第4話


 私にとっての始まりは、九頭龍神社から少し離れた田んぼのあぜ道を歩いている時の事でした。


 時期は去年の八月の半ば。地平線の先の山々に日が落ちようという時刻で、風の心地よさを感じられるぐらいの暑さでした。オレンジ色に染まった田が嫌に綺麗だったことを覚えています。


 あぜ道の先には国道に繋がる舗装された道があるのですが、その道路を数名の人影が歩いていたのです。


 普通ならば別に気にするような事ではありません。その道には歩道も敷かれていましたし、人が出歩いていても不自然ではない時間帯でしたから。


 しかしその人影が視界に入った瞬間、私は急に吐き気を催しました。


 即座に私は理解しました。ああ、これは普通の人間ではないんだろうな。ついに幽霊かそれに近い存在を見てしまったのかもしれない。


 そう思い至った瞬間、それまで普通の人間に見えていた人影が、真っ黒な影法師に変化しました。しかも、歩みを止めて私の方をじっと見ている。黒く塗りつぶされたような顔で表情は見えないはずなのに、何故だか私を見て笑みを浮かべているように思われました。


 怖くなった私は、急いで逆方向へと走り去りました。幸い影法師は追って来る事は無かったので、そのまま真っ直ぐに家へと帰りました。


 それからしばらくは何事もなく平穏な日々が続きます。ただ、九頭龍神社には近寄らないようにしていました。もともと九頭龍について興味を持っていた私は、あの影法師が九頭龍そのものか、或いは何か関係のある存在だと確信していたからです。


 九頭龍神社に近づかなければ大丈夫だろう。私のその見通しは甘かったとしか言いようがありません。


 次に影法師を見たのは、赤務駅でした。

 駅構内の自動販売機の脇に、座り込んでいる人影を見かけたのです。


 初めは酔っ払い客がうずくまっているだけなのだと思いましたが、すぐに例の不快感を感じ、それが人ではなかった事を悟りました。


 もちろん即座に逃げ出しました。傍目には、突然走り出した変な人の様に見えたでしょうが仕方ありません。とにかくあの影法師には関わってはいけない。私の感がそうサイレンを鳴らし続けていましたから。


 しかし残念な事に、それから駅周辺でもその影法師を見かけるようになったのです。


 ある時は歩道で。またある時はコンビニの中で、日常の至る所で黒い影法師が現れるようになりました。それらと遭遇するたびに私は発作に襲われるわけですから、もはや普段の生活にも支障をきたすようになってしまったのです。


 不思議なことに、私以外の人達にも影法師が見えている様子でした。


 例えば、歩道を歩いている人は影法師を避けていました。あまつさえ、肩がぶつかった人が影法師に対して謝罪する所を目撃した事もあります。


 私は身近な人間に訊ねてみました。最近、人混みに黒い影法師が紛れているように思わないかと。


 答えは簡単で、「怖い話はやめてくれ」と軽くあしらわれてしまいました。


 相手は小学生のころからの付き合いで、気心の知れている相手ですから、その場は趣味の悪い冗談という事で流してしまいましたが、今にして思うと彼には悪い事をしたと後悔しています。


 しばらくして、その友人から連絡がありました。


 曰く、私の話を聞いてから人混みの中に黒い影が紛れ込んでいるように思うとの事でした。


 どうやら、この黒い影法師は全く意識をしなければ普通の人間に見えるようです。しかし、その存在の事を頭の片隅で認識している人間には、その正体を現すようです。


 何を考え、何の目的があるのかは分かりません。しかし彼らは確実に私たちの側にいるのです。


 考えてもみてください。町や駅ですれ違う、きっと一生関わり合いにならないであろう誰かの中に、人間の振りをして異形のモノが紛れ込んでいたとして、それに気づくことは出来るのでしょうか?


 きっと私の様な勘のいい人間ならば、彼らの存在を認識できるのでしょう。

 そして、私の様な人間にその存在を教えられた人間も、認識のロックが外されるのでしょう。


 幸い……なのかは分かりませんが、私の友人は黒い影の様な人型を認識できるだけで、私を襲う吐き気は感じないとの事です。ただ、何をするでもなく漂う黒い影が見えるだけ。それだけでも、普段の生活に支障が出るほどのストレスを感じていたようですが。


 さて。黒い影法師が現れたのは八月で、それから奴らは徐々にその数が増えてきました。年の瀬になると、外に出ると一日に一度は不快な思いをしなければならないほどの数にまで増えていました。


 そして年を跨いだ頃に、この黒い影法師が人間に与える影響を目の当たりにしてしまったのです。


 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る