がなくて、安心した。
「………期待するのが、怖いんだよ。…わかんない?」
「全然わかんない」
若い芳樹は容赦ない。
別に興味ないけど、彼は今までどんな恋愛をしてきたのだろうか。同性を好きになったのは初めてなのだろうか。始めこそ冗談で「彼女」と呼んでいたはずの秋夜君のことを、本当に好きなのだと気が付いた時、どんな想いだったのだろうか。
「芳樹にはわかんないよ」
「当たり前じゃん。じゃあ、叶ちゃんに、俺の気持ちわかるの?」
なんて幼稚なやりとりなんだ。…自覚はあった。
「叶ちゃんの気持ちはわかんないけど、一つだけ、確かなことがあるよ。教えてやるわ」
「……」
ふんぞり返って言う芳樹が気に入らなかったが、続く言葉が気になって黙る。
「秋夜のキーホルダーは、クマがコーヒー飲んでるんだよ」
「え」
ままならないその想いを八つ当たりに、芳樹に対してイライラとしていた感情が、スーッと引いていく。
それって、と声にならない声が零れると、芳樹が首を頷かせた。
「………どういう意味を持つのかは、本人に聞けよ。でも、少なくとも、叶ちゃんがそう言う風に距離を取るのは、今の秋夜はまるで望んでないことだと思うけど?」
「……………」
僕の思考回路は停止していた。
しかし芳樹が「じゃ、俺、帰るわ」と続けて歩き出すので、ハッと金縛りが解ける。
「よ、よしきっ…………!」
去っていく彼はこちらを振り返らずに、ヒラリと手を挙げた。
どちらが大人か、わかったものじゃない。
彼の心をもっと、僕の方が慮るべきだったのだ。
◇◇◇◇◇
しかし、その後も結局、秋夜君とは話ができていない。
一先ず、敦也君がいる時に呼び出すようなことはすべきではないと思っていた。
じりじりと、待った。夏の暑さに焼かれながら。日々を過ごした。
初めて、大人に夏休みがないことに感謝した。多忙に任せれば、直ぐだ。時の流れなんて。
でもああ、もう少しでお盆だ。なんとかそれまでに話が出来たら良いなと思っていたけど…。
そんな矢先に、あのメッセージである。
尻を触られた、と。
「バカじゃん、叶ちゃん。それ、『会いたいから会いに来い』って言ってるんじゃん」
いつものピーチティーを飲みながら、芳樹はいつものカウンター席に座って僕を指差した。
「バカって言うな。あと、人を指差すな」
「はいはい」
「…………」
あんなやりとりがあったのに、芳樹は何食わぬ顔で就活サポート課に来てはピーチティーを飲む。
初めは面食らったが、僕がその空気を台無しにするわけにはいかないので、僕もいつも通りに接した。
彼は既に、僕の良き相談相手になっていた。本当にどちらが大人かなんてわかったものじゃない。
大人は子供を守るべきだけど、だからと言って、大人の方が子供よりも優れていると言うわけではない。大人だって子供から学ぶものが沢山あると思っているから。僕は既に、人生の師として彼を迎えたような心持ちだった。
『俺はさ、好きな奴には幸せに笑ってて欲しいんだよね。それが、俺の“アイシカタ”なの』
あんなやりとりがあった次の日。
芳樹は何食わぬ顔でピーチティーを飲みながら、そう言った。
“好きな人が出来ました。私の幸せを本当に願ってくれるのなら、どうか探さないで。”
あの日の、彼女の置き手紙を思い出した。
ああ、芳樹の愛し方は。寂しくて、温かくて、……正しい。
けれどでも、それが果たして、本当に彼の幸せなのだろうか?
好きな人を自分の手で幸せに出来る、それこそ、幸せの最骨頂なのでは無いかと僕は思う。
『そんなのはさ、ゼイタクなんだよ。叶ちゃんはきっと、そこそこ贅沢に暮らしてきたんだろうね。不自由無く。愛情に包まれてさ。それが当たり前なんだって、思い込んで。幸せなんてものはさ、誰かにして貰うモノでも、あげるモノでもなくて、自分でなるモノなんだよ』
僕は彼の見方を変えざるを得なかった。
チャラチャラと軽そうだとか、どうせ悲恋なんて知らないんだろうだとか、そんなのは、ただの憶測でしかなくて。知らず、彼を軽視してしまっていたのだと気が付いて、反省した。
彼はきっと、僕よりも深く傷付いたことのある人間だった。
『…………悟ってるね』
だからこそ、僕は茶化すように笑った。
ほら、芳樹も同じような笑い方で『でしょ?』と返す。
『僕、今、めっちゃ芳樹のこと好きなんだけど…?ハグしていい?』
『はいはい。そう言うのは、本命にな』
『この後どう?一杯付き合ってくれない?』
『俺、未成年だから』
そんな気安いやり取りが続いて、笑い合った。
「叶ちゃん」
「えっ、あ、はい!なに?」
ハッと気が付く。いけないいけない。今日は回想ばかりだ。芳樹も苦笑した。
「全然心此処にあらずじゃん。仕事にならないでしょ」
何?また秋夜のこと?なんて続くので、「うんん。芳樹のこと」と素直に答えると、芳樹は面食らって目を丸めていた。
「君の幸せについて考えてた。本当に、それでいいのかなぁって……」
「はぁ?何それ?いいも何も、俺の幸せを勝手に叶ちゃんのモノサシで推し量らないでくれる?」
それもそうだ。
でも、だけど………。
「叶ちゃんが大嫌いなシイタケを俺が好きだと思うのと、それと同じだよ。そんな違いだよ」
「……いや、全然わかんないんだけど?」
「人それぞれ、違うだろってこと」
「………ふぅん?」
そんなもんかね。そんなもんだよ。
そんな簡単なやりとりで、再び僕は先日の記憶に引っ張られる。
『芳樹さんさ、どっちが好きなの?』ーーー密かに聞こえていたんだ。彼らのやり取りが。
『はぁ?見てわかんない?どっちもだよ』ーーー少しの迷いもなく、彼は言い放つ。
それもついこの間の記憶。
すみません、とかかる声があった。
仕事終わりの夕方。相変わらず、空はまだ明るい時分。仕事終わりに一緒にご飯しようと落ち合って、芳樹と歩いていたら後ろから呼び止められた。振り返る。
そして、僕と芳樹は目を丸めた。
『芳樹と叶、さん………で、合ってます?』
コンビニの袋を下げた青年には、見覚えがあった。その名前をつい呼んでしまう前に、芳樹が『…そうだけど』と肯定する。
『やっぱり。秋夜の友人ですよね?』
敦也君は笑った。
「昔、野球かサッカーかしてたでしょう?」とつい訊きたくなるくらい、彼の全ては僕らや秋夜君とは違っていた。夏の暑さの為に流す汗も、なんだか様になっていた。太陽のような笑い方で、なんだか眩しい。……君の、好きだった人。
『お前は?』
芳樹がぶっきらぼうな声で問う。まさか記憶に無いわけではないだろうその顔に、「面白くない」を全面的に[[rb:表情>かお]]に出していた。
『ああ、すみません。俺、秋夜の友人で、朝倉って言います。朝倉敦也』
僕達はやっと体ごと彼と向かい合った。
『この前、居酒屋に来てましたよね?秋夜がバイトしてるとこの。店に入るなり急に出ていくから、気になって』
徐ろに彼は、僕のバッグを指差した。
『それ、同じの秋夜も持ってて。もしかしたら、って思って。秋夜の“彼氏”の芳樹に、“ナンパ男”の叶さん?』
『………』
厳密には、僕のバッグに付けていたクマのキーホルダーを指したらしい。
僕らが答えないでいたのに、少しも気を悪くした様子もなく、彼はやっぱり笑う。
『そうですよね?あの、変なことを言うようですけど、…ありがとうございます。秋夜の傍に居てくれて』
『……こちらこそ、アリガトウゴザイマス。高校卒業まで、秋夜の傍に居てくれて』
芳樹が涼しい顔をして、嫌味げに応えた。
隣でぎょっとしていると、流石に敦也君もムッとした顔をしたが、しかしそれも一瞬だった。『気に触る言い方でしたか。すみません』とカラッと返す。
『でも、俺、嬉しくて。秋夜が随分変わったなって……いや、見た目とかはそのまんまなんですけど。明るくなったって言うか取っつきやすくなったって言うか…。なんかそう、楽しそうで。だから、嬉しかったんです。あなた達のおかげですよね?だから、お礼が言いたくて』
『…アサクラさんにお礼を言われるようなことは何もありませんけど?』
尚も威嚇の姿勢を崩さないでいる芳樹に、敦也君は苦笑した。困ったような顔でしかめる眉毛に、しかし、芳樹を包容する寛大な心が見て取れる。
『まぁ、俺の自己満足です。アイツ、誤解されることも多かったんで。それなのに、自分のことに無関心な人間だったから。不安だったんです。一人で全く見知らぬ土地に行くなんて。俺が守ってやれないところでどんな毎日を送るのか……。結果、杞憂になってよかった。ありがとうございます』
ああ、やっぱりこの子、眩しいな。
悔しさも感じない。自分に無いものばかりで、比べる気にもならなかった。
なるほど、この子が、秋夜君の片想いの相手かぁ…。そんなことを、改めて思った。
『…シュウヤ君は?一緒じゃないの?』
コンビニの袋を見ながら訊けば、気が付いた彼は胸の高さまでそれを掲げて、『じゃんけんで負けたんで、アイスの買い出しです』と笑う。
ああ……眩しい。青春だ……。
『今から一緒にどうですか?』
『悪いけど、これから叶ちゃんと飯だから』
素敵な誘いを間髪入れずに断って、芳樹は『それじゃあ』と身を翻した。
あ、とそんな芳樹の腕を引き、耳打ちする敦也君。
『芳樹さんさ、どっちが好きなの?』
はぁ?と芳樹の不機嫌はMAXだった。
『見てわかんない?どっちもだよ!』
敦也君に掴まれた腕を振り払って、芳樹はそのまま先へ行く。
取り残された僕はポカンとそんな彼の背中を見ていたが、やがて思い出したように簡単に敦也君にお詫びと別れの挨拶をして、その背中を追いかけた。
「叶ちゃーん。叶ちゃーん。おおーい」
「あっ!はっ!ごめん…!なんだっけ?」
またしても、芳樹の声で現実に帰る。
「…………」
じとっとした目が僕を見て、僕は「あはは」と誤魔化して笑った。そんな僕に芳樹は、ほんとに、とやがて溜め息と共に溢す。
「………今日、行くんでしょ?秋夜のとこ」
「えっ…、ああ、………うん」
そうだね、と口の中で。
不安と期待。それからやっぱり、目の前のこの青年のことを想った。
「……行くよ。でも、」
本当にいいの?
そう続く予定だった言葉を躊躇った。
違う言葉が続くと思ったのだろう、芳樹はそんな僕に苦笑した。弱気な僕の背中を押すように、優しい声音で言う。
「叶ちゃんってさ、自分に関する事だと、ほんと、鈍いよね」
ピーチティーの入っていた紙コップはいつの間にか空になっていて、芳樹は「ご馳走さん」と立ち上がる。
「じゃ」
それをゴミ箱に捨てて、彼は就活サポート課を後にした。
僕はその背中を、今度は追い掛けない。やがて物陰に隠れて見えなくなるまで、見送っていた。
ピンポーン。
自分で押したくせに、インターフォンが出した音に、ああもう後戻りできない…と思った。
「此処まで来て、ほんと、女々し過ぎ!」まるでそこにいるように、芳樹の溜め息が聞こえた気がした。
程無くして、ガチャリと玄関の扉が音を立てて開いた。
中から、秋夜君が招いてくれる。相変わらず、綺麗な顔立ちをしている。久し振りの正面からの彼の顔に、ほぅ、と息を吐きそうになった。
「どーぞ」
「お、お邪魔します…」
荷物を取りに来た時には大体、車の中で彼を待った。駐車場から、彼の部屋に明かりが灯るのを見ていた。三階の角部屋。部屋の中に入るのは初めてだった。久し振りの会話と言うことも相まって、僕の心臓は先程からドキドキと煩い。平静を装うのが大変だ。…装う必要なんて、無いのかもしれないけど。
「…元気だった?」
「まぁ」
勧められるままダイニングの座布団の上に座ると、秋夜君は台所に行く。どうやら、飲み物を用意してくれているらしかった。僕は正座をして、膝の上で拳を握った。
「…全然、連絡くれないから」
「…尻を触られなかったので」
秋夜君らしい返しに苦笑する。少し、緊張が解けた。
「…触られたんでしょ?」
「嘘ですよ」
知ってる。
でも、なんでそんな嘘を付いたの?
『バカじゃん、叶ちゃん。それ、『会いたいから会いに来い』って言ってるんじゃん』
芳樹の声がする。
期待と不安。
臆病でダサいよね、僕。……心の中で、芳樹に言った。「本当に。女々しくて、ダサい」。心の中でさえ、芳樹はそう言って笑った。
「どうぞ」と運ばれたアイスコーヒーを一口飲んだ。訊かなくても、ブラック。シロップもミルクも用意していない。そんなところが、こそばゆい。
(…………ああ、好き…)
ほら、溢れてしまう。
些細なことから、沢山。自分では止められない。好きが、溢れてしまう。
君と居たい。
君と結ばれたい。
君に触れたい。
好きになって欲しい。
そんな、どうしようもない欲が。
溢れて溢れて…。
胸が苦しい。
「…………なんで、泣いてるんですか?」
「え」
どうやら溢れていたのは涙だったようだ。
「あ、これは……」
「………」
「また君に…………秋夜君に、会えたから……」
その後、起こったことに脳みその処理が追い付かなかった。
秋夜君の整った綺麗な顔が近付いてきた、と思ったら、唇に柔らかい感触がした。
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