第3話 シャンプーの香りに紛れて、君の残像を見た



「叶(かなえ)」


 彼女が僕の名前を呼んでいる。

 ああ、またこの夢か。

 僕は少しだけ、哀しくなって笑った。

 心が弱くなるといつも見る、明晰夢。

 君が、僕の名前を呼ぶ。

 あの日のことを、夢に見る。




 夢を叶える、と書いて、「かのう」じゃなくて「かなえ」なんだね、と彼女は笑った。初めて出会った時だ。

 普段は美人な顔立ちが、笑うと少し幼く見えるところが好きだった。付き合いが長くなった今でも時々、この話題になる。彼女は僕の名前を好きだと言っていた。


「なんか、必死だよね」

「そう?」

「『かなえッ!』…じゃなくて、祈ってる感じなのかな?」

「さぁ?」


 願うように指を組み合わせて、片目を閉じてこちらを窺う様はなかなか器用だな、と思いつつ、ホワイトソースが焦げないように木ベラを動かした。

 夢の中なのに、僕は“今”の意識で動けない。過去の記憶をなぞるように、僕は“あの時”のままに同じ言動を繰り返す。だから、続く言葉に耳を塞ぎたかったのに、それが出来ない“僕”は無防備に、予期しない言葉を再び聞く羽目になる。


「ねぇ、私ね、…私達ね、別れない?」

「え」


 手が止まる。驚いて、彼女を見た。

 彼女は少しも申し訳なさそうな顔をしていなければ、冗談だと笑う準備もしていないようだった。


「急にどうしたの?」

「急だと思う?」

「……」


 何か怒らせる事をしただろうか。

 記憶を巡らせてみても、この交際は驚く程順調だった。ケンカなんて、したことがなかった。穏やかに流れる時間を、二人で愛していた。

 唯一。

 あるとすれば、付き合っても未だに身体を重ねた事がないと言うこと。

 でも、それを彼女が望んでいるとは思わなかったし、僕もそういう行為よりもキスをしたり手を繋いで買い物をしたりする時間の方が好きだった。

 僕達は順調だった。…はずだ。

 少なくとも、僕はそう思っていたし、彼女の事が心から愛おしかった。好きだった。


「………嫌いになった?」


 思い当たる事がなくて訊けば、彼女はやっと表情を崩して、困った顔をした。


「…………私、同性愛者(ビアン)なの」

「え」

「貴方は、バイセクシャルだって打ち明けてくれたよね。ごめんなさい。私は、貴方に打ち明けることが今まで出来ないでいた」


 私の恋愛対象は女性なの。

 静かな声は広いリビングに響いて、何かが焦げた臭いがした。ああ、ホワイトソース。と思ったが、手遅れだった。火を止める。白から色を変えたそれは、もうどうにも施しようが無くて、そのまま放っておくことにした。そんなことよりも、今は僕達のことだ。

 言葉を探してみたが、何と口に出していいのかわからない。

 僕の事は?今までの時間は?好きじゃなかったの?何だったの?僕は長い間、勘違いをしていたの?

 頭の中でぐるぐると言葉が渦巻いているのに、どれも口から出ていかないでひたすら頭の中を巡回した。


「……ごめん。貴方の事、好きになれると思っていた。………し、好きだった。けどそれはやっぱり、恋愛にはならなかった…みたい」

「……」

「ほら、叶って綺麗な顔をしてるじゃない?雰囲気も柔らかいし。なんか、好きだなぁって。叶なら、大丈夫なんじゃないかなぁって……私、」

「……」

「……………ごめんね」


 僕を傷つけないように選ばれている言葉は、しかし的確に僕を傷付ける。彼女の気まずそうな空気が、胸の深いところまで抉る。

 ああ、結局。愛していたのは僕だけだったのか。

 愕然とした。目の前が真っ暗になって、これが絶望と言うんだな、と冷静な僕が思った。ああ、彼女を。幸せなこれまでの時間を…これからを。失ってしまうのか。そう、思った。

 しかし、まだ若かった僕は諦めきれなかった。彼女を愛していた。…そして、自分の幸せには彼女が必要なのだと思っていたのだ。だからこそ、彼女だって他でもない僕の手で幸せにしてあげられるのだろうと。


「…もう少し。もう少しでいいから。チャンスをくれない?君を幸せにしてみせるから……」

「……………」


 彼女はきっと、否定的なありとあらゆる言葉を僕の為に…または自身の罪悪感の為に、飲み込んだのだと思う。

 いつも強気で、どちらかと言えばつり上がった感じのある眉毛がハの字に下がった。「仕方無いな」と、或いはそんな風に思ったのかもしれない。


「…………そうだね。急だったから…。わかったよ…」


 ほっと胸を撫で下ろす。

 シチューはやめて肉じゃがにしようか、と焦げたホワイトソースを捨てた。話をいつもの、取り留めもない会話にすり替えた。

 また、あの幸せな日々が日常になりますように。そう、願って。ーーーけれど、僕はこの先の結末を知っている。

 そんなやり取りの後、僕達はやっぱり「いつも通りに」とはいかない。歯車が噛み合わなくなれば、どうしたってそれはもう上手く回らなくなるのは至極当然の事で。

 程無くして、書き置きと共に彼女は消えた。


“好きな人が出来ました。私の幸せを本当に願ってくれるのなら、どうか探さないで。今までありがとう。ごめんなさい。”


 僕達が過ごした日々は。年月は。

 そんな四文でまとめられていた。

 僕は呆然として、けれど、涙なんて溢れ落ちなかった。

 わかっていたから。この恋は、もう終わっているのだと。……いや、始まってすら、いなかったのだと。

 彼女は美人で可愛くて、そんな見かけによらず、サバサバと男らしくて、気が強くて…。

 そんなところが、好きだった。

 しかし、この数週間でそんな彼女らしい彼女の姿を見た記憶はなかった。何処かぎこちなく、時に殺伐と。作ったように、笑う。

 だから、居なくなった彼女にショックを受けたりしなかった。白状するならば、どちらかと言えば、ホッとしたのだ。それよりも胸に刺さった事は、『私の幸せを本当に願ってくれるのなら』と言う一文だった。

 僕は思い知った。

 僕が大切にしたいと思う人を、必ずしも“僕”が、幸せにしてあげられるとは限らないのだーーー…と、言うことを。





「ん」


カーテンの隙間から差し込んでくる朝日が眩しくて、目を覚ました。最近、日が昇るのが早い。

 時に有り難く、時に残酷なことのように感じるのだが、一日はいつだって二十四時間で、朝は必ずやって来る。


「………」


 月曜日。

 秋夜君は一コマ目から授業があるので、急いで準備をして、彼のアパートまで送らなければならない。

 そうしたらもう、きっと、それっきり。

 僕は寝起きの頭に身を任せて、暫く、ベッドの上に上半身だけ起こしてボーッとした。想うのは、彼の事。

 一目惚れだった。彼の事が、好きだった。

 知れば知る程、好きになった。

 綺麗な顔立ち。長い睫。黒い髪。華奢な体。意外とハスキーな声。ボーッとしてるところ。スティックシュガーを二本入れてまでコーヒーを飲むところ。手先が不器用。笑うと可愛い。朝、僕の為にコーヒーとパンを用意してくれたところ。…全部好き。

 想えば想う程、好きが溢れる。どうしようもない。止められるものではない。ずっと一緒に居たい。居て欲しい。

 朝起きて、コーヒーの香りを嗅ぎながら「おはよう」と言って、一緒に朝食を食べる。それから、まるで新婚の夫婦のように「いってらっしゃい」「いってきます」のやり取り。たまに、一緒に車に乗り込む。隣で君は、まだ眠い目を擦る。夜は、家に近付くと見えるリビングに灯る明かりに、君が待っているのだと高揚する。「ただいま」と言えば、「おかえりなさい」と返ってくる。一緒に台所に並んで、ご飯を作る。他愛の無い会話。取り留めもない会話。それさえも、宝物のように愛おしい。一緒に「いただきます」をして、テレビを観る。食後は順番にお風呂に入る。風呂上がりの火照った体にまだしっとりと濡れている髪は、何度見ても僕をどきっとさせる。それから、コーヒーを淹れてまた、テレビを観る。二人で何でもない時間を共有する。程無くして二人並んで歯磨きをして、二階に上がる。「おやすみなさい」と別れる。

 そしてまた、朝が来て。君に「おはよう」と言う。その、繰り返し。

 君に出会ってから気がついた。『大桐秋夜』と書いて、“シアワセ”と読む。

 君が好きだ。ずっと、この日常を『当たり前の毎日』にしてしまいたい。



 けれど、でも。



 彼の感情は彼のものだ。彼の日常も。これからの未来も。全部、彼だけのものだ。

 大人な僕が、まだ学生の彼の心を縛っていいはずがない。

 この思い出を胸に、生きていくのだ。

 “今”はいつか、“過去”になる。

 彼とこの、一ヶ月と数日。僕はとても幸せだった。

 それでもう、いいのだ。


「おはよ」


 リビングに降りるともう彼が居て、ソファーの傍には大きなトートバッグが置かれていた。この家に居候するにあたって運んで来た荷物達が詰め込まれているのだろう。……本当に、帰るのだ。


「おはよう。今日は、電車で行くから」

「…そんな荷物を持って?」


 僕は苦笑した。


「送るよ。最後まで頼ってよ。そんな荷物抱えてたら目立つし、彼女にフラれて追い出されたのかな?とか思われるよ」


 秋夜君は顔を歪めて、少し考えている風だった。フラれたと思われるのが不服と思うような性格では無いだろうから、注目を浴びるのは確かに避けたいなと思ったのかもしれない。


「………」

「………甘えてよ。最後くらい」


 最後くらい、と彼は小さく繰り返した。

 土曜日同様に、トーストの薫りとコーヒーの香りがして、僕は自然と微笑んだ。…哀しく翳っていたりはしないだろうか。ちゃんと、背中を押せる大人でいなければ。


「パン、ありがとう。コーヒーも。…食べよっか?」


 コクン、と首が縦に一度動いて、僕達はキッチンへ行きそれぞれの朝食をダイニングテーブルまで運んだ。


 どうして急に帰るなんて言い出したのか?ーーー彼のバイトが決まったから。そういう約束だったから。

 では何故、彼が突然バイトを決めたのか?ーーー僕が、彼の心に踏み込み過ぎたのだ。


 答えは明確だ。

 しくじったなぁ、と思った。

 また、ひょっとしたら、バイトが決まったってこのまま此処に居続けてくれるかもしれない…と淡い期待を持っていたことを思い知る。

 何と無く、上手く行っているような気がしていた。

 彼の見せる表情が、どんどんと豊かになってきたから。少しずつ、気を許してくれているんだと。……それはきっと、勘違いではない。

 時々、ひょっとして彼も僕の事を……?と思った。

 莫迦みたい。そんなわけはない。

 希望過多にそう見えただけ。

 初めて出会ってから見てきたから、知っている。彼には別に、好きな人がいる。芳樹と似ている人だろう。時々、芳樹を愛おしそうに見詰めるくせに、それは芳樹本人には向いていなかったから。

 ああ、また。片想いだな。ーーーそう察するのは、早かった。


「………あのさぁ、僕、シュウヤ君の『秋夜』って名前が好きなんだ…」

「………」


 なに突然?とこちらを向いた顔が語っていた。トーストを咥えたままの視線が先を促しているように感じて、僕は続けた。


「秋の夜、でシュウヤ。素敵な響きだよね。詩的で。とっても好き」

「…………」


 もぐもぐと彼は先程大きくかぶり付いたトーストを咀嚼していた。この話に特に続きはなくて、それを飲み込んだ後、「そうですか」といつもの調子で彼は言うのだろうと想像した。


「…………おれも、『カナエ』って名前、好きですよ」


 だから、その返答には少しだけ、驚いた。


「……そう?」

「はい」

「……じゃあ、今後は『さん』も無しで、そう呼んでくれない?」

「…いいですよ」


 僕はやっぱり驚いた。

 彼の目をまじまじと覗き込んでしまったが、そこに正解が書かれているわけではない。彼の真意がわからない。

 彼は、「何を考えているかわからない」とよく言われるらしいが、「何も考えていない」が大体正解だった。大体、流されることを好む。好きでそうなんじゃなくて、楽だから。それでも、呼び捨て呼びに承諾したのには、何か意思を感じてしまった。


(………また僕の、“期待”なのかもしれない)


 彼女と交わした口付けのように。それには何の、意味もないのかもしれない。

 やったぁ!と普段の僕なら笑っただろうが、胸が痛んで、話題を変えることにした。


「…………もうすぐ、夏休みだね」

「はい」

「その前に、テストだね」

「そうですね」


 「夏休みはどうやって過ごすの?」それと無い会話。「さぁ?バイトですかね」それと無い返答。

 地元には帰らないの?と言いそうになって飲み込んだ。きっと、地元にいるのであろう、彼の想い人の事を思う。

 地元からこんなに遠くの大学に来たのだ。特に何かに特化したところの無い、こんな田舎の大学に。偏差値が低過ぎるわけでもない。なら、察するに、秋夜君は既にフラれている可能性があった。それでなくとも、物理的に距離を取らなければ限界な程の想いがあったのだ。触るべきでは無いだろう。

 ……ああ、本当に。土曜日の自分の失言が悔やまれる。


「ご飯は、ちゃんと食べてね」


 水も飲んでね、と続けると、彼は苦笑した。苦笑ですら、ひたすらに美しい。絵になった。ほぅっと溜め息が零れそうになる。


 時が止まればいいのに。


 そう思った。

 でも、進む。カチコチと、部屋の時計が音を立てて知らせる。目に見えないくせに、確実に時間が進んでいることを。


「………行こっか」


 御馳走様をして、二人で流し台に食器を運ぶ。僕がさっと洗い物をしてしまっている間に、秋夜君が歯を磨く。先に荷物運んでてね、と声をかければ短い承諾の返答があった。僕も遅れて歯磨きをしに洗面所に行った時には、秋夜君は玄関に移動していた。

 玄関を出てから、雨が降っていることに気が付いた。そう言えば、天気予報も雨だと言っていた。


「………雨かぁ…」


 小さくぼやいた。

 雨の日は、電車で通うのが僕の中での決まりだった。

 けれど、彼と暮らすようになってからは、どんな日も車を使っていた。……それも今日で終わりかと思うと、言葉には言い表せない想いに胸が締め付けられた。


「………カナエ…?」

「あ、うん」


 叶、と呼ばれて、ドキリとした。

 彼は生活力皆無で不器用なくせして、適応能力が高い。そんな風に突然、呼び捨てで違和感なく呼べるものだろうか?ついさっきまで、「叶さん」と呼んでいたのに。

 僕は玄関に鍵をかけて、秋夜君が待つ車に乗り込んだ。


「そう言えば、バイトって居酒屋だったよね。あの、大学の近くの」

「はい」

「お尻とか触られないようにね」

「………」

「酔っぱらいに絡まれるの……心配だなぁ…」

「………」


 エンジンをかけながら、いつもの軽口。いや、本心だけど。

 こんな美人が居酒屋でバイト?不安でしかない。当然だ。相手は酒を飲みに来ているのだ。大学近くの店だからと、女子大生との出会いに期待して敢えてそこを選ぶ不届きな輩も多いだろう。


「………そう言えば、叶、お酒は飲まないの?」


 叶、と呼び捨てになったからか、漏れなく敬語も消失していた。そちらの方が良かったから、それについて指摘はしなかった。


「あー。まぁ、嗜む程度にはね。…今度飲む?オススメのバーとか、連れていってあげようか?」

「………まだ未成年です」

「勿論、二十歳になってからね」


 秋夜君は終始、外を眺めていた。

 すっかり見慣れてしまったであろうこの風景に、彼も感じるところがあればいいなぁなんて、想う。

 あっという間に彼のアパートの前に着く。車で十五分。近いものだ。でも、歩くには遠い。駅は大学とは反対の方向だ。彼は今後、僕の家には来ないだろう。改めて、そう思った。


「…それじゃ、また。……元気で」

「はい」


 名残惜しさを残してはいけない。

 いつものように、僕は車から降りずに窓だけ下げて声をかけた。彼もいつも通りだ。まるで今晩も、帰宅すれば彼が待っていてくれるのではないかとすら思う。

 パラパラと降る小雨が、少しずつ彼の髪を濡らした。

 唯一違うことと言えば、彼がなかなかアパートの階段を上らなかったことだ。車から降りたまま、こちらを見ている。


「………シュウヤ君?」


 今度は僕が、首を捻りながらその名前を呼ぶ。


「………もう、行きますよ」

「うん」

「………今日からもう、そちらへは行きません」

「……うん」


 最後だから改まっているのだろうか。

 彼は少しだけ、もじもじとした。何故か少し、怒ったような顔をしている。何かを言いかけて、辞めた。何か言葉を選んでいるようで、待った。やがて「ありがとうございました」と声が零れた。考えていたはずのどの言葉も、結局は飲み込んだらしかった。…なんだったのだろうか。気になる。


「いーえ。また、何かあったら連絡して。…何もなくても」


 でも、訊かない。


「酔っぱらいに尻を触られたら、報告します」

「なるほど。殴り込みに行くよ」


 僕達は少しだけいつものように笑って、どちらともなく「それじゃあ」と手を振って別れた。

 秋夜君のアパートから大学までは車でほんの数分だ。僕はその数分間で、彼と出会ってから今日までの事を、何度も思い返していた。





 帰宅すると、当然だが家は真っ暗だった。

 いつの間にか明かりの点いた家に帰るのが“当たり前”になっていたのだなぁ、と寂しさや虚しさを感じながら思い知る。


「………」


 玄関の鍵を開けて電気を点けた。

 一人で暮らしていた時は、家に誰も居なくとも「ただいま」と言っていたのに。今日は言葉が出なかった。「おかえりなさい」と言う言葉が返ってこない事を、まだ実感したく無かった。


「あれ?」


 リビングの電気を点けて、ソファーの前にあるローテーブルの上にラッピングされた物が置いてある事に気が付いた。続けて、芳樹に感謝の品を買ったという秋夜君の言葉も。


(………忘れてたのか……)


 持っていこうか、と思ってから、いやいや、迷惑だろと考えを改めた。

 電話してみようか、と思ってから、ああそうか、今ぐらいはバイトだろうな、と思い留まった。

 『秋夜君、プレゼント、忘れてる』。ーーーそうメッセージを入れようとして、先にメッセージが届いていたことにやっと気が付いた。


『リビングに置いてあるの、叶にだから』


「えっ」


 思わず声が出た。

 暫く、スマホ画面とプレゼントを交互に見比べて、やっとそれを手に取った。飾りの赤いリボンが“感謝!”とプリントされたシールで留めてあった。

 出来るだけ丁寧に包装されているテープを剥がして、開けてみる。

 チャリ、と音がして、出てきたのはキーホルダーだった。四ツ葉のクローバーが押し花されて閉じ込められた横で、クマのイラストがコーヒーを飲んでいた。


「………………可愛過ぎか」


 ついまた、声が溢れた。

 何この、プレゼントのチョイス。大学生男子が選ぶもの?……可愛過ぎかっ!

 はぁーっと、溜め息が出た。脱力して、そのまましゃがみ込んだ。


 “此処に居て”。


 そう言っていたら、彼はなんと返事をしただろうか。

 “バイトなんてしなくていいよ。僕が養うから”。ーーーそれは、ダメだ。彼をダメにしてしまう。大人のすることではない。教育に携わる者が、子供が育つ為の事をまず一番に考えなくてどうする。


「…………はぁ、もう。好き…………ほんと、好き」


 また息を吐く。

 心が満たされていく。恋だ。これは完全に、恋だった。知ってる。

 君にとってはたったこれだけのことで、僕がどれだけ幸せに満たされてしまうかなんて、君は知らないんでしょう?

 …胸の中の秋夜君に問い掛ける。勿論、返事はない。

 僕はのろのろと立ち上がり、キッチンに立った。エプロンを着けて、冷蔵庫を開ける。

 まさか、バイトが決まって、本当に巣立ってしまうなんて。それがこんな、直ぐだなんて。思わなかったから。いつものように、日曜の午前中に買い物に出掛け、一週間分の食材を買っていた。本当は今日は気力もなくて、他に食べてくれる人もいないのでお総菜にしたかったが、冷蔵庫がパンパンなのを思い出してスーパーには寄らずに真っ直ぐ帰宅した。

 まるで失恋してしまったみたいだな、と苦笑した。

 当たり前だったはずの何もかもが気怠くて、そこかしこに彼との想い出が映る。

 キッチンから彼がソファーに座ってテレビを観ているのを見るのが好きだった。けれどいつの間にか、隣で並んでご飯を作るようになった。幸せな時間だった。


 幸せで楽しかった日々。


 つい、今朝まで一緒だったのに。もう遠い昔のようだった。

 一人でご飯を作って食べるのは、なんだか自作自演のようで味気無かった。風呂は湯船を張らずにシャワーで済ませ、髪を適当に乾かしてから、リビングでは寛がずに直ぐに二階に向かった。


「………」


 つい、秋夜君の使っていたゲストルームに足を踏み入れた。

 彼は掃除も下手くそだったけど、教えればちゃんと出来た。不器用なのは経験値の問題で、教えればちゃんと出来るのだ。彼は、ひょっとすると思っているよりもずっと器用なのかもしれない。

 部屋はとても綺麗に片付けられていた。使っていたはずの机には何も無くなっていて、ゴミ箱にすらゴミ一つ入っていなかった。ベッドはしっかりとメイキングされていた。


「………」


 彼が居たという形跡が一つも見付からなくて、本当は全部、僕の都合の良い夢だったのではないかと思った。

 ボフン、と倒れ込むようにベッドに身を任せた。

 枕から、ふわり、とシャンプーの香りに混ざって、彼の香りがして、「あ」と思った。


「…………」


 確かに、此処に居たんだなぁ…。

 そう思うと、涙が出てきそうになった。


「……………『好き』だって、伝えたら…良かったかなぁ…」


 まさか。

 これまでにも、何十回も何百回も「好き』だと口にしていたけれど。軽口に乗せて溢す「好き」だったからこそ、彼はそれを軽口で受け止めてくれていたのだ。

 本気なんて知ったら、どうだろう。

 いや、本気なんてのはとっくにバレてしまっているだろうけど、改めて告白していないから、彼だって当たり前に此処に居てくれていたのだろうと思う。


 未来ある彼を、縛ってはいけない。……という、建前。

 本当は、怖い。……これが、本音。


(………今日は此処で寝させて。ごめんね、赦して…)


 心の中の彼に赦しを乞う。

 気持ち悪い、だなんて彼は言わないだろうけど。ほんのちょっと、引くかもしれない。君の残り香に縋るような、ガチ過ぎる僕の事を。

 残念な大人だなと、冷ややかな目で見るかもしれない。まぁ………、


(……彼には、知る由も無いんだけどさ………)


 その晩も夢を見た。

 それは、朝、起きたらまだ彼が居て、また僕の為にトーストとコーヒーを準備してくれている夢だった。

 おはよう、と僕は堪らず抱き締めてキスをした。

 唇を離せば、彼はまるで花が咲いたかのように、幸せそうに、ふわりと微笑んだのだった。






 秋夜君から何の連絡もないまま、大学は夏休みに入った。

 秋夜君は大学一回生であっても、いつの時でも大学四回生という人達が居るのが常で、僕の方もまあまあ仕事は忙しかった。

 就活サポート課に飲み物を飲んだり話をしにやってくる顔ぶれは決まっていたが、普段見ない顔も増えていた。まだ就職先が決まらないと、焦って泣き出す生徒まで居た。

 学生が夏休みであろうと、社会人に夏休みなんてないのは当然で。多忙に任せて、僕からも連絡はしないでいた。

 連絡先を渡した時も、そう。

 大人の僕から連絡してしまうと、返信を義務化してしまうようで嫌だった。それと、気持ちが溢れて止まらなくなってしまいそうで、怖かった。

 『ありがとう』とだけ、返信した。キーホルダーのプレゼントに対して。

 既読が付いて、それっきり。

 彼は就活サポート課にも姿を見せなかった。

 時折、彼の姿をキャンパス内で見掛けたが、声はかけなかった。連絡を取らないのと同じ理由だった。元気そうにしていて、それなら何よりだ、と思うに留めた。


 共に過ごす前よりも、僕達は離れているようだった。


 あんなに、しつこいまで絡んで口説いていたのに。今ではそれさえしていない。一度拒絶されると、もう、怖くて動けないのだ。僕は、そんな臆病な人間なんだ。ほんとは。


「叶ちゃーん、喉乾いたぁ~」

「芳樹。此処、カフェとかじゃないんだけど?」

「知ってる。此処、タダだもんな。カフェと違って」


 にまっと悪戯に笑う彼、芳樹は、わりとよく顔を出した。こんな感じにだが。

 ドリンクバーを飲んで、雑談して、帰っていく。入学してからそのようなスタイルを作るまでが早かった。ちゃっかりとしていて、世渡り上手な人間なのだろうと思う。


「いつものー」

「自分でいれてねー」

「ケチー」


 就活サポート課の職員達の席と隔てるカウンターの一番端で、芳樹はゴロゴロと机に突っ伏した。やがて、よいしょと席を立ち、ドリンクバーでいつもの紅茶を入れてから紙コップを持って戻ってきた。

 いつでも元気!って感じの学生なのに、なんだかいつもより足取りが重い。


「何?元気ない?」

「…金がない」

「バイトしたら?」

「してるけど」


 そう言えば、カラオケ店でバイトしているって言ってたっけ。記憶を辿る。やはり、わりと早い段階から既にバイトを決めていた。『大学生』を謳歌しているな、と思ったから記憶にある。沢山のピアスを開けていてチャラチャラした見た目の彼と、未だに髪すら染めたことがないであろう秋夜君が一緒につるんでいるというのは、なかなかに不思議な組み合わせだなぁと思っていた。

 今ではもう、芳樹の面倒見の良さを知っているので不思議には思わないが。


「どしたの?なんか、ハマった?」


 大学生がバイトしていてもお金がないなんて言うのは、親からの仕送りがないか、何か散財していることくらいしか考えられなかった。それか、彼女。

 芳樹は前者では無かったし、彼女も居ない。ならば、何かにコンスタントにお金を使っているのだろう。ゲームの課金。パチンコ。タバコ。お酒。……なんだって、自由だ。


「……………ハマってるちゃ、ハマってる………」

「うん?」


 歯切れの悪い物言いに、僕は首を傾げる。なんだろうか?オンナノコかな?ガールズバーとか?でも、彼はまだ未成年だ。


「…………秋夜がバイト始めたの、知ってる?」


 その名前にドキリとしながら、「知ってるよ」と平静を装った。


「大学の近くの居酒屋なんだけどさ。……分かる?彼女が居酒屋で働く、彼氏の心境ッ…!」


 わっ!と泣き出すように、彼は大袈裟に顔を両手で覆った。それは勿論演技だったけれど。内心は本当に穏やかじゃないのは、よく分かる。


「あいつ、美人じゃん?時々、めっちゃ可愛いじゃん?初見は女にしか見えないじゃん?居酒屋って酒飲むじゃん?酔っぱらいばっかじゃん?あいつ結構、ボーッとしたところあるじゃん?ーーーダメじゃんッ!」

「………えーっと、」


 言ってることはよく分かる。

 けれどそれが、芳樹が何故金欠かという話にどうやって結び付くのだろう、と思案した。


(秋夜君の事が心配→様子を見に店に行く→当然、飲み食いする→心配なのでシフトの度に行く→飲み食いする→金欠)


 あ、これか。

 成程なと頭の中で手を打てば、芳樹もご名答!とばかりに自白する。


「心配で通ってるんだよ~…!もう金がねぇよー………ッ!」

「………ぞっこんだねぇ」


 あ、「ぞっこん」なんて死語だったかな?僕は苦笑した。

 いや、だって!と芳樹は熱く続ける。


「おれだって、別に、フツーの彼女とかツレならさ、こんなに心配にはならないよ?!でも、秋夜だぜッ?!心配になるじゃん!」

「わかるわかる」


 本心だったけど、芳樹には適当にあしらっているように聞こえたらしい。


「叶ちゃんまでなんか冷たいッ!えっ?!俺達、同志だったじゃん?!叶ちゃんも秋夜の事好きだったじゃん!」


 好きだった、と言われてギクリとした。

 こっそりと深呼吸をして、なるべく平静に、言葉を紡ぐ。


「待って。芳樹、まさかそれ、お酒?」


 笑いながら、芳樹の持つ紙コップを指差した。


「んなわけないじゃん。ピーチティーだよ。因みに、俺も[[rb:通常運転>シラフ]]なんだけど?」

「マジか。なかなか重症だね」


 僕はやっぱり苦笑する。

 知らない間に芳樹は随分と吹っ切れたようだ。振り切れた、という方が表現としては正しいか。過保護に磨きがかかっている。


「はぁ~。今晩も秋夜が心配だよ~。でももう、金がないよ~。叶ちゃん、貸してぇ~」

「ダメ。無理。返ってくるアテが無さそう」

「うっわ、世知辛!じゃ、今晩は俺の代わりに秋夜を、見守って~…」

「……」


 あいつ、直ぐ絡まれそうになるんだよな。まぁ俺が睨みを効かせてるんだけど。そんな風にちょっと誇らしそうにぐだぐだと話している芳樹の言葉は、もう右から左だった。

 今晩…行ってみる?いや、僕の意思ではない。芳樹に頼まれたから…。そんな言い訳が出来た。


「………なぁ、叶ちゃん」

「うん?」


 うーんと悩んでいると、徐ろに芳樹が口を開く。


「俺さぁ、秋夜から『おはようコールありがとう』って、キーホルダーを貰ったんだよね…」

「………へー」


 入学したての頃からつい二ヶ月程前までは秋夜君が一コマ目のある日は欠かさずおはようコールをしていた、と話す。うん、知ってるよ。と心の中で相槌を打った。


「秋夜さぁ、六月上旬辺りだったか…そこらでさ、急に『おはようコールはもう大丈夫』って言うんだ。そんでさ、あいつ、大学の近くに住んでるのに、電車で来てる日とかあって」

「………」


 どんな結末に辿り着くのか図りかねて、僕は下手に相槌を打たずに話を聞いた。


「訊いてみたらさ、あいつ、『彼女』って言うんだ」

「えっ!」

「あいつ、彼女と同棲してたらしいんだよね」


 へー、と。平静を保って言ったが、そわそわと落ち着かない気持ちが上手く隠せたかわからない。

 嘘だったのだろう。けど、それでも[[rb:自分>ぼく]]の事を『彼女』と言っていたのかと知ると、つい頬が緩んでにやけそうになってしまった。

 ハッと気付けば、そんな僕の顔を芳樹がじっと観察していた。


「…………あのさぁ、…秋夜の『彼女』って、叶ちゃん?」


 じっと見詰める視線をそらせない。

 僕のどんな変化も見逃さないように。芳樹は鋭い眼光で僕の瞳の奥まで覗き込む。


「…………違うよ」


 やっと絞り出した声。

 狡い答えかもしれないけど、本当の事。僕は彼と付き合ってはいないから。彼女?と訊かれたら、ノーでいい。


「……………ふぅん?」

「…………」

「………でも、好きだよな?」

「…………」


 [[rb:黙>だんま]]りかよ、と芳樹は険悪な顔をするが、一瞬だった。


「まぁでも、別れたらしいしな」

「………そう」

「そうそう。それとさ、俺のキーホルダーは本物の四ツ葉のクローバーが押し花みたいにされててさ、隣のクマのイラストはカラオケしてるんだよね。叶ちゃんのは?」

「えっ」


 その訊かれ方は、僕がそれを持っていると確信している風だった。

 見られたのだろうか…?

 確かに、通勤用の鞄に付けているけど。朝は学生よりも早く出勤し、夕方はやはり彼らよりも遅くに退勤する。見られるような機会なんて、無かったはずだ。

 なんと答えたらいいのか図りかねて、やっぱり答えられないでいると、芳樹が長い溜め息を吐いた。また黙りかよ、とどちらかと言えば呆れた風に言う。


「……別に。いーんだけどさ。叶ちゃん、なんか変わったよね。前はもっと面白かった。なんか、最近冴えないよ。つまんない。大人になるのって、つまんなそうだね」

「………ナマイキ言うなよ」


 僕はやっと、その大変失礼な学生に軽くゲンコツをした。あいてっ!と言う声音はいつものふざけた芳樹のもので、ほっとした。


「………今晩、お前の彼女の様子見に行ってやるよ」

「………あ、そう?じゃあ、宜しくね」

「うん。あと、クマのキーホルダー。可愛いよね。大学生男子が選ぶプレゼントかっ?!ってチョイスがツボだよね。萌えた」


 芳樹はキョトンとしてから、やがて眉毛を下げて笑った。「やっぱ、叶ちゃんなんじゃん」と言うその表情は、困ったような哀愁を帯びたようなそれで、どこにも敵対心のようなものがなかった。







 結論から言うと、僕はバイトしている秋夜君を客として見守る事が出来なかった。

 いや、正確には、彼は今日、シフトを変更してお休みを取っていた。店に入って、バイトの子が教えてくれた。店に入ったからにはと、少しだけ飲み食いをしてから店を出た。

 体調でも崩したのだろうか…と、その足でアパートに向かう。

 そして、見てしまった。


(あ……、)


 車から降りて部屋まで向かう階段の途中。前方から声がすると思ったら、秋夜君だった。


「突然来るから…。ほんと、何も無いよ…?」

「知ってる知ってる。お前が生活力皆無で毎日カップ麺ばっか食べてる事も」

「………野菜炒めくらいなら出来る…」

「へぇっ?!凄いじゃん…!マジで?」

「…………おれの事なんだと思ってるんだよ、[[rb:敦也>あつや]]」


 二人仲良く並んだ肩。

 秋夜君が、見たことがないような顔をして笑っていた。

 その、顔。会話。声。

 全てを持って、分かる。


(……………この子なんだ………)


 僕は階段を上る足を止め、気が付かれないようにゆっくりと距離を取り、下った。


『僕が大切にしたいと思う人を、必ずしも“僕”が、幸せにしてあげられるとは限らない』。


 再び、思い知る。

 ああ、彼のーー秋夜君の想い人は、“敦也”君と言うのか。

 また、僕じゃない。


 知ってた。


 嘲笑うように、蝉の音が煩い夜だった。

 汗に張り付く髪が、鬱陶しい。

 僕はのろのろと車に乗り込み、エンジンを点けて真っ暗な家へと帰ることにした。








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