第5話

人が互いを思い合い、傷つきながらも貫き通すその姿を何よりも美しいと思った。


 その鮮やかな笑顔を。


 その深い悲しみも。


 それを理解したくて望まれるまま手を取り、あの人の願いを叶えたのに。












【5】












 メイアに手を繋がれながら真っ直ぐに延びる臙脂の絨毯の上を歩いていく。黙したまま歩くメイアをちらりと見上げれば、毅然と前を見据えて進むその表情には確かな怒りが見て取れた。




「ママ?」




 何をそんなに怒っているの?


 あの男の人は誰?


 浮かんだ疑問は多少の躊躇いの後に呑み込もうとした時。




「…アシュリー様、あんな人のことは…いえ、失礼しました。…アシュリー様はこの邸で住みたいですか?」




「…ここ、私の家なの?」




「本来であれば……エヴェリン様がご存命であれば、アシュリー様はこのアインホルン公爵家の公女なのです…」




 険しい表情からいつもの微笑みを浮かべたメイアの声が、ひと言毎に沈んでいくかのようだった。




 ───私は、この家の娘だったのね。




 それはアシュリーの中であまりにも現実離れした夢物語に聞こえた。物心ついた頃から古いあの邸がアシュリーの世界だった。アメリは邸の外へ出ることを禁止し、いつも優しい面には怯えすら窺えていたように思う。親だと思い込み慕っていた彼女を悲しませたくなくて、漠然と独りで外へ出ようと思ったことはない。


 今から思えば、あの男──この家の主──に見つからないように気を配っていたのだろう。


 動いたことのない心が、僅かな痛みを感じた。


 この国の身分制度は理解していたから、亡き母が貴族だったという話はアメリがよく話していたからわかっていたけれど。


 所詮、あの襤褸邸が自分の身分なのだろう。




「…ねぇ、ママ。わたくしが大きくなったらこの邸を出ていきましょう?二人で働けば生きていけると思うのだけど…?ママは平民になるのは嫌?」




 ゆっくりと歩を進めながら、アシュリーは小さく問いかけた。


 繋がれた手が僅かに震え、メイアは悲しそうに目を細めた後柔らかく笑う。




「アシュリー様とご一緒でしたら嫌なわけがございません。いつまでもこの生活をしていくわけにはいかないので、その時には喫茶店を開くのもいいと思いませんか?」




「素敵ね。それなら、お茶やお菓子の本も借りましょう」




「そうですね」




 ああ、楽しくなってきた。


 ただ無駄に目的もなく邸が倒壊するまで行動制限されながら貴族でいるなら、いっそ誰の目も気にせず彼女とお店ができる平民になった方が何倍も魅力的だ。


 こんな贅沢な夢を持つことできるなんて。


 優しく抱きしめてくれるメイアを抱き返しながら、初めて作り笑顔以外の笑みを浮かべる。彼女には自分を育てるためにさせた苦労以上に楽をさせてあげかったのだから。




















 アシュリーは物心つく前から長い長い夢を見続けていた。


 まだ感情や自我も目覚めるずっと前から。


 それか何なのか考えるようになったのは、3歳頃からだった。鮮やかだったり、モノクロだったり色は様々だったが、髪をなびかせる風の冷たさも、その匂いもただのそれとは思えないほどの臨場感だった。


 そこは争いの絶えない血生臭い地だった。


 この地の王は好戦的で近隣の国へ繰り返し侵略を繰り返していたが、数十年後に平民の反乱で王は討たれたという背景を、何故か理解出ていた。


 常にどこかしら煙が上がり、焦げ臭い悪臭が満ちている。崩れた瓦礫、荒れ果てた街並み。その隙間もないほど夥しい遺体に埋め尽くされているのを、俯瞰から眺めながら身を震わせた。




 胸が痛い。


 なぜ人は争うのか。


 ここは何百年物間、緑豊かな穏やかな土地だったのに。




 ほろほろと伝い落ちる涙をそのままに、アシュリーは茫然と地獄絵図を見つめる。


 どうしていいのかわからない。「どうして」、「助けたい」という思いはあっても、体が竦んでどうしても動かなかった。奥底からくる震えから膝から崩れ落ち、血だまりの中膝をつく。




『──────様、穢れが…』




 背後から深みのある低い声が、静かにかかる。


 その人を知っている。知ってはいるが、名前が出てこなかった。そして呼ばれた名前もはっきりとは聞こえず───。






 叫びたいのに声が出ない、吸い込んだ息がひゅっと音を鳴らした衝撃にはっと目が覚める。


 そんな夢を、数えきれないほど繰り返し見た。


 その中で自分が何者なのか、その世界はどこなのか、夢の中では解っているのに目覚めと共に砂が零れ散るように思い出すことはなかった。


 ただ、引き絞られるような心の痛みと喪失感に涙が頬を伝う。


 そんな感情など、今の生活では感じたことなど一度もないのに。




 ───本能からか、この話をメイアに語ったことは一度もない。


 命を賭して産んでくれた母へ、若く尊い時間を自分を育てるために費やしてくれた彼女へ、あまりにも罪深くて口にはできなくて。




 この世界を愛する価値はない、その憎悪を。


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