著者コラム「娼婦とは誰か」

 二十一世紀になって大分経つ。二〇〇二年に産まれた子供は、今十八歳だ。日本では男子の結婚が民法上許される年齢である。女子であれば十六歳から、結婚は出来る。十八歳と十六歳のカップルは、結婚することで、民法上は「成人」となる。二〇二二年の憲法改正が間近に迫り、十八歳と十九歳は揺れ動いていることであろう。この辺りのむつかしい話は置いておいて、とにかく、『成人』未満とのセックスは、愛があろうと利益があろうと、等しく「淫行」である。何故かというと、憲法に曰く、「未成年」とは『性に疎く、拒否する力が未熟』なのだという。

 成程、いざこうして自分が成人指定作品を描いてみると、確かに「未成年」は卒業の如何やを問わず、「未熟」と言えるだろう。大人には彼等を守る義務があり、大人は大人だけで完結せねばならない。

 現代の「娼婦」として、私は当サークルの理念に賛同して下さった、とあるキリスト教徒の風俗嬢に取材を申し込んだ。彼女は、彼女の言葉で言うところの『変態専門店』の店員である。

 恥ずかしながら、私は長く、彼女達を警察官の一種だと思っていた。これは当人方に大変失礼な侮辱であるので、このような振る舞いをすべからずという意味も込め、書き記しておくのだが、私は彼女達を、「女性を性犯罪から守ってくれるプロ」だと思っていたのである。これには私の友人達の性体験が関係しているのだが、その辺りは拙作『エッケ・アマンティウム』のコラムを読んで頂きたい。

 とにかくそれは甚だ失礼な偏見だというので、私は取材時さーっと血の気が引いたものである。何故「さーっと血の気が引いた」のかと言えば、私にとって彼女は、信仰を同じくする同志であり、風俗という未知の世界に対する先達であり、同時に「とても壊れやすいもの」という考え方があったからである。それはアンタッチャブルな存在という意味であり、性で仕事をしなければならない訳アリの人という意味であり、ひいては『可哀相な人』だったからである。

 しかし現実の所、彼女達はアンタッチャブルな存在ではないし、性で仕事をしているのではなく、性サービスを売る仕事人であり、可哀相な人でも何でもない。ただ彼女達は性という分野において我々の生活をより文化的にしてくれている、立派な社会人である。職業に向き不向きがあることは悪いことでは無い。それと同じように、風俗で働く事が向いている事は恥ずかしい事では無い。

 こんな簡単な事が、「性の」と着くだけで、一瞬にして分からなくなってしまう。風俗の恐ろしいところは、実はそこにあるのではないか、と私は思う。一瞬にして私達は、目の前のトークが上手で、お酒を作ったりおつまみを作ったりしてくれる、接客上手な女性を、淫蕩な売春婦にしてしまうのだ。

 イエスは嘗て、『心の姦淫』という物を説いた。実際に買春をするよりも、女性に春を見いだす視線を持ったのならば、それは姦淫だという意味である。この色眼鏡についての説話であると言えよう。

 ところでここで、もう一つ不思議な科学変化が起こる。「サービスを提供する」という形容詞に、「性の」と同時に「男の」という指定語をつけると、今度はその意味ががらりと変わる。我々腐女子にとっては、寧ろ前述の「風俗嬢」の方が珍しいが、世に言う「ボーイ」のコミュニティが如何に狭く、閉ざされることを余儀なくされているかを考えると、その差は歴然である。「性を買う性は男」、「性を売る性は女」という大前提が、先の話題に横たわっていたことに、聡明なる諸氏は気付くであろう。

 より珍妙に見える「性の」「サービスを提供する」「男」という組み合わせは、しかしこの世界に無くてはならない物である。彼等にしか癒やせない魂がある。そのような魂に真摯に向き合う仕事人を、「姦通罪」と言って憚らないキリスト教コミュニティに、私は何とも言えない差別主義を感じるのだ。

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羊の子守歌~神を愛した男外伝 PAULA0125 @paula0125

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