第6話
───大丈夫だ、と。
冷たい掌で目元が覆われる。
そうすると不安も恐怖も何もかもが溶けて、優しい闇へと落ちてゆくの。
意識も記憶も曖昧になるくらいに。
【6】
幾つ春が巡っただろうか。
穏やかに時は過ぎ、アシュリーは十四歳になっていた。たった一度父親だという男と遭ったがその後も何の接触もなく、朽ちかけの別邸生活は何も変わらない。
ただ変わったといえば、教えられた料理を少しずつつ作れるようになり、掃除もする。ただ、何かしら目に見えた変化といえば、本館の家令と他の使用人の顔をよく見るようになった。お陰で数年前よりは生活が楽になったのだろう、メイアの表情も少しは穏やかになったように思う。
そのことに思うことなどなかった。
けれど、幼い頃から見る夢と、彼が語る、寝物語の内容。
まるで夜ごと滴り続ける雫が乾いた器に落ち、長い月日を経て溢れ出すように。
アシュリーの細い体では受けきれないほどの絶望と、荒れ狂う様々な感情に成長していなかった心が前後不覚に揺れたまま落ち着くなくなって。
「……アイアス」
灯りを落としてメイアが部屋を下がった後に、アシュリーはひっそりと囁く。
物心つく前から”彼”は兄のように思っていた。けれど実はそんな言葉では表せられないものを背負わせてしまっている。
己の愚かさを、彼への慚愧の念に胸の痛みが止まらない。
押し殺したそんな囁き一つでも、彼はいつもの微笑みを浮かべ姿を見せた。
「君から私を呼ぶのは珍しいね、シュリー?」
「…眠るまで、話をしてほしいの」
ベッド端に腰かけ、音もなく現れる青年を見上げる。彼は四年経っても姿が変わらない。麗しく薄闇の中でさえ光を放つような金の髪も、その整った容貌も。けれど、それを不思議に思っても怖くはない。アシュリーの中では彼は夜だけしか会うことのない、兄のような立ち位置に思っていたから。そんなものなのだろうと思い、深く考えることはなかった。
彼はいつものようにアシュリーの足元に跪き、膝の上に置かれた荒れた白い手を取って心配そうに見つめた。その夜明けのような深い色の眸がとても綺麗。
「何かあったのか?」
───いつもそうだった。
彼は覚えている限り、いつもそうだった。
感情の起伏のない可愛げのない見捨てられた子供を、ずっと見守ってくれていた。
この世界に関わらず、静かに、深い眼差しで見守ってくれているのだ。
なのに、彼のことは何一つ憶えていないなんて。
悪夢、といえばその通りであり、けれどけっしてそれだけではないもの。
それは夢という媒体を使った、一つの軌跡だった。
長い年月をかけて色褪せて、風化された記録のような、記憶。
人々の泣き叫びながら逃げ惑う様、幼子を抱えて身を潜ませていた女性を切り刻んでいく数多の兵士達、熱に浮かされて蔓延していく狂乱。
それは、一つの国抱える闇。
きっかけはささやかな恋だったなんて。
そうしてその罪の諸元が自分だったなんて。
「……ごめんなさい、アイアス」
その震える細い声は、十四歳の少女のものとは思えないほど掠れていて。
アイアスは切なげに目を細めて、緩やかな癖のあるプラチナブロンドを撫でた。
「君が謝ることなんて何もない」
慈愛に満ちた優しい声に、アシュリーは幾度も頭を振って涙を散らして。
愚かなのは、私。
あの日、恋をしたのも私。
そんな私を心配しつつ、見守ってくれたのはこの騎士だ。
それなのに、貴方のことは判るのに、欠片しか思いせないなんて。
「…ごめんなさい…」
恋した想いを捨てきれず、この世界に身を投じた愚かな神。
溢れかえって止め処なく浸していくのは、罪の記憶と持ち合わせていなかった感情だった。
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