第7話

 時間から、かけ離れた存在は。

 流れるその雄大にして無情なものとは露と知らず。


 漸くその過ちに気づいて立ち止まった時。

 振り返ったその跡に残るものを見て感じたものは───。







【7】








 ウォルツタント帝国の歴史は、五百三十年とされている。

 広大な土地、緑豊かで穏やかな気候故に数多の動物も人間たちも、齎される自然の恵みを受けながら住んでいた。

 ある時、とある青年が一人の美しい女性に恋をした。

 人間同士の諍いで怪我をした青年をその女性は不思議な力で癒したのをきっかけに希うようになったのだ。

 女性は不思議な力も然ることながら、まるで生きとし生けるすべての存在から愛されているように、どんな獰猛な動物も手懐け、枯れかけた花を生き返らせた。その神秘的な彼女に恋焦がれた青年は想いを伝え、この諍いが終わったら妻になって欲しいと幾度も跪き乞う。だが、彼女はなかなか頷くことはなかった。


『愛しい人、私の女神よ。貴女が私の妻になってくれるのなら、私はこの土地に国を造り、誰一人悲しむことのない世界を捧げよう』


 彼女は、争いを厭うた。

 統率のないこの大地で数多の血が流れ、緑が焼かれてゆく様を悲しむ彼女に誓いを立てた。

 その真摯な誓いに心打たれた女性は、青年に心惹かれるようになり大陸の大半を治め国を築いた。この地を統一させた青年は女性を妻に迎え国を栄えさせ。

 その子供が王族の血を脈々と繋いできた。


 王妃となった女性は不思議な力を用い、土地を豊かにさせ、王となった青年を、国民を豊かにさせた後、天へと還ったとされ。

 故に、豊穣と愛の女神───アロライナをこの国の民は信仰しているのだ。


 それがこの国に伝わる建国史とされている。


 

 ただ、アロライナは傷ついた青年を見捨てられなかっただけだった。

 いつの間にかこの豊かな地に住む動物よりも人間の数が増え、それでも助け合って穏やかに生きていてくれたらよかったのに。彼からは時が経つにつれて争いを起こしては無益に死んでゆくのが女神には耐えられなかっただけだった。

 ただの偶然に過ぎないのに、何の因果か互いに恋に堕ちてしまったことが唯一アロライナの誤算ともいえた。


「アイアス…」


 アシュリーが産まれて此の方、これほど感情を露わにしたは初めてで、それが喜びではなく悲しみということがアイアスにはひどく辛い。

 その原因の発端は彼女であっても、頑なに拒む女神の意思に逆らったのは己なのに。

 貴女が責任を感じる必要はない。

 離れられずに仕えると決めたのは、紛れもないアイアス自身なのだから。


「シュリー…いえ、女神アロライナ様。今生では彼を見つけられましたか?」


「……いいえ。そんなことは今はどうでもいいの。私は、貴方が…」


「貴方は疲れているのですよ。まだ時間はある、再び溢れるまでは眠らせておきましょう。思い出すのはもっと愛されてからでも遅くはないのですから」


 甘く、優しく。

 アイアスの懐かしい口調に、アシュリーは涙に濡れた睫毛を瞬かせて見上げた。その瞬間、ふっとアシュリーの意識は途絶え、頽れる少女のを抱きとめるとそっとベッドに寝かせた。

 まだ稚い面差しの少女は、幾度も繰り返された彼女の遍歴の中で一番元の姿に似ている。その髪色も、その深い緋色の眸も。色褪せることなく追い求め続ける彼女を彷彿とさせて、彼は苦い笑みを浮かべて。


「───よい夢を、我が女神。貴女に祝福を。願わくば、誰よりも幸せであらんことを」


 力なく投げ出された小さな指先に、そっとキスをした。










「アシュリー様、今日も良い天気ですよ」


 カーテンを開ける音とともに柔らかく聞こえる、メイアの声。

 幾分重く感じる瞼を開け、アシュリーは何度か瞬くと彼女にそっと微笑んだ。


「おはよう、ママ」


「…どうかなさったのですか?涙の跡が…」


 心配そうな眼差しで起き上がったアシュリーの顔を覗き込むメイアに、アシュリーは小さく首を傾げる。


「判らないの…でも、とても胸が苦しくて、悲しかった気がするわ」


 そう答えた彼女の中には、溢れ満ちたものなどなかったように、何も憶えてはいなかった。









 




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

神の箱庭 兵藤 ちはや @chihaya90

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ