第2話 君との日常は、いつもコーヒーの匂いから始まる。


「それじゃ、いってきます」

「いってらっしゃい」


玄関の取っ手に手を掛けて振り返り、小さく手を振る叶(かなえ)さんを、おれは手を振らずに見送った。


金曜日の午前。

おれは三コマ目からなので、朝、叶さんを見送った後、叶さんの家でだらだらと過ごして昼食を食べてから、ここから徒歩十五分の駅に向かって歩き、電車で大学に通った。

午前の授業からある日は、早朝、一緒に家を出てアパートまで送って貰い、アパートから大学へ通った。

結局あれから一ヶ月。

おれはまだ、叶さんの家に居た。



あの日。

帰ってくるなり叶さんはこう言った。



「帰りたかったら、いつでも帰っていいからね。はい、合鍵」


帰りたい、とは、この家の事を指すのかおれのアパートの事を指すのか……文脈からは読み取れなかった。

取り敢えず、合鍵は受け取らないことにした。少し渋るかと思った神城(かみしろ)さんは、しかしあっさりと元あった引き出しの中に合鍵(それ)を仕舞い込んだ。


「薄々気が付いていると思うけど、この家には僕しか居ないから。気にせず自由に使ってね。……これは提案なんだけど、取り敢えず、バイトが決まるまでと言うのは、どう?」

「バイト?」

「お金、無いんでしょ?」

「………意外です」


何が?と訊かれて、「神城(かみしろ)さんはもっと、おれを甘々に甘やかすのかと思ってました」と素直に答えた。どうやらおれは、傲っていたらしい。この人は、おれを手元に置いて養いたいと思っているのかな?と思っていた。「面倒を見る」なんてのは世間に融通の利く建前で、本当はおれを愛でる為に、その手元に置いたのではないかと。


「おれの顔、好きでしょ?」

「好きだけどねっ!いや、だからこそ、ダメ人間にしたらダメじゃん?」

「………なるほど」


過去にも、おれを養いたい系お姉様方に出会ったことがある。ちやほやとおれを甘やかし、何でも与えてくれた。おれはおれで、与えられるものは何でも甘受した(語弊あり)。

でもどうやら、神城さんは違うらしい。

おれは、おれの中での『神城さん』を少しだけ訂正して上書き保存することにした。

この人は、大切な人をちゃんと、自分が居なくても生きていけるように導くタイプのようだった。ーーー…と言うことは恐らく、今晩、おれが処女(?)を喪失することも無いだろう。


「晩御飯だけど、唐揚げでも構わない?」


言って、神城さんがキッチンに向かった。シャツの上からエプロンを着け、先程キッチンに置いたエコバックから鶏肉を取り出したのには、目を丸めて驚いた。


「えっ?作るんですか?」

「えっ?そうだけど。……もしかして、凄くお腹空いてた……?お総菜の方が良かった?」

「いえ………。唐揚げは、揚げたてが一番です。けど、料理、出来るんですね…」


意外?

会話をしながらも、神城さんはテキパキと鶏肉の下処理を済ませ、ポリ袋に何か調味料を複数入れてから鶏肉を入れ、揉んだり振ったりして馴染ませ、絡めていく。


「一人暮らしが長かったからね。一通りのことは一応出来るよ。どう?嫁に」

「……おれより背の高いオンナノコはちょっと…」

「そこ、気にするんだ?シュウヤ君て、拘りがないのかと思ってた」

「おれにだって、プライドくらいありますよ」


ギャップ萌だねぇ、なんて言われて、だからそのギャップ萌ってなんだ?と思っていると、「座ってなよ。直ぐだから。テレビ点けて観てて」と声をかけられる。頷いて、素直に従うことにした。けれど別に、テレビ番組に明るくないので、点いたままにそれを観るでもなく見ていた。

普通こんな状況では、どんな態度をするのが的確なのか。

おれはと言えば、ふかふかのソファーの背もたれに体を委ねて、すっかりリラックスモードだ。


「待ってる間、何してたの?」


油の跳ねる音がする。続いて、唐揚げの香ばしい匂いが鼻を突く。

なんだか実家にでも帰ってきたような既視感がした。

けれど目に写る光景は馴染みの無いもので、違和感。続いてそれは、『居心地の良い場所』の記憶に書き変わる。


「んー…別に。ぼーっとしていました。あ、コーヒーとお菓子を少し、貰いました」

「ああ、うん。全然いいよ」


恐らく流し台を見て、「洗い物してくれたんだね。ありがとう」と声が続いた。

程無くして、「さあ!ご飯だよ!」と声がかかる。「配膳くらい手伝いますよ」と言い掛けて振り返れば、既にダイニングテーブルの上には料理が並んでいた。……この男、出来る……。

いつの間にか米も炊いていたようで、テーブルには白米、味噌汁、唐揚げにサラダ。ひじきの小鉢まで並んでいた。ちゃんとバランスを考えられていることが一目瞭然だった。

神城さんが座った席の向かい側に座った。手を合わせて、「いただきます」をする。

唐揚げを一口食べて、広がるスパイスの味と香ばしさに驚いた。プロか?…主婦??


「……『お母ちゃん』って呼んで良いですか?」

「えっ?!シュウヤ君て、お母さんを『お母ちゃん』って呼んでたの?!」

「いえ、違いますけど」


だよね!それは似合わないよ!と、神城さんはぷるぷると震えながら笑った。あ、そこは「ギャップ萌」じゃないんだ?

はー、笑った。と目尻の涙を指で拭きながら、神城さんは「どちらかと言うと」と口を開く。


「『叶(かなえ)』って呼んで欲しいんだけど?」

「…………」


返事に悩んで無言になってしまったけれど、当の神城さんは返答を待っている風でもなく食事を再開していた。なのでおれも、再び唐揚げを掴み、口に運ぶ。

あ、この芸人、面白いんだよ。と、テレビはいつの間にかバラエティー番組を映しており、おれ達はそれを観ながら他愛もない会話をして過ごした。


すっかり晩御飯を平らげてしまって、キッチンに食器を下げる神城さんに「洗い物くらいやりますよ」と声をかけると、「先にお風呂に入っちゃって」とやんわりと断られた。


「今度があるなら、次は頼むよ。今日は安静にしてて」

「…はい」


お言葉に甘えることにした。正直、洗い物もどうしてもやりたいってわけでもないし。やらなくていいなら、そっちの方がいい。それくらいするべきかな?と思って声をかけただけだった。

そんなことよりも、風呂、と言われて着替えがないことに今さら思い当たった。どうやら神城さんも同じことを思ったらしく、「あ」と声が零れた。


「……………着替え、無いね。どうしよう?明日取りに行く?今からでもいいけど…」


明日、と言われて、「あ、連泊は決定事項なんだ?」と思ったけど、口にはしなかった。暫く何も口を開かず悩んでいると、神城さんがにやりと笑った。


「それとも、貸そうか?パンツ」

「……………」

「あ、ちょ、冗談!うそ!嘘だからっ!そんな冷たい目で見ないでッ………!」


その慌てっぷりが可笑しくて、おれはつい、ぷっと吹き出して笑ってしまった。


「…うっわ…!なにその破壊力、……やば」


それに何故か赤面して、神城さんは固まった。


「なんですかそれ?」

「笑った顔も一段とお綺麗デスネ」

「そりゃどーも」


直ぐにいつものように冗談めかしく、何故かロボット調で言う神城さんに、おれも気軽に返答した。


「“叶さん”て、本当におれの顔好きですね」

「いや、顔だけじゃなくて、全部す…………えっ?」


また目を丸めて、おれの顔を凝視し、固まる。先程から全然、洗い物が進んでいない。

ややあって、ボッと、叶さんは先程よりも、その真っ白な肌を真っ赤に染めた。耳まで真っ赤だった。


「……………なにそれ、破壊力、……やば」

「叶さん、さっきから語彙力がヤバイですよ」


おれはやっぱり可笑しくて、ああなんだか彼をからかうの癖になってしまいそうだな、なんて悪戯心に思った。



それから一ヶ月。

存外に心地好くなってしまったこの家に、おれは遂にアパートへ帰るタイミングを見失っていた。

勿論、今日こそは帰ろうかな、と思った日もあったが、そんな時は決まって「今日の晩御飯は唐揚げです!」とか「今日はステーキ丼にしようと思うんだけど、どう?」とか、連絡が入る。そうしたらやっぱり、叶さんの家に向かってしまう。

電車に揺られながら、(………叶さん、なかなかの策士)といつも天晴れと思う。


おれの完敗だった。


すっかり、胃袋を掴まれてしまっていた。

………だって、それにほら。晩御飯の連絡をしてくれているのに、「行きません」「要りません」なんて、悪いじゃないか……?






最近、秋夜が変だ。

芳樹(よしき)は深刻そうな顔をして、打ち明ける。

周りの二人はキョトンとした顔を見合わせた。


「おはようコール、しなくていいって言うんだよ…」


続く芳樹の言葉に、「なんだ」「そんなことか」と笑う。本命出来たんちゃう?浮気か?と好きずきにからかいの声をかける。芳樹はムッとした顔で「滅多なこと言うなよ」と、苛立ちを隠そうともしない。


「なにお前、ガチなの?」


翔(しょう)がやはり冷やかすように、黒渕メガネの向こうでにやにやと笑って訊けば、芳樹は少しだけ沈黙し、「んなわけねぇだろ」とぼやいた。「いや俺、秋夜となら……ヤれる」「そう言うこと言うなよ」「オレは秋夜だろうと、男はパスだな」「…いや、だからな…」そんな下品な会話が続く。


「はーん?さみしーんだ?俺が慰めてやろうか?」


 大成(たいせい)が改めてにやにやとからかえば、芳樹は「アホなこと言うなよ」と低い声で応える。「何マジになってんの?俺もヤだよ」と大成は興が冷めたとばかりに真顔になった。「秋夜ならイケるけど」と続く時も真顔で、芳樹は更に眼光を鋭くさせて大成を睨んだ。


「まぁまぁ。あ、噂をすれば」


不穏になった空気をいなして、翔がその姿を見付けて手を大きく挙げた。


「秋夜ーっ!こっちこっちー!」


大講義室は人も多くて、友人を見付けるのにも苦労する。翔の声に気が付いたおれは、小走りに三人の元に向かった。


「ギリギリじゃん」


文字通り大きく育った長身の大成が、何故かにやにやと笑いながら声をかける。


「あ、うん。ちょっと電車遅れちゃって…」

「えっ?電車?」

「えっ?あっ…」


しまった。

おれの借りているアパートは大学から徒歩十分のところにある。どう頑張っても、電車とは縁がない。

皆が一様にキョトンとおれを見ていた。おれは内心冷や汗をかきながら、どんな嘘がそれっぽいだろうかと目を泳がせた。


「………やっぱ、彼女できたの?」

「え、」


芳樹が何故か不貞腐れたように、そっぽ向きながら言う。

その手があったな、と思いつつ、嘘でも叶さん(かれ)を「彼女」と言うには少し抵抗があった。


「あー……うん、…その、」


「友達」と言えば「誰?」となるのは目に見えている。大学では彼等としか行動を共にしていない。親戚が近所、なんて嘘も怪しすぎる。


「……………そう、彼女、…です」


結局、その嘘が適切な気がした。

ヒューッと大成が口笛を吹いて、「あらら」と翔が困った顔をした。芳樹はやっぱり、どこかツーンと他所を向いている。


「………芳樹?」

「あー…、まぁ、芳樹の事は気にするなよ。お前にフラれて、ちょっとさみしーんだって」

「フラれてって…」

「別に。俺ら、ガチで付き合ってたわけじゃないし」


芳樹は尚も不機嫌そうな声が気になったが、講義開始のチャイムが鳴り、話はそれきりになった。






「明日さ、ちょっと遠出して買い物でもしない?」

「………欲しいもの無いので、おれはいいです」

「えーっ!デートしようよぉ!デートぉっ!」

「…………」


隣で魚に切れ込みを入れていた手を止めてこちらを振り向いた叶さんは、眉をハの字に下げて懇願するような顔でおれを見た。甘えるような声が耳に残る。

叶さんの中性的な顔立ちと同じで、その声もどちらとも取れる中性的なものなので、こんな時の声はまるで本当に“彼女”に甘えられているような気になる。

おれは野菜を洗う手を止めずに、その顔をチラリと横目で見てから「うーん」と考える。何となく、嘘とは言え「彼女」と言ってしまったのが、少し気まずかった。

男だと知っているから男にしか見えないけれど、相変わらず肩にかかる程の髪を一つに縛っているところも、捲り上げたシャツから覗く細い腕も、白い肌も。女に見えなくもない。まぁ、女にしては背が高いかな。モデルと言われれば、頷くしか無いけれど。


「…二人で出掛けるなんて、危なくないですか?誰かに見られたら、咎められません?」

「え?そう?なんで?」

「なんでって…」


確か教師とかは、特定の学生と親しくしてはいけないとか…なんかそんな決まり無かっただろうか?

おれの疑問を察したようで、「ああ」と叶さんは魚を煮込み始めながら続けた。


「別に、僕、厳密には教員じゃないし。問題ないんじゃない?まぁでも、一応、近所は避けるけどさ……」


そう言っている叶さんの顔が今日の芳樹の顔と被って、首を傾げた。

結局、訊けずじまいだったけど。何故、芳樹はあんなにも不機嫌そうにしていたのだろうか…?おれ、なんか悪いことしたかな。


(…ああ、おはようコール。いつもしてくれてたのに、これと言って感謝を表した事がなかったな……)


そうだな、何か、感謝の品でも買うとしようか?


「まぁ、叶さんがいいならいいですけど。今、ちょっと欲しいものを思い付いたので、行きましょう。明日」

「えっ!?やったぁ!」


今にも跳び跳ねそうな勢いで、叶さんは喜んでこちらを振り返る。鍋から生姜と出汁のいい香りがし始めていた。コンロからスキップするように洗い場まで距離を詰め、おれが洗った野菜を受け取る。

キッチンで並んで料理をするようにはなったが、包丁は未だに使わせて貰えない。何でも、見ていると心臓が止まりそうになるくらいにおれの包丁さばきは危なっかしいのだとか。

叶さんの手によって、トントントン、とリズム良く刻まれるそれは、まるで魔法か何かのようだと。いつも少しだけ魅入ってしまう。

じっと見詰めていたら、トマト洗ってくれる?と指示があり、頷いて冷蔵庫に向かう。


(………まぁ、バレてヤバイって言うなら、そもそも、此処におれが居候してる事こそバレたらヤバイよな…)


薄々は気が付いていた。いつだってチラリと考えてはいた。

けれど、叶さんはその事に関して何も言ってこない。…ので、おれも気が付かないふりをして来た。

それでも、午前に講義がある日は早朝に移動するし、アパートに荷物を取りに行く時は深夜に叶さんが車を出してくれるか講義後にこっそりと取りに帰り、知った顔に出会わないか気にしながら、その足で駅に向かった。

おれも叶さんも、人目を気にしてこの生活を続けていた。勿論、一緒にスーパーで買い出しをしたことなんてない。叶さんが仕事帰りに買って来るか、やっぱり叶さんが、日曜日にまとめ買いしてくれていた。


(……………バイト、探さないとなぁ…)


『取り敢えず、バイトが決まるまでと言うのは、どう?』


あの日の、叶さんの声がする。


(……バイト決まったら、この家を出ていかないと……な…)


チクリ、と小さな痛みを感じた。

痛みと言うよりは、すっかり居心地の良くなった此処を去ることを想像して、哀愁が先立ったのかもしれない。

流水でトマトが歪んで映る。


「いつまで洗ってるの?もういいよ」


苦笑混じりに、叶さんの声がする。


ーーーーー『もういいよ』。


そのフレーズだけが、耳に残る。

トマトを渡しながら、やっぱりおれの心が何処かに行ってしまったようだった。

おれのバイトが決まったら、叶さんはどんな顔をするんだろう?どんな言葉を紡ぐんだろうか…?

おれの言葉で一喜一憂する癖に、今まで付き合ってきた誰とも彼は違っていた。おれの事を愛でて可愛がる為に近付いて来たオネエサマ方からも。だから時々、よくわからなくなる。叶さんのことが。その、本心が。

もういいよ、っていつか。

じゃあね、バイバイ。って。

彼は簡単に、おれを手放すんじゃないだろうか?

『僕の役目はもう終わったから。君はもう、一人で大丈夫だね』そう言って。

叶さんはおれの事を好きだと言うけれど。

でも改めて告白された事は無かったし、そもそも、彼のおれに向けた眼差しはいつもどこか温かくて……まるで本当に、母親のそれのようだったから。

こんな想いを抱いているのは、おれだけなんじゃないのかなって……………………………“こんな想い”?


(……えぇっと………なんだっけ…?)


そう、“寂しい”だ。

叶さん、おれがこの家から出ていく事になったら、…寂しい?

訊いてみたかった。


「さっ!ご飯も炊けたね!じゃあ、お茶碗によそって貰ってもいい?」


ボーッと考え事をしていたおれに、叶さんはぐいっとしゃもじと茶碗を渡す。おれがボーッとしているのは、大体いつもの事だから。特に疑問に思うことも無いのだろう。


「………叶さん」

「ん?」

「おれ、……バイト、そろそろちゃんと探しますね」


なに急に、と苦笑して、「というか、まだ探してなかったんかーい!」と明るい声で突っ込まれた。


「………」


おれは黙って、二人分のご飯をよそった。





次の日。

朝起きてリビングに降りたら、まだ叶さんが降りてきていなかった。

おれにしてはいつもより早起きだったが、叶さんが起きていないと言うことはないだろう。自室で本でも読んでいるのかもしれない。

おれは顔を洗って歯磨きしてから、叶さんがいつもそうしてくれるように、食パンを二枚、トースターにセットして、二人分のコーヒーを淹れた。

やがて、トントントン、と階段を降りる音が聞こえる。

 髪を結わえながら、叶さんがリビングに顔を出した。休日なんだから下ろしてたらいいのに、と思った。髪を下ろしている叶さんは、いつもより少し大人びて見えて、ちょっとどきっとする。…実際、大人なんだけど。


「おはよう。今日、早いね」


それだけで目を丸めていたのに、コーヒーの匂いと食パンの香ばしい薫りがして、叶さんは更に目を丸めた。「え」と音もなく口が開く。


「………シュウヤ君が……、コーヒーを淹れてくれて………食パンまで…ッ……」


目頭を抑えて天を仰ぐ姿なんかは大袈裟で、おれはちょっと面白くない。


「………おれにだって、それくらい出来る…」


ごめんごめん、と叶さんは直ぐにいつもの顔をする。表情を綻ばせて、笑う。とても大切なものを見るような優しい眼差しだ。


「嬉しいのは、ほんと。ありがとう」


ところでその顔、めっちゃ可愛いね?

指で頬をつつかれて、おれは何だかむず痒くなって飛び退いた。


「逃げなくても。ほっぺ、歯磨き粉付いてるよ?」

「えっ」

「ふふ、可愛いなぁもう。後は僕がやっておくから、洗っておいで」

「…………」


ちょっと恥ずかしく思いつつ、洗面所に向かい、鏡を見る。確かに頬に白い歯磨き粉が付いていた。再度顔を洗いリビングに向かえば、丁度、叶さんがおれ用のコーヒーの準備をしているところだった。

コンロからジューッと言う音が聞こえて、フライパンにソーセージと目玉焼きを追加で用意してくれていることが分かった。


「パン、バター塗ったから持って行ってくれる?」


そう言いながら、叶さんはおれが淹れていたコーヒーにスティックシュガーの二本目を入れて、マドラーでかき混ぜていた。


「…………」

「………シュウヤ君?」

「あ、はい…」


出会った頃、叶さんが初めて用意してくれたコーヒーの事を思い出していた。

就職サポート課で、スティックシュガーとミルクを貰った。その時は、スティックシュガーは一本分だったのに。今ではもう、言わなくとも二本入れてくれる。

そりゃ、此処が居心地が良くなるわけだな、と苦笑してしまった。

二人でコーヒーを飲みながら朝食を食べて、並んで歯磨きをしてから、玄関に向かう。


「あ、メガネ忘れた。取ってくるから、先に車に乗ってて」


車の鍵を渡されて、「やっぱり朝、読書してたんだな」と確信した。叶さんは、運転の時と読書の時だけ眼鏡をかける。

助手席に座ってシートベルトをすると、程無くして叶さんが運転席に乗り込んできた。


「さっ!デートデートっ!」


ともすれば、鼻唄でも歌い出しそうである。


「ご機嫌ですね」

「そりゃあ!もう!」


叶さんのテンションと共鳴するように、大きな音を出してエンジンがかかる。

おれは昨日、あんまり寝られなかったって言うのに…。この人は。

にこにこと笑う綺麗な顔立ちの横顔。おれは暫く、隠しもせずにまじまじと見詰めてしまった。

ちょっと恨めしく。

ちょっと、嬉しく。





「いやー。ホイップクリームたっぷりのイチゴパフェ×シュウヤ君、たまらんね」

「…………何が」


一通り買い物を済ませ、目についた喫茶店でお昼を食べた。食後のパフェを一掬い口にすると、叶さんはそれをまじまじと見守りながら徐ろに口を開いた。因みに、叶さんの食後のデザートはおれがパフェを頬張る姿らしい。


「美人男子とホイップクリームたっぷりのイチゴパフェの組み合わせ、たまらん。萌える」

「………そうですか」


本当にこの人、おれの顔面大好きだな。

ちらっと、もし此処におれの姉が居たなら叶さんはどちらに目を惹かれるのだろうか、と思った。まるで一卵性の双子のように、そっくりなおれの姉。


(…………ま、姉ちゃんが叶さんを好きになることなんて無いんだけど)


叶さんが姉の方に惹かれた場面を想像して、だけど直ぐに姉から冷めた目を向けられる叶さんを想像した。姉は同性愛者である。男を好きになったりしないのだ。だからもし今、偶然に姉と遭遇したって安心である。


(…………ん?“安心”…?)


「………」

「ん?どうしたの?食べないの?」

「……食べますけど……」


なんだか、最近のおれ、おかしくないか?

パフェをスプーンで掬っては、次々と口に入れながらモヤモヤと考える。

こんなの、……まるでおれが叶さんの事を好きみたいじゃないか。

いやいや、そんな。だって、まさか。

おれは今まで異性としか付き合ってきた事が無かったし、好きだったのだと気が付いた敦也も、別に同性だったから恋愛対象だったと言うわけではない。敦也は例外で、おれが好きなのは女性…………の、はず…。

それでも、歴代彼女の誰の顔も思い出せない。そうだった。好きだと言われたから付き合っただけ。「付き合って欲しい」と言われたから、「うん」と言っただけ。「私の事、好き?」そう訊かれたら、いつも返答に悩んでしまっていた。「私のこと、たいして好きじゃないんでしょう?」いつも決まってそう言って去っていく。彼女達に、引き留める言葉を持たなかった。…引き留めたいとも、思わなかったけど。



「おーい?シュウヤ君?どしたの?」


また、パフェを食べる手が止まっていた。

叶さんは流石に首を傾げて、おれの目の前でひらひらと手を振った。


「なんか昨日から、いつもに増して心此処にあらずじゃない?」

「………そうですか?」

「そうですよ?」


ふむ、と叶さんは何か思案するような顔をしていたが、「そう言えば」と口から出たのは今日の話だった。


「何買ったの?プレゼントって言ってたけど、誰か誕生日?」

「え、ああ。芳樹に。アイツ、付き合い始めてからは一コマ目に授業ある時は毎朝、おはようコールして起こしてくれてたんで。そう言えば、お礼をしてなかったなと思って」


「付き合い始めて」なんて語弊があったなぁ。と思いつつも、フォローするのも変かなと思ってそのままにした。やはり叶さんは「『付き合い始めて』、ね」と拾う。


「そう言えば、付き合ってたっけ?君たち」

「何、噂に踊らされてるんですか?」

「はははっ!ごめんごめん」


叶さんは本当に可笑しそうに笑って、一口、コーヒーを飲んだ。…叶さんはなかなかのコーヒー中毒者だった。叶さんと言えばコーヒーで、コーヒーと言えば叶さん、と言うくらい。この二つ(?)は既にセットになっていた。

おれもパフェを食べる作業を再開する。好きなはずなのに、今日はあまりその味を楽しめない。


「……君が好きなのは、別の人だもんね」

「え」


再開したパフェを食べる作業が、三度、中断される。

叶さんは暫くコーヒーカップを眺めていたが、やがて視線を上げておれを見た。

それでも続く沈黙に、周りの雑談やカラトリーが食器に当たる音などを耳が拾う。今まで気にならなかったのに、騒々しいとすら思う。同時に、おれ達だけが沈黙し制止しているこの現状に、まるでおれ達二人だけがこの空間から切り離されてしまったのかと錯覚する。

洋風な店内に洋楽のBGMが、まるで現実味を帯びていなかった。

ゆっくりと、叶さんが口を開く。


「………芳樹に、似てる人。僕の知らない人。………高校の、同級生と見た」


違う?と笑う。

微笑んでいるのに、どこか悲しげなその顔に、胸が何故だかチクリと痛んだ。


「…………」


なんて返すべきだろうか。

思案したが、おれの口は一向に開こうとはしなかった。


「…………」


叶さんもそんなおれをじっと見るだけ。

BGMがI love youと歌って、ああラブソングだったんだ、なんて場違いな事を思った。違う。頭を働かせろ。なんか言わないと。


(……………何を、焦ってるんだ。おれ)


「……………でも、……おれの、片想いだったから…………」


 あんなに考えていたのに。

 口に出たのは、そんな言葉。

 違うだろ、もっと、何か……別の言葉を口にするべきだったはずだ。


「うん。わかるよ。…君を見ていたら」


 やっぱり、彼は何処か寂しそうに笑った。





 帰宅してから、おれは急いで求人情報を調べた。

 あの後、気が付けばおれ達はいつも通りに軽口を叩いては笑っていた。けれど、ほんの一握りにでも違和感があれば、それはいつまでも胸に残って、まるで白紙に落ちた絵の具のように染み広がって行った。


 もう、此処には居ない方がいい。


 そう思った。

 気まずさと、ままならないどうしようもない感情が苦しかった。適切な距離に戻りたかった。

 叶さんの、寂しそうに笑う顔を見たくなかった。

 そんなことを想うおれの感情の落ち着きどころが、わからなかった。

 「求人情報を見て…」と電話をかければ、事はトントンと進み、翌日に面接をして、その日の内に晴れて、バイト先が決まった。大学近くの居酒屋だった。


「…………バイト、決まりました」


 内心、ドキドキとしながら。固く握った拳の中に汗を隠して、そう言った。

 晩御飯の時に、と思ったけれど結局言い出せずに。二人とも風呂を終えて、何と無く点けたテレビをソファーに並んで観ていた。そろそろ寝ようかと、叶さんがソファーから腰を浮かせた時、やっと、口から出た。


「そっか」


 なんて言うだろうか。

 どんな顔をするのだろうか。

 おれの不安に反して、彼は笑った。


「おめでとう」


 それは翳りの無い笑みだった。心からの言葉だった。

 ズキッと、無視できない程の胸の痛みに、おれの方が顔を歪めてしまう。


「…おれのアパートの方が近いんで。明日からは、もう、…アパートに帰ります」

「そう」

「…………おやすみなさい」

「うん」


 静かだった…。

 叶さんは、とても穏やかに返事をした。

 もう本当に、叶さんがわからない。

階段を駆け上がる。ポツポツと、まるで雨粒のような雫がフローリングに落ちる。

 知らず、溢れてしまった涙(それ)が何の為の物なのか、おれはわからないふりをした。






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