雨の音、それからコーヒーの香り。

将平(或いは、夢羽)

第1話 日常が変化する時は、いつも、雨の音がする。


完全に迂闊だった。


「………ごめん、」


なんで謝るの?と、彼は訊く。

涙で濡れた瞳は少し扇情的で、おれはぎくりとした。

なんて不器用な口付けだっただろうかと、反省した。


「………順番が、逆になっちゃったから」


おれは『なんで?』の問いに答える。


「おれ、お前のこと……………多分、もう好き。……凄く、好き……………かも」

「かも、って…」


彼はふにゃりと、顔を崩して笑った。

嬉しい、と紡がれた言葉の後、またおれ達は唇を重ねた。







失恋をしたのは高校生活が最後になる三年生の、夏。


「俺さ、彼女が出来たんだ」

「えっ」


幼稚園からの腐れ縁。

常に隣に居た敦也の、突然の告白に。

おれは自分の本心を知ったと同時に失恋した。


「………だからさ、これからは…彼女と帰ったりとか…すると思う。今日は、彼女と帰るわ……」

「……………そう」


外は雨が降っていた。

朝、傘を持ってくるの忘れたなぁと気が付いたけれど、『敦也に入れて貰えばいいか』と思っていた。だけどどうやら、今日は頼りに出来ないらしい。

テスト期間中の放課後は部活動も無いので、取り残されたようにおれ達二人だけになった教室には、雨の音だけが響く。


「………待ってるんじゃないの?行ったら?」

「あ、おう。…お前なぁ、『おめでとう』とか…無いの?」

「……オメデトウ」

「おい!カタコトっ!」


敦也はそんなやり取りに笑って、じゃあ、とリュックを漁って、取り出したそれをおれに手渡す。


「帰るわ。はい、傘。どうせ、今日も忘れたんだろ?」

「…………ご明察」

「じゃ!気を付けて帰れよ!」


片手を挙げて、去っていく彼の姿が教室から見えなくなるまで見送った。


ザーッ。

雨の音だけがする教室。

今度こそ、おれだけ。

おれだけが、まるで世界から取り残されてしまったような錯覚に、右手に受け取った折り畳み傘だけが酷く現実味を帯びていた。


「………傘なんて、」


彼がずっと差してくれていた、二人で肩を並べていた傘。自分で差して、一人で帰るのかと思うといっそ渡してくれない方が良かったのにと少し恨めしく思った。




「あ、お帰り。あれ?傘は?」

「……ん、忘れた」


姉ちゃんこそ、仕事は?と聞けば「有休よ~ん」とにんまり笑う、同じ顔。性別も違うし双子でもないのに、おれと姉はよく似た顔立ちをしていた。違うのは、性別以外には髪の長さくらいなものだ。身長ですら、似通っている。

才色兼備。文武両道。…と謳われた自慢の姉と同じ顔と言うのは、なんだか誇らしく。けれど、重い荷物でもあった。


「今日は敦也くんとは帰らなかったの?」

「…敦也、彼女が出来たって」

「あらま!念願の!」


姉はそんな気軽な会話をしつつ、ソファーに座っていた腰を浮かして洗面所からタオルを取ってきて、手渡してくれた。


「じゃあ、あんた、これからはもう少ししっかりしないとね。保育園の頃からずーーーーっと、あんたの世話役だったもんね、敦也くん」

「………」


おれが顔や腕を拭いている間に、姉はもう一枚のタオルで髪をわしゃわしゃと拭いてくれる。…ちょっと痛い。


「…別に。敦也が居なくても………、」


しかし、言葉は続かない。

ぼーっとしているとよく言われるおれの手を引いてくれたのは、いつも敦也だった。

何故かおれは異性にとてもよくモテて、そのせいでクラスの奴らによく思われない時もあったけど、それでもあっけらかんと笑って、いつも傍に居てくれたのは…敦也だった。


「……………」


黙り込んでしまったおれに、姉は敏感に何かを察したようだった。


「………………私達、ほんと、不毛よね」

「…………」

「……でも私、幸せになるの、ちゃんと…諦めてないよ」


髪を拭く手が、優しくなる。

姉は、同性愛者だった。

こんなに美人なのに。いつだって失恋しては、部屋で一人、息を殺して泣いていたのを知っている。


「…………うん」


なんて言ったらいいのかわからなくて、おれはただ、頷くことしか出来なかった。






季節は巡って、春。

おれは、県外の大学に進学した。

もともと受ける予定の無かった、地元からは遠く離れた大学だ。

敦也が地元の大学を受けると知った時、おれもそうするつもりでいたけれど。彼に彼女が出来たと聞いて進路変更した。突然、降って湧いたような進路変更に、担任も親も目を丸めて驚いていた。理由を聞かれたが、なんだかそれらしい適当なことを答えると、一応は納得してくれたらしかった。

因みに、敦也の彼女も地元の大学に進学したらしい。

聞いてもいないのに、いつも彼女の話をしてくるから、よく話したことも無い敦也の彼女の事に詳しくなってしまいそうだった。勝手に入ってくる情報が煩わしくて……やっと離れられたなって、少しほっとしている自分がいる。


大学生にもなって、入学式に親が参加するようなこともない。

ちらほらと母親と桜が咲く正門で写真を撮っている者が居たが、恐らく地元の人間だろうと思う。とても少数派だった。

入学式しか無いと聞いていたが、式が終わると、正門までの道は部活やサークルに勧誘する沢山の先輩方や引き止められた新入生で込み合っていた。


「…………」


この道通るの、嫌だな。

そう思って、人気が少ない方へ少ない方へと歩いた。

必然的に、正門からキャンパスの奥へ奥へと離れていく。


「あれっ?君、新入生?こんなところでどうしたの?」

「あ、」

「迷子?」


キャンバスの見学すらせずに受験したので、丁度いいかとばかりに校内を探索していたら声をかけられた。

全く人気の無い寂れた裏庭のような場所だったので、かかった声に不覚にも驚いて声を挙げてしまった。

振り返るおれに、しかし相手も、目を見開いた。


「わっ、すんごい美人……!」


女性のような顔立ちに、長い睫。男にしては小柄で、線の細い手足。

初対面では女性に間違われる事も多々あった。


「………それは、どーも」

「あっ、オトコノコ!」


存外に低い声に驚いたようだったが、思ったことは何でも口に出るタイプのようだ。

相手も男の癖にーー…という表現はあまり好きではないけれど、髪を肩ほどまでに伸ばして一つに束ねて括っていた。色素の薄い髪だ。肌も同じ様に色素が薄く、雪のように白い。あまり、これまでの人生では縁を持った事がない[[rb:雰囲気>タイプ]]の、物腰柔らかそうな男性だ。

ともすれば、大学の先輩かと思えなくもない、若く見える顔立ちだったが、職員である証のネームプレートが胸に光っていた。


「 神城叶(かみしろかなえ)と申します。就職サポート課の人間です」

「……………大桐秋夜(おおぎりしゅうや)です」


おれの視線に気が付いて、神城先生が先立って簡単な自己紹介をした。それに倣い、おれも名前だけの簡単な自己紹介をした。

春らしい風に、ざぁ、っと木々が囁いた。桜の花びらが舞う。彼の髪も揺れる。


「シュウヤ君、ね」


ニコッと笑うその顔は、おれにも負けず中性的なものだった。桜の背景が、よく似合う。


「迷った?良ければ、案内しようか?」

「…いえ、別に。正門周辺がめんどくさそうだったので…[[rb:捌>は]]けるの待ってるんです」

「それなら、一緒にお茶でも…どう?」


これはナンパに入るのだろうか、なんて。

ぼんやり考えてみたけど、時間を潰すのに話し相手が居ても居なくてもどちらでも構わなかったおれは、大体いつも、流れに身を委ねる。


「………いいですよ」

「やった!」


またも神城先生…?さん…?は、満面の笑みを作る。よく笑う人だ。……なんと言うか、おれには無い、華がある。

そうと決まれば、と手を取られたのには流石に少し驚いた。


「校内のカフェに行くのもいいけど、とっておきの穴場があるから。教えてあげる!」


…………なんて言って、連れて来られたのは建物内の『就職サポート課』と書かれたエリア。

沢山の企業のパンフレットが陳列されてあり、カウンターの向こうの教職員の席は見渡せるように開放的になっていた。こちら側はカフェにあるようなオシャレな机とソファーが五組程置かれ、フリーのドリンクバーまで設置されていた。

普段はどうだか知らないが、今は誰も居らず、おれと神城先生の二人だけだった。


「皆あんまり来てくれないんだよねぇ。今日なんて、特に。まぁ、タダでコーヒーや紅茶が飲める穴場だと思って、シュウヤ君は気軽に来て欲しいな!」


人懐っこい笑顔を向けられて、「なんだ、ナンパじゃなくてキャッチだったのか」と合点した。裏表の無さそうなこういう人間が、一番信用しちゃいけないのかもしれない。気を付けよう。…なんてのはまぁ、冗談だけど。

ドリンクバーに近い席は、向かいにある事務課等から死角になっていて、敢えてかどうかは知らないが神城先生はそちらの席に僕を案内した。椅子を引き、「どうぞ」と招くところも、「コーヒーと紅茶、どっちが良い?それとも、緑茶?」と尋ねるところも慣れていて、常習犯だったかと納得するのに時間はかからない。


「…コーヒーで」

「砂糖とミルクは?」

「…両方下さい」

「はーい」


使い捨てのマドラーでコーヒーを混ぜてから目の前に「どうぞ」と渡された紙コップを、素直にお礼を言って受け取った。

当の神城先生は飲まないらしく、そのまま向かいの席に腰を下ろした。

両肘を付いて頬を支えながら、少し前のめりにおれを見る。


「シュウヤ君は、地元の人?それとも、県外から?」


その姿で質問責めにする気らしい彼は、まるで女子のようだな、と思う。休み時間に前後の席でそうやって喋っている女子生徒の姿をよく見かけた気がする。


「…県外です」

「そうなんだね!何県?初めての一人暮らしってわけかー!」


あ、どーぞ。と思い付いたように勧められて、受け取ったままだったコーヒーを一口飲んだ。ああ、スティック砂糖は二本分って言うの忘れたなぁと直ぐに思ったが、然したることでも無かったので口には出さない。

何県?の問いに後れ馳せながら答えると、へぇっと神城先生は目を丸めた。


「随分と遠くから…!」

「………」

「じゃあまあ、生活の上でも、何か困ったことがあったら頼ってよ!」


「なんで、この大学に来たの?」と、当然問われるだろうと思って気持ち身構えたのだが、神城先生は笑顔でそう言い、名刺を渡してきた。


「携帯番号もアドレスも書いてるから」

「……」


やっぱりナンパだったか…?

と内心思いつつ、差し出された名刺を素直に受け取った。

どうするのがマナーなのかわからないが、取り敢えず、受け取ったそれを、置いていた紙コップの直ぐ横に置いた。


「………カミシロ先生、……さん?…は、何も飲まないんですか?」

「あはは!呼び方なんて、好きに呼んでくれたらいいよ!」


おれが首を傾げた事に笑って、「職員だからねぇ」と返答した。成程、と納得する。


「…あとどれくらいで、捌けますかね」

「そうだねぇ。もう暫くは落ち着きそうにないね。まぁ、急ぐことがなければ、ゆっくりしていってよ」

「……はい」


教授棟と呼ばれているらしい建物の一階にある就活サポート課の大きな窓からは外の様子が窺えて、正門付近には依然として沢山の勧誘する人達とその勧誘に足を止める人達に溢れていた。その様子を二人でちらりと眺めて、また正面に向き直る。

「部活やサークルに興味はないの?」から、「今日の晩御飯は何食べるの?」まで、神城先生の質問は尽きない。

おれは人付き合いも苦手なら会話も苦手だったので、正直、質問を一方的にして貰えるのは有り難い。…別に、無言を苦とするわけではないが。

不思議と居心地の良さを感じつつ、外の人だかりが疎らになるのを待った。





「っふぅ」


やっと帰宅できた部屋の中で、おれはベッドにダイブした。ぽすん、とふわふわの羽毛布団がおれの体を包み込んでくれる。


(……………疲れたなぁ……)


昼過ぎに、やっと人が疎らになっておれは就職サポート課を後にした。

「また来てね」と柔らかく手を振る神城先生の残像が、何と無く頭に残っている。「折角だから、お昼でも一緒にどう?」なんて言い出しかねないなと思っていたけれど、存外、すんなりと送り出された。

ピロン、とスマホが鳴ったかと思うと、敦也からメッセージが入っていた。


『入学おめでとう。困ったことがあったら、なんでも言えよ』


「……いや、お前ほんと、おれのなんなの…」


敦也らしいメッセージに、哀愁を帯びてフッと笑ってしまう。敦也のおれを想う気持ちは、温かくて、お節介で………そこに、友情以上の何も含まれていなくて、寂しくて。未だに…おれの胸を刺す。

ピロン、と続けてメッセージが入った。


『飛んでいくから』


「…………」


ほんと、なんなの。

こんなに、遠く離れた土地に来たのに。

離れていかない気持ちがあった。

コイツはきっと、本当に飛んできてくれるんだろうなぁと思うと……やっぱり、温かくて、泣きたかった。


『今日ナンパされた』


ちょっとだけ意地悪な心で、そう返した。

どんな反応をするだろう。…まぁ、普通に、『よかったじゃん!』とか『やるぅー!』とか…そんな感じなんだろうけど。


ピロン。


『マジか!可愛かった?』


ほら別に。

…期待したわけじゃない。

嫉妬とか…そんな感情なんて。沸くならとっくに沸いていてはず。おれはこんな感じで、受ける告白は被らない限り受けていたので…彼女が途絶えたことがなかった。高校生活最後の夏までは。

ズキッと寧ろ自分の方が負ってしまったダメージに気が付かないフリをして、返信を打つ。


『男だけど』

『えっ!?なにそれ、ウケる!女だと思われたんか!』


そこに居ないのに、でも遠く離れた地元では同じように、スマホ画面を見ておれとのやりとりを楽しんでる敦也が居るんだなぁと思うと感傷的になる。見えないのに、まるで本当に直ぐそこに居るようで。敦也が『ウケる』と言って笑う顔が浮かんだ。

まだ返信をしてなかったのに、スマホは再び、ピロンと鳴った。


『可愛い顔してるんだから、夜道とか気を付けろよ。ガニ股で歩けよ』

『なにそれ』

『不審者も、ガニ股で歩く女子には引くだろ』

『おれ、男だけど?』

『初見は女だから』

『うっせぇわ』


ふぅ、と息を吐いた。…なんか、でも。元気出た。

うつ伏せに倒れていたベッドからゆっくりと身を起こし、キッチンに向かう。

一人暮らしの物件は、不動産と電話で決めた。部屋や周辺の様子はネットで調べられたし、わざわざこの地まで足を運ぶ必要性を感じられなかったが、母親には大層怒られた。

けれど、写真よりも実際に目で見た方が綺麗な印象を受けた。内装もリフォームが行き届いていて新しく、日の光もよく入り、悪くなかった。ちょっと狭いところも気に入っている。それでも、カウンターキッチンで、バス・トイレは別。申し分ない家賃。大学からは徒歩十分。

作業台の上に置いたスマホがまた鳴って、『あらやだ!秋夜くんが反抗期…!』と敦也からメッセージが入っていたが、未読無視した。取り敢えず、返信より先に腹ごしらえだ。

…とはいえ、まさか。

料理が出来るわけも無く、買っていたカップ麺を漁る。今の気分で味を決めて、ケトルでお湯を沸かす。



『えっ?!お前が一人暮らし…?!大丈夫かよ!』


進学先を伝えた時、敦也の第一声はそれだった。

地元の大学受けるって言ってなかったっけ?は、既に二次試験の際に訊かれていた。試験会場におれの姿が無くて、バレてしまったらしい。けれど頑なに受験しているのがこんなに遠い大学であることはカミングアウトしなかった。

引っ越すから。と、数軒隣の敦也の家を訪ねた時、やっと打ち明けたのだった。

敦也は一通り驚いた後、様々なことを心配して変な顔をした。

大丈夫か?を口を開けば三回に一回は言っていたと思う。生活力ゼロじゃん、とか。生命力もゼロじゃん、とか。


『[[rb:大桐>おおぎり]]は、顔だけお姉さんに似たんだな。いいところは全部、お姉さんに取られたんだなぁ…』


いつかの、教師の言葉。

普通、教師がそんなこと言うか?!…は、敦也の言葉。

いつだって彼は、おれの代わりに怒ってくれた。

確かにおれは勉強もそこそこ。スポーツも得意ではない。家事は一切出来ないし、先に述べたように、人付き合いも苦手だ。

おれは姉ちゃんのことを誇らしく思っているから、顔だけであろうと似ていることは誇らしい。万々歳だ。だから別に、支障なんて感じていなかった。

それにいつだって傍に敦也が居てくれた。

おれの欠けている喜怒哀楽は全部、彼がおれに代わって表現してくれていたから………。


「あっ、」


しまった。

三分計るのを忘れていた。

カップ麺はすっかり汁を吸ってフヤフヤになっていた。


「……」


でもまあ、食べられる。

おれは黙って、カップ麺を空にした。






不思議なもので。

同じ学科だとか講義が一緒と言うだけで、友達が出来た。気が付いた時には、おれは四人グループの一員になっていた。

或いはそれは、他三人の、一人暮らしや新しい環境が不安な為に起こる『一人になりたくない』という共通認識が働いた為なのかもしれない。いつの間にか、おれもそこに組み込まれていた。

『友達』と呼んでも良いものなのか。その境界線すら曖昧で、おれにはよくわからない。

けれど、会えばつるむし、昼だって一緒に食堂へ向かう。講義後に一緒に晩飯を食べて、その足でアパートに遊びに行って、遅くまで漫画を読んだりゲームしたりして過ごした。時には、床で雑魚寝をして、朝を向かえてそのまま一コマ目に参加したりした。

大学生、と言うものは、なるほど。思っていたよりもずっと自由だった。

………このまま。

流されて流されて、時の流れで全て。過去になるのを息を潜めて待とう、と思った。


「あっ、シュウヤ君!」


突然の声に、おれの隣を歩いていた[[rb:芳樹>よしき]]が先に反応して振り返る。


「あれっ?叶(かなえ)ちゃんじゃん。秋夜、呼ばれてるぞ」

「……」


叶ちゃん、と芳樹が呼んでいたことに内心驚いた。

勿論、おれの表情にそれが表れる事はない。おれも振り返って、人目も憚らずに大きく手を振っている神城先生の姿を認めた。小走りにこちらへやって来る。


「芳樹と友達になったんだ!」


うんうん、大学生を謳歌できているようだね!

と、神城先生はニコニコと笑う。どういう心境なのだろう。…皆の親?

そんなことよりも、教員というものは本当に凄いなと思うところに、人の名前をよくそんなに沢山覚えられるな、というところがある。まさか、学生の名前を全員分把握しているわけはないと思うけど…。

呼ばれた芳樹がにやりと笑う。親指を立てて、おれを指し、友達じゃなくて、と口を開いた。


「彼女っすよ。彼女」

「えっ?!はっ?!」

「……ってゆ、ネタを初見にすることを楽しんでます」

「……な、なーんだ……」


何故か神城先生は胸を撫で下ろす。

おれはつまらぬ顔で二人のやり取りを眺めていた。


「これから食堂?」

「そう」

「一緒してもいい?」

「叶ちゃんの奢りなら!」


全く調子のいい!と言いつつも、一緒に歩き始め、結局は三人分まとめて払ってくれた。

こういうの、贔屓とか言われないのだろうか…とちらりと思ったが、多分、神城先生は分け隔てなく誰にでもこういうことをするのだろう。

『許されるキャラクター』という言葉が浮かんで、納得した。彼はそう、そんな感じ。上手く生きてきた人なんだろうと思う。


「シュウヤ君、意外と食べるんだね」

「……………奢りですから」

「出たっ!秋夜の現金な性格!」


ちゃっかり得をして生きていくことに関しては、おれだって負けてはいない、…と思う。

おれのトレーに乗った唐揚げ大盛定食に大盛のご飯を見て、蕎麦(小)に野菜サラダだけの神城先生は目を丸めた。おれの隣で、ラーメン定食を頼んだ芳樹がケラケラと笑う。


「コイツ、家事がからきしダメらしくて。飯はいつもカップ麺らしーんですよ。だから、『タダ』とか『奢り』の飯が結構えげつないんすわ。顔に似合わず」

「へーっ。ギャップ萌だねー」

「………」


会話を興じる二人に対し、おれは素知らぬ顔で黙々と唐揚げと米を交互に頬張った。

今日は芳樹と二人だったが、普段は四人で集まって食べる。四人揃ってる時でも、おれが喋り手になることはそうそう無い。

芳樹は調子よく、よく喋る。見た目こそチャラめで似ても似つかないと思うのに、ほんの少しだけ、敦也に似たところがあった。


「生活力も皆無で。一コマ目がある日は、朝、おはようコールしてるんですよ?寧ろ、俺が彼女だったのか!って感じ」

「へー!」

「………」


その、意外と面倒見の良いところとか。

きっと、敦也と同じ大学に通っていたのなら…それは、敦也が請け負ってくれていた役目だったんだろうなぁと妄想する。


(………ああ、全然。忘れられないや…)


食べ進める手が止まってしまった事に、神城先生が目敏く気が付いた。


「お腹いっぱいになった?」

「………いえ。唐揚げなら…いくらでも入ります」

「好きなんだ?」


はい、と答えると神城先生は何故か嬉しそうに笑った。

ギャップ萌たまらんね、とその顔のまま芳樹に会話を振る。芳樹は一瞬キョトンとしてから、「ああ、でしょ。俺の彼女、たまらんでしょ?」といつもの調子で笑った。


すっかり食べ終わり、三人でトレーを片付けてから食堂を出た。

そのタイミングで、芳樹のスマホが鳴った。「あ、[[rb:翔>しょう]]?」と出るので、いつもつるんでいる内の一人からの電話だと分かる。次の講義が一緒なので、「今どこ?」とかそんな簡単な内容だと思う。

芳樹が余所を向いている一瞬の間に、スッと神城先生がおれの隣に来て耳に唇を近付けた。香水なのかシャンプーなのか、嗅ぎ馴れない、けれど優しい香りがする。

ふ、と耳に息を吹きかけるように囁く。


「芳樹のこと、気になる?」

「はぁっ?!」


思いがけない一言に、つい、大きな声が出た。

なんだどうしたと、注目を浴びてしまった。

芳樹も驚いた顔でこちらを振り返る。


「違った?」


パッと至近距離から元の距離へと離れ、神城先生は首を傾げながら悪戯っぽく笑う。

周りの目などまるで気にしていないかのようだ。


「…………全然違いますけど」


おれ、この人苦手かもしれない。

掴み所が無くて得体が知れないくせに、こちらの事はよく見ている。


「うん。そうだよね。見てればわかる」

「…………」


なんなんだ、一体…。

何だか、ウサギの皮を被ったヘビにターゲットとしてロックオンされた気がして、内心、身震いした。






勿論、おれは芳樹に恋愛感情を抱いていない。

それは芳樹だってそうだ。

だけどおれ達の関係は同期の中で、どうやらちょっとした話題になっているらしい。まだ入学から二ヶ月と経っていないと言うのに、おれ達の名前はキャンパス内に知れ渡っていた。


「おー!芳樹!彼女元気?」

「あー!元気元気!低血圧でさー、今日は五回もおはようコールしたわ~」


そんな感じに。

冗談でおれの事を「彼女」と紹介した芳樹の友人らは、おれの事を「芳樹の彼女」と認識した。勿論、冗談を持って。

芳樹は顔が広く、友人も多い。それに加えて、おれのこの女顔である。それも大変美人ときた。

一回生に同性のカップルがいる、と上級生に知れ渡るのも早かった。

大学生って皆、暇なのかな?話題に飢えてるのかな?と、ギャラリーや知らない人からの絡みに少しげんなりとするところもあるが、基本的には無害なので良しとした。


「やー、シュウヤ君。なんだかとっても人気者だね」


その人はいつも、何処からともなくやって来る。


「………カミシロさん」


時間割を組む時にはまだ芳樹達とは友達になっておらず一人で適当に組んだので、おれだけが受ける講義というものが少なからずあった。教養なんてのは大体そうで、ぼっちで受講していた。

まるでそんな時を狙っているかのように、神城さんは大体、そんな時にふらりと現れた。


「僕はまだ、神城『先生』から『さん』呼びになったくらいなのに。芳樹とは公認カップルか…」


遠い目をして言う。


「……………カミシロさん、おれのストーカーなんですか?」

「あれ?バレちゃった?」


なんてことも無いように笑う。

ほんと、この人よくわからない。掴めない。

どうせ、一人でいる学生が心配だとかそういうことなんだろうと思う。結局のところ。

芳樹みたいな明るい奴には過剰に世話を焼かないのだろう。おれみたいに、「大学生活楽しめてるかな?」と心配になるような学生に本能的にちょっかいをかけてしまうのではないかと思う。彼は。

ふわふわと適当なようで、実はかなり面倒見がよく、人を放って置けないタイプなのだろうと思う。

そんな人だからこそ、『就活サポート課』にいるのだろう。学生生活サポート課の方が名前的にもしっくり来そうなところだけど、あの課は大学の運用のことをキチッと考えている課のような雰囲気だった。

のらりくらりとしつつもその実きちんと学生のことを考えているあたり、就活サポート課に彼がいる方がしっくりと来る。


「シュウヤ君て、彼女とか欲しくないの?」


至極当然な顔をして、彼は横を歩く。

講義棟になんて用事がないくせに。いつだって何故か現れる彼は、講義室までの短い距離の内で数回の会話のやり取りをした。


「……欲しい欲しくない、で出来るものじゃありませんし」

「またまたぁ!モテるくせにー!」

「………」


そうでもない。

高校三年生の頃からもう、彼女なんていない。……小学五年生の頃からそれまでは確かに、常に誰かしらと付き合ってはいたけれど…。

誰一人として名前を覚えていない。その、顔ですら。

希薄な人間だったなぁ、と思う。

それがバレるのだろう。告白されて付き合うけれど、終わり方もいつだって、振られてそれきりだ。

本当の恋を知らなかったのだ。

今でこそ少し、申し訳なかったと思う。


「…………今は、どうやら芳樹の彼女らしいので。女子も告白してきたりしません」

「うわっ!告白される前提だ!」


モテる男は違うねー、と皮肉っ気もなく苦笑した。その顔を見ながら、おれよりも神城さんの方がモテるだろうに、と思った。


「え、僕?」


………どうやら、口に出ていたらしい。

きょとんと、自分を指差して驚いた顔をした。


「珍しいね、シュウヤ君から僕に質問してくれるなんて!」


顔を綻ばせて笑う。

ほら、そうして微笑んでいる姿は本当に眩しい。よっぽど、女性キラーだと思うけど。


「彼女も彼氏もここ数年居ないかなー!仕事始めると、なかなか難しいよね、出会い」

「………彼氏も、ですか」

「うん。僕、バイだから」


事も無げに。

あっけらかんと。


「……………………そうですか」


返す言葉が見付からなくて、そんな相槌を打てばもう、講義室に着いた。

ホッとして、逃げるように「それじゃあ」と講義室に入った。



◇◇◇◇◇



「………私、親に孫の顔を見せてあげられないだろうから。あんたの方は、頼むよ」


漫画を借りに姉の部屋に入ると、姉は徐ろに口を開いた。

突然どうしたんだと思って振り向けば、姉は酷く真剣な顔をして、真っ直ぐに壁を見ていた。


「……………私、女の子が……………好きなの」

「……………」


おれは咄嗟になんて返事をしたらよいのか浮かばなかった。何か、言ってあげるべきなんだろうと思った。けれど、考えれば考える程、頭の中は真っ白になっていく。


「……………………そう」


結局、そんな返事しか口から出なかった。

目的の漫画を本棚から引き抜き、「それじゃあ」と部屋を出た。

頑なにこちらを見ない姉とは、結局、一度も目が合わなかった。



◇◇◇◇◇



講義を聞きながら、気が付けばその時の姉のことを思い返していた。

声は震えてはいなかった。けれど、気丈に振る舞ったのだろうその声は、いつもより少し低く、静かだったように記憶している。


(おれは、何も成長していないんだなぁ…)


自分だって、実は同性の敦也が好きだった。

それに戸惑う暇もなければ、誰かに打ち明けようと思うこともなかった。だって、気が付いた時にはもう、失恋していたから。

ではおれが同性愛者なのかと訊かれると、それはまた違う気がした。“敦也だから”、好きになったのだと思う。

けれど例えば、それを人に打ち明ける時、普通に彼女が出来たとか女の子で好きな子がいるんだと打ち明ける時の、何百倍もの勇気がいるものだろうか…。

世間の目はまだ、冷たいのだろうか。好奇にさらされてしまうのだろうか。

日本はまだ、同性婚についての理解が追い付いていなかったように思う。近年やっと、ニュースで一部条例で『同性パートナーシップ証明制度』とかなんとかの導入で、認められるようになったと騒いでいたような気がする。それでも、それも結局のところ、異性間の結婚とは大分異なる内容なのだろう。……よく知らないけど。


『…………………そうですか』


先程の。

なんの気配りもない自分の、ただの相槌が甦る。

一人残された彼は、何を思ったろうか。

あっけらかんと事も無げに言っていたが、実のところはどうだったのか。震える声を誤魔化してはいなかっただろうか。

のらりくらりと流されながら生きて来たから、こんな時ー真剣な想いに直面した時ー言葉が何も浮かばない。

最近になってやっと、そんなことに後悔する。これまでの人生に。

取り零して来た、沢山の想いがあっただろう。

期待されてた様々なことを、無下にしたことがあっただろう。


「…………」


黒板では教授が、ソクラテスがどうだとかアリストテレスがアルケーがと、よくわからない話をしていた。

だから僕は、心の中でそっと耳を閉じて、目を閉じて………何も知らないふりをした。


その日の帰り。

スーパーのお会計の時に財布を覗いて固まった。


「…………」

「え、何?もしかして、足りない?」


指を財布に突っ込んだまま固まったおれに、バイトでレジに入っていた翔(しょう)が黒ブチ眼鏡の奥で目を見張った。それから、しゃーねぇな、と笑う。


「ツケとくよ。芳樹の彼女だから、特別なー」

「…………悪いな」

「いーって。また返してくれたら」


カップ麺数個と飲み物で683円のお会計に対して、財布に入っていたのは264円。カップ麺一つだけだったら買えるけど、家にもう何もなかったはずだからその厚意に甘えることにした。

更にスーパーの袋まで甘えて、その足で銀行に向かった。

しかし、ATMの画面に映された通帳残高にまた愕然とする。


728円。


画面の中で事務服を着た女性のキャラクターがアニメーションでお辞儀を繰り返す。

注釈に、『引き下ろし最低金額を満たしていない為、引き下ろしが出来ません』とあるせいだろうか。

次の仕送りまではまだまだ日があった。


(…………まぁ、なんとかなるかな……)


人間、水分さえ摂っていたらなんとかなるだろう。

しかしその認識が、甘かった。


「シュウヤくーん!」


その日は雨が降っていた。

パラパラと、傘はいらないくらい。

そろそろ、梅雨入りだろうかと思われる。何と無く天気の悪い日が続いた。

雨の日は嫌いだな、と否応なしに呼び起こされる記憶に、憂鬱に一人、次の講義の教室へ向かっていた。

また彼はそんなおれを目敏く見付けて駆けてくる。

そろそろ耳と尻尾が見えなくもない。まるで、忠犬のようだ。

バイセクシャルであることをカミングアウトしても、彼は普通だった。だから、おれもいつも通りに接した。少しだけほっとしている自分がいた。


「倫理、楽しい?」

「………別に」

「シュウヤ君が倫理を選択してるのって、なんか痺れるね!」


何が?と思ったが言わなかった。

相も変わらず、至極当然のことのように彼はおれの隣で肩を並べて歩く。…実際には、神城さんの方が十五センチくらい背が高い。


「大学、慣れてきた?どう?楽しい?」

「………まぁ」

「夜とかフラフラしちゃってる?」

「なんですか、その質問」


いつもの取り留めもない軽口。

ヘラヘラと相変わらず掴みどころのない笑顔で、彼は大袈裟に「いーなー」と溜め息を吐いた。頬に添えている手なんかが、彼の中性的な雰囲気にマッチしている。


「放課後にどっかそこら辺で晩御飯食べて、友達(ツレ)のアパートで飲み明かしたり。ダーツにビリヤード。コンパ。バイトするも良し。サークル活動に放課後を捧げるも良し。はぁーっ、大学生って夢あるよねーっ」

「……………そうですか?」

「違うの?そんな感じじゃない?」

「………最近、飯は」


食べてないですね、と続くはずが、地面が揺れて言葉が出なかった。


「シュウヤ君っ?!」


いや、揺れていたのはどうやらおれの体の方らしい。

急な目眩と吐き気で、おれはそのまま床に倒れてしまった。






目を覚ますと、見慣れない天井と神城さんの泣き出しそうな顔が映った。

キョロキョロと視線だけで辺りを見回すと、ここは大学の医務室と言うよりは何処かの病院の個室ようだった。左腕に点滴が繋がれていた。

身を起こそうとしても、目が回る感覚に襲われて断念した。あと、右腕が痛い。見ると、湿布が貼られていた。


「……………気持ち悪…」

「…………脱水症状と貧血だそうだよ」

「………」


心配げな顔は一転。

眉毛を吊り上げて怒った顔をした。

レアだな、と他人事のように思う。神城さんの怒った顔なんて見たことが無かった。


「……一体、いつから食べてないの?」

「………五日くらい…」

「五日っ?!」


水と塩で生きていけるかなと思ったと言えば、更に怒られてしまった。


「……でも、アリストテレスは水が万物の根源だって説いているので…」

「いや、何、訳のわからないこと言ってるの?」


あ、これ本気で怒ってるやつだ。

低い声で静かに問われ、おれは一回口をつぐむ事にした。


「…………お金無くて、」


やっとポツリと切り出せば、「頼ってよ!」とまた怒られた。結局、何を言っても怒られるらしい。


「何の為にアドレス書いた名刺渡したと思ってるの?!」

「え、ナンパですよね?」

「そうだけどっ!」


いや、そうじゃなくて!と、一人で忙しそうな神城さんが、ちょっと可笑しかった。いつもと違って、余裕がない。


(………やっぱ、ナンパだったんだ…)


こっそり、それは口には出さないで。


「………すみません。名刺、無くしました」

「はぁっ?!」

「………ごめんなさい……」

「…………っ、」


神城さんは何か言いたげな顔をして、口を二、三回パクパクとさせていたが、遂に何も紡がなかった。

いいタイミングで部屋がノックされる。僅かな間を置いて、看護婦さんらしき人が入ってきた。


「あら?気が付いたんですね。よかった」


おれの顔を見てニコリと笑い、神城さんの方を向いて「点滴が終わったら帰っても大丈夫ですけど、今日は一日安静にしていて下さいね」と説明する。その説明に神城さんがほっと息を吐いたところを見てしまった。

では、点滴が終わる頃にまた来ます、と看護婦さんが会釈をして部屋を出た。

再び二人っきりになった室内では、雨の音が嫌に響いた。ああ、そうか。今日は雨が降ってたなぁなんて思いながら改めて彼の様子を窺うと、肩も髪もしっかりと濡れていた。音からも、記憶よりも雨の激しさが増していることが分かる。


「……救急車を呼んだんですか?」

「そうだよ」

「……すみません」


自己管理ができていないことが、これ程までに誰かに迷惑をかけるとは思っていなかったので、素直に反省した。


「…………ご迷惑をお掛けしました」

「………別に、そんなことはいいんだ…。だけど、悪かったと思うんなら、これからはちゃんと食べて」

「……………はい」


でも、お金が…。と言いかけて飲み込んだ。バイトをしなくちゃなぁ…と思い直す。おれにでも務まるバイトって何があるだろうなぁと少し思考を巡らせた。そんな時、 「それから、」と小さく続く声があったので、思考を打ち切った。


「はい?」

「………連絡、して………」

「え?」


俯かせていた顔を上げた神城さんは、顔を真っ赤にしながら、おれをキッと睨んだ。


「連絡してっ!どれだけ…っ、待ってたと思うの?!今日こそはもしかしたら、……なんて!スマホ眺める夜がどれだけ長いと思ってるのっ?それを!まさか!無くしたなんて…ッ!」

「…………」


おれは吃驚してしまって、声が出なかった。

彼がこんなに乱れるところを見たことがなかったから、驚いた。え?おれのこと、本気だったの…?目を白黒させるしか無かった。


「気が付いてないなんて、言わせないよ?」

「…………えっ、と……」


コンコンコン。

またノックの音に助けられた。

聞かれたかもしれない会話にはヒヤッとしたが、それはおれだけだったようで、神城さんはいつもの人当たりの良いスマイルで看護婦さんに応対し、あれよあれよと会計を済ませて病院を出た。

予想通りに降り頻る雨に、どうやって帰ったらいいんだろう、と思案している間に神城さんは正面に停まっていたタクシーの運転手に目配せし、開いた扉におれを招いた。

二人でタクシーに乗る。


「どちらまで?」


その問いに素早く答えたのは勿論、神城さんだった。

しかしそれは大学の名前ではなく何処かの住所で、「えっ?」とおれはつい声を出してしまう。


「僕の家」


こちらの疑問を汲み取って、神城さんは答える。こちらを見ずにどこと無くツンとした態度で。


タクシーが送ってくれて辿り着いたのは、大学を越して更に十五分程走った先にあった閑静な住宅街の中にある、洋風の造りの立派な一軒家の前だった。


「まいど」


神城さんが支払いを済ませて先に降り、傘を差して待っていてくれた。どうするのが正解なのかわからないまま、やっぱりおれは招かれるまま傘に入り、彼の進む方向に従って歩いた。

外門から長いアプローチの先に、玄関があった。庭から見える駐車場には、黒塗りの車が一台停まっていた。


「どうぞ」

「………お邪魔します」


招かれるまま、玄関に上がる。

靴を脱ぎ、スリッパに履き替えて中に入る。洗面所に通されて手を洗い、トイレの場所の紹介をされてからリビングに通された。

広いリビングだ。

絨毯に、L字のソファー。天井まで届く棚の中央に大きなテレビ。ダイニングテーブルの中央には小さな花瓶の中に花が活けられていた。


「…………」


神城さんは独身。

だとすると、未だに家族と住んでいてもなんらおかしな事ではない。

ソファーに腰掛けるように案内されるのかと思ったら、違った。真っ直ぐにキッチンに向かい、冷蔵庫を開けて「ここの飲み物はどれでも飲んで良い」と説明し、カップボードを開けてマグカッブを指差し、「何か飲む時はどれでも好きなものを使ってくれたらいいから」と言う。コーヒーはここ、紅茶はここ。と。


………何かおかしい。


その思いが確信に繋がったのは、二階に案内された時だ。


「ここがゲストルーム。好きに使って」


沢山扉があった内の一つを開けて、神城さんが言う。白を基調とした、広くて、簡素な部屋だ。

おれは遂に、小さく片手を挙げた。


「…………あの、………状況が理解できてないんですけど……」

「今日から暫くの間は、此処で生活をして貰います」

「ん?」

「君を軟禁します」

「んんっ?!」


流石に強引過ぎる。突拍子が無さ過ぎる。

おれが意見しようと口を開くと、ダンッと彼の両手がおれを挟んで壁に付く。


「拒否権は与えません。僕に心配をかけた、罰です」

「………連絡先を無くした罰、じゃなくて?」


開けた扉を背後に迫られても、おれがいつものように淡々と見詰め返していたからか、神城さんは目を丸めてふっといつもの顔で破顔した。


「………まったく、君は……。まぁ、軟禁てのは嘘だけど。でも今日は是非、此処で過ごしていて欲しいな。心配だから」

「…………神城さんがいいなら。おれに断る理由とか、無いですけど………」

「そうなの?」


ふーん、と壁ドンからおれを解放する。


「じゃ、僕は仕事に戻らないといけないから。適当にしててね。講義を休む件は、教授達に伝えておくよ。十九時くらいには帰宅すると思う。はい、これが連絡先ね」


てきぱきと渡された名刺を受け取ると、「今度は無くさないように」と念押しされた。こくりと頷けば、満足そうに笑う。

一緒に再び一階に下りて、玄関に向かう。

「それじゃ、いってきまーす!」とヒラリと手を振って、神城さんが家を出た。「いってらっしゃい」と言うでもなく、棒立ちで見送っていたら、外から鍵のかかる音がした。


「…………」


またタクシーを呼ぶのかな?と思っていたら程無くしてエンジンのかかる音が聞こえた。どうやら、外に停められていた車は神城さんのものだったらしい。

じゃあどうやって朝、大学に来たのだろうか?はてな、と首を傾げたが、まぁいいか、と直ぐに興味を無くした。


「…………うーん、」


本当は未だによく状況が理解できないでいるけれど。


(………ひょっとすると今日、おれは処女(?)を喪失するのかもしれない………)


外では雨の音が激しさを増した。






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