紅葉の影
齋藤夢斗
本編
一
僕は幼少からよく家にもいなければ写真の一枚としてない母の容姿を思い浮かべていた。なけなしの小遣いで買ったクレヨンでチラシの裏面にありのままを描いたりもした。どんな時でも美しく、母は微笑んでいた。なかでもとびきりの一枚を選んで、夏休みの課題として提出したこともあった。
それは僕が十七になった日の夕暮れのことだ。父が唐突に、僕の母はもうずっと昔に死んでいる、と云った。僕は
父は幼少から男手一つで僕を育て、たまに哀しそうに母の話をすると、決まって母は遠い地で「今も多忙だ」と云った。無理に笑みを浮かべようと必死の彼はなおのこと
辺りの静寂は有形から無形までのあらゆるが父の
この平家は部屋の数だけが無駄に多くて、一部屋ひとへやは狭かった。今二人が椅子に座っているのはリビングだが、中窓から染み入ってくる秋の夕焼けの茜いろは部屋じゅうを隈なく燃やしている。
父が母との出会いから死別までの経緯を長々とテーブルの黒い斑点に話している最中、僕は窓の外の沈む日輪を細目に眺めていた。陽は遠い山々の尾根に背負われながらゆったりと懐に入っていく。雄大な超自然が生んだ突起はその侵略を空にまで及ぼそうかと躍起になっていた古代の時のまま静止しているようだった。陽は夜闇を帯びようかという空に真向から足掻いていた。
父がここまで話しているのを見るのは
玄関あたりで物音が立った。その後、バイクの駈けていく煩音が遠のいていった。父は
しかし飽きてしまった。飽きてしまったのだ、父の口端の薄い笑みを見るのにも。父が肉体を持った母を想像し、僕はしかし母の骨だけが想像された。父の回顧の裡で母は若く笑い、若く泣き、若く愕き、若く食べ、若く喘いだ。その一コマが埃を被ってもなお褪せず、緻密に、明瞭に確乎としてあった。だが僕にも誰にも色彩を保ったものは見出せず、父の思い出だけに生きていた。外界には死んだとばかり言っているが、内界では
僕は欠伸をした。リビングは夜闇と一体になっていた。月光乏しく、秋の夜長にあまねく
二
我が家は家屋こそ小さいものの、宅地は公園の一つでも置けるくらい広大なものだった。明確な仕切りはなく、
僕はあの血の森と縁側との遠近が段々と狂っていくのを実感した。あの山の稜線は不動のままであるのに、森と縁の間の、舗道を往く自転車や
空想は途切れ途切れに続いて、畢竟どの時間帯にあってもその美は損なわれなかった。むしろ陽が落ちるにつれて美は深まっていった。空想の夜は樹々の麓に
どうにも僕は妄想逞しいもののようで、厄介な
それから僕はよく縁側に座して空想の花見をするようになった。そこに度々父がやってきて物珍しそうに「何を見ているんだ?」と尋ねてきた。「憑りつかれたようじゃないか」
「ああ、紅葉だよ」僕は指さした。すると父は怪訝そうに「あそこじゃなくて?」
「まああそこでもあるかな」
「……そうか」とわかったようなそうでないような反応をした。
僕は父に説明するのが面倒だったのではなかった。父に理解してもらえないことこそが狙いだった。美を僕だけのものにしたいとは
三
終始、誕生祭の日、僕の前に真実の母の像は現れなかったが、父はよく母の仏壇で大仰に笑うようになった。母の死を僕に打明けた父は実家にあるらしい仏壇を取り寄せたのだった。僕ももう何度もお邪魔した家の和室に鎮座したあの仏壇がまさか自身の母を供養する目的であったとは露ほども思わなかった。父方の祖父のものだと長年信じ切っていたものだから一杯食わされたなと苦笑した。日を追うごとに僕の疑問は
ある日、僕が縁側に立っていると、背中から父がやってきて「お前、大学はどうするんだ?」と尋ねてきた。母の仏壇は僕の丁度後ろの部屋にある。庭で蜻蛉がゆらゆらと
「……大阪か、名古屋か、東京、か、かな」僕は父を見ずに言った。「今のとこは」
素っ気なく答えているように見えて、内心どうして父からそんな問いが零れたのか気になっていた。殊に将来を問い質すようなことを父はこれまで一度たりともしてこなかったのだ。これに僕は幽かな予感を覚えた。
「そうか……」
「どうしたの、急に」その時、どうやら僕は蜻蛉から目を反らしたらしく、瞬きにも満たない間であったが、次に僕が花を見やると不器用に花弁は揺れ、そしてなにも無かったと静止していたのだった。視界の端には蜻蛉の残影が過った。その影を僕は追おうとはしなかった。代りに秋草の集しの拡がりがあった。冬の
「何を見ているの?」
「お前はどうなんだ?」
僕は答えなかった。というより答えようとして喉下まで出かかった音を慌てて
「俺はな蜻蛉を見てたんだ。ほら今桃いろの花に停まった」父はその場で胡坐を組んだ。そして「お前は何を見ていたんだ?」
父を見ていた。そのややきつめの切れ長の目を、劣った
「僕も同じ。蜻蛉と、あと濃紺菊」
「そうか」父はしきりに頷いた。次に微笑が浮かんだ。仏壇の前の欣喜雀躍とした父とはえらく違っていた。噛み締めるようだった。
「ところで、濃紺菊とはどれのことなんだ?」
「え、あ……うん。あれ」指で指示した。夥しい安堵が体を駈け廻った。父はまた何度も頷いて、再び老いの面をした。こうも簡単に変えられるなら境というのも案外曖昧なのかもしれないなと思った。
父はまた微笑んだ。僕は父の情動を斟酌してみたがどうにもそれらしい答えは見出せなかった。それもその筈なのだ。数日後、帰校した僕は父が仏壇の前で服毒して死んでいるのを発見した。母は茶の額縁に固定されて華やかなかんばせをこちらに向けていた。紅葉はもうとっくに黄落していた。
四
父の葬儀は一般参列をよしとしていたが、前二列より後方はがら空きだった。
は紙のコップを引き取り、そんな言葉を残して、談笑の輪にまた入っていった。
一時間が経てばちらほら帰り支度をする男女がでてきた。男は酩酊し、女は周りに挨拶をし、もう父の死など忘却の彼方であるというようで、必ず最後には祖母に深く礼をして、僕にお辞儀して帰っていった。赤ら顔でへらへらしたおじさんが僕の下へやってきて、一万円を差し出した。僕が受け取ると、「それで美味しいものでも食べなさい」と優しい手で僕の肩を撫でた。祖母は僕の真面目な顔の裏を勝手に推測して「よかったわね」とわざと大きな声でいった。おじさんは満足そうに去っていった。やがて僕と祖母だけになると、祖母は「いくらいただいたの?」
「六万四千」
「大事に使いなさいよ」
「わかった」
「ああ、あとあの子の遺産は私が預かっておくから」
「うん」
「進学のための費用は安心なさい。それに生活の気遣いも不要よ。私もそう遠くないうちに焼かれるから」
僕はそのまま帰った。父は
五
僕にとって季節の変遷を実感させるのは暦では決してない。昭和や大正、明治に生きた人々がどうあったかは知らないが、日付が立夏や立冬を告げても嘘のように思えた。年が明けて十日、粉雪が降った。僕は初めて冬入りしたのだと思った。いつか紅葉を咲かせていた枯木の剣山が山麓の色合いを背景にしてじっとしていた。冬の平家は
冬休みも
喪服の代用にした制服は
空想は決まって図書委員の少女に掻き消される。冬の日短は図書室に入室してまず目に留まる窓外の風景、今日であれば雲間から注がれた二三条の光芒が、少女の掌が肩を叩いてようやくはっとして天井の人口灯に気付くことで、その言葉が導きだされた。
たまに学友は「秋の夜長というけども事実、冬のほうが長いですよね」と不思議そうに古文の教師に訊くと、「中秋の名月というのもある。真冬は凍えて月を見ようなんて思わないだろう」と返した。「でも冬の夜長でもいいよね、今は。過去と現在は一つの連綿であるけど、そう過去に固執するのも違うと私は考えているんだ。孤立して培われた日本文化は継承されるに値するけど、それだけが日本の在り様になってしまってはいけないんだ。そんなの開国当時から散々云われてきているけど、現代の日本人は哲学的な意味でも形而上的な共依存関係にあるんだよ。知らずのうちにね。私はそれを好ましいとも危なっかしいとも見てる。物質主義よりも深く均されて、易々と抜き取れない楔になってるんだよ」
学級がそうであったように、どうでもよかった。一高生の僕たちには『私』という一人称の壮年の男の私論は晦渋に過ぎた。故に僕はこの時間が好ましかった、今昔の絶妙な合間を凹凸なく辷る男の授業は。他にも僕と空想とが接続する時間は幾つか設けられた。級友が眠りにつくような場面にこそよく発見された。だからだろう、年末に配布された成績表は凡ての教科において、関心意欲態度の覧に最高評価が記されていたのだ。他の項目を特筆するべきなど到底ありえない。
件の少女は僕のことを認知しているようだった。対して僕は彼女の名くらいは知っていた。彼女は僕が文学に依って空想の海を泳いでいる最中に、こっそりと忍びよって
六
一月も下旬になる休日、僕は少女と学校で待ち合わせた。屋上の四囲を囲うフェンスが霧雪でも降っているかのように薄白に塗れていた。背中に望む町のどこかしらから工事だろう
「一年の時の一回きりだぞ、それ以来、名簿の僕の名前も見たことすらない」
「でもここには来てるでしょ。ここに来て、いつも純文学を読んで、ううん。読んでるじゃなくて、眺めてる、そうね、君、文章を眺めに来てるのね。頁も捲らず、どんな本でも丁度全体の折り返しあたりの頁を開くの」
「よく知ってるね」
「だって好きだもの」
「……なにが?」僕は知っていて訊いた。
「好きな人が本を見るのが」少女に逡巡はなかった。
「どうして僕なの?」
「特に理由なんてないわ。君が私を惹きつける魅力が備わっているわけでもないし、一目惚れでもない。私、ここに来る男子、男の先生、皆好きなの。イケメンでも太ってても、痩せてても、背が小さくても高くても……あそこのドアを開けて、本棚から一冊抜き取って、適当な席に着く。その
「よくわからないよ」
「つまり君を好きになったのは特別なことじゃなかったの」
「……そうなんだ」
僕はどうしてか哀しみはなかった。哀しみを抱けないほどの哀しみであったのかもしれないし、そもそも恋情のない僕が哀しむ必要もなかったからなのかもしれない。ならばどうして、僕は『哀しみはなかった』のだろう。僕は少女から遠ざかって、本の迷路へ分け入った。奥へ奥へ進んで行って、少女の目の入らないところまで来て、外を見つめると、冬の草花の風に揺すられ犇めきあう様子があった。凍え、乾燥した地。靡く草花、棚引く雲。雲間の光、ありふれた世界の色。海を越えた国の本の背革をさする。手に取って、適当な頁を開いた。
七
二月の一日が少女の誕生日だった。僕はなにか物をあげることはしなかったが、その日も変わらず図書室で本を眺めた。十分、或いは二十分かけてようやく頁が捲られた。はらり、はらりと灼けた紙が繊細に夕焼けに溶け、照明の対称的な影に吸い込まれていく。隣の席に坐った学生鞄はじっと終わっていく時間に身を委ね、ぴんと直立していた持ち手はいつの間にかへにゃりとかぶせに横たわっていく経過は小さな
体感、相当の時間をかけて少女は僕の鞄に背中に回した手を突き入れた。努めて意識しないでいるのは容易だ。あの生徒に集中していればそれだけで事足る。が、そうはいかないようだった。天秤にのせて重きを気にかけ、軽きを疎外することが心もとないうでと台で成り立っていたのだが、どうも生徒は少女が鞄に手紙を入れる場面を目視していたようだったのだ。計らずかどうなのかは知りようはなく、わかるのは生徒が課していた重みが、丸まる少女と僕の、天秤の片方に集積したのであった。こうなっては僕の意識もそちらに向く他なくなる。幸か不幸か少女は気付いるようではなかった。
ほどなくして僕は尿意という建前を以って部屋を出た。近くの教職用トイレの戸を大仰に開けた。足は踏み入れず、戸は廊下の底冷えの空気だけを
……例の生徒がでてきた。彼は暗がりで文字までは窺い知れなかったが、大型本を両手に抱くようにして持っていた。図書室で見た以上に小柄であると、本とを比較してみて思った。彼は目当ての本を発見したのだろう、嬉しそうに僕の眼前を去っていった。彼の目に僕はもういない。彼と代わるように図書室に入ると、少女は今まさに司書室から出てこようというところで、「あら、やっと戻ってきたのね。もう閉めるとこよ」
「……あの本、借りるよ」テーブルで、本の敷き詰められた文字が曝されているのを見下ろしながら鞄と一緒に手にした。
「家でも眺めるの?」
「まあね……あ、そういえばさっきの彼。珍しいよね、この時間に生徒がいるなんて」
「そうね。で、本。面倒だから明日にしてくれないかしら」本当に面倒くさそうにしていた。
「わかったよ」
奥の本棚にぽっかりと空いた穴の永遠の影に本を押し入れた。あの空間だけが不変で、少なくともここ数年で一度も空いたことがないであろう空間の奥に僅かばかり見える埃の堆積もまた不変であった。こうしてここに再び保管され、そして忘却される。僕は明日、この本を手に取ることはないだろう。不意に家の自室の物置に仕舞い込まれた数十枚の手紙を思いだした。
鞄を持って、図書室を出ようとした。消灯のストロボの光闇の間に間に、閃きの像があの生徒の輪郭を生んだのであった。と同時、生徒の像に重なるようにして少女の体が現れた。愕こうとして、次の愕きに繰り越されたのだった。少女の唇が僕の唇に触っていた。
僕の意識は廊下に投げかけられていた。
「プラトニックなキス、案外、簡単なことなのね」
温かな息吹が肌にかかった。
八
三月に入ると、少なくとも早朝布団から出られないような事態には発展しなくなり、日中、白靄を戴く山々は相変わらずであるが、風景一帯の比率でいえば春の兆しが読み取れるようにはなった。が、冬が跡形もなく去ったと断言できるようになるにはもう一月はかかるだろうと思う。リビングの三分遅れた壁時計が七時を告げていた。薄い雲がなかなかの速さで流れていき、分けても尾根の、季節に富んだ鈍いろにやってきた雲が重なると吸収され、版図を拡げているかのようであった。昼ごろに祖母を迎えることになっている我が家は前日のうちに彼女の通り道、もしくは目にとまるであろう部屋を厳選して掃除しておいた。掃除機をかけ、雑巾がけし、風に戦がれ、乾燥を待つ、父とともに毎週のようにやっていたものだ。雑巾がけの時、父が先をいき、少しずれた位置で僕がゆく、和尚でも目指しているのかと訪れた祖母はからかわれたこともあった。これだけでなく、他の場面も回想してみると祖母はよくよく笑っていた。僕と父の前では、笑うことを宿命づけられているように。その宿命を前提にすれば、あの日、お斎の席で明朗に笑っていたのもなんら不思議ではないように思えてくるが、とはいえ、あそこまで笑えるのはなに者かに脅されでもしているのではいかというほどに滑稽であった。記憶というものは、当時から月日を経れば経るほどにいかようにも変貌を遂げて見せるもので、祖母の笑いが善悪どたちらの観念に属していようとも、今になって振り返ればどちらともとれるのである。あの鮮明さを孕んでいた父の死に顔も数ヵ月の経過で綻び、模糊となって、肌の肌理や顔の骨格、生前の父との会話ですらも父の声音にところどころノイズが走るまでになっていた。
そういうものだ、と少女は云った。実際は、少女ではなく、少女の母から伝えられたものなのだそうだ。子共とはそういうものである、いつも誰かに与えられ、そして自身は乞うしかないのだ。子供とはそんな時代のことを指しているのである。それこそが父の死から学んだ唯一だった。
恰も冬に似つかない麗かな日中である。いや、最早疑いようのない早春であろうが、春を認めるのは桜が咲いてからだ。
ここまで固執するのはいつからか、切っ掛けはなんであるか、僕にはもうわからない。しかし、季節とは明瞭であってほしいという思いがあった。例えば春の雪。例えば雪の果て。絢爛たる名称に潜む儚さというものを見出せなくはないが、四季とはただ円環し、ただ時の流動に合わせて流れるべきなのだ。とすれば季節の刹那的な重なりであっても、それは流動の乱れであり、調和の崩壊である。考えるに僕は雑然を厭う性質なのかもしれない。整然であることこそが心身に安穏を齎すのかもしれない。父の絶対的な死に対して純粋な哀しみを得られたのもそこにあるのだと思われる。
昼過ぎに祖母はやってきた。大きな冷凍バッグに一週間相当の料理がそれぞれパックされて収納されており、最低限の食品と調味料のみのさながらミニマリズムが云う空白の美を体現した冷蔵庫を埋めていく。老い、頽勢した祖母の動作はいちいち力んで見え、一世一代の大仕事に勤しんでいるかのようである。
「独りの生活は馴染んできた?」祖母は作業の片手間に尋ねてきた。淡々として、父の俤は含蓄されていないのがわかった。
「おばさんが助けてくれてやっと息が吐けるよ」
「そう」
それからもせっせっとリビングや自室の電球を替えたり、浴槽を漫勉なく掃除したりと家の雪解けをさせていくのだった。僕はなにをするでもなし、縁側で風に当るばかりで、祖母が廊下を行き来して僕の姿を捉えると、その度に「月一でいいから空き部屋も綺麗にしておきなさいよ」と口喧しくいうばかりであった。祖母は一度も助力を求めず、かつて祖父と暮らしていた記憶を頼りとしてあちこちして、床に垂れた汗の一粒、玄関あたりの掃除機の煩音、気が向けば僕も左見右見していた。
澄んだ空は絵画を置いたみたいに雲さえも動かないように思え、山のほうも目を離した隙に厚雲の版図は分裂され、一部の稜線はくっきりと細々の凹凸を清澄に、極めて自然的な、あるべき姿を眸に映していた。天道の直視のできない日照も鳴りを潜め、ぽつんと天辺にあった。
枯木立にも緑が興り、春光の色合いは山麓にまで蔓衍している。
「あー忙しい忙しい」
と、また祖母が通った。
「今度からは自分でやりなよ」
「……」
祖母の姿がなくなると、大きく息を吐いた。居心地が悪いことこの上ない。祖母は僕にそのような気持ちを抱かせて悦んでいるのだろう。掃除機に隠された祖母の笑いを聴いた気がした。そう、あの時の明朗な笑いを。僕の焔は、燃え上がることなく、平静であった。僕の裡までもが春のようであった。
九
祖母は晩飯をつくって、二人で食べた。流石に寒い夜だった。
食後、洗い物をする祖母は父母のことを語った。これまた淡々と、とも思えば口を一杯に広げて笑うのだ。笑いから元の微笑に戻るまでに額や豊麗線やら皺が夥しくのり、微笑は本当は未だ笑い続けているのではないかというほどに深く残っている。
「あの子ったらずっと子供だったのよ。奥さんに会うまでね東京の大学にいてね、出会ったらもう入れ込んで入れ込んで、それで結局中退したのよ。それで、お父さんと会うのが嫌だって、あの子、日本中、遊び回ってねぇ。それで奥さんが懐妊したって、どうしようお金もない、働き口も目立ったところがないって、最終的にはこの家に二人して戻ってきて、あたしとお父さんの前で土下座、お金を貸してくださいって! もう大泣きで、お父さんも怒りもなにも吹っ飛んで、大笑いしたの」
「……僕の母さんって、どういう人だったの?」
「え? ああ、そっか。知らないのかい。でも、あの子、いつか話すっていってなかった?」
「話してたよ。でも」
「話が長かったんでしょう」
首肯した。
「厄介なことにね。子供だから、自分語りは好きだけど、人の話はすぐ飽きるのよ」
「……そうかも」
「そういう飽きっぽいところは奥さんはなかったわね。ずっと尻に敷かれていたし、そもそも中退したのも彼女が懇願したかららしいわよ。それもあってお父さん、怒るに怒れなかったのよ。まあ、あたしは親として叱ったけれど」
「……」
「ねえ、あなたは早く大人になりなさい。大丈夫、大人っていうのはそう難しいものじゃないから。あの子は子供のままだったけどね。ずっと、子供のままだったけれど。あなたは、そうあの子の子供でしょう。だから、大人になりなさい。難しく考えなくていい。死ななければ、子供は大人になるのだから」
「うん」
「そう簡単に嘘をつきなさんな。あたしみたいな女になるよ」
「嘘じゃないよ」
「……よろし。それじゃ、あたしはお暇するわ」
「暗いけど、大丈夫?」
「ええ、事故にあって若い人らに笑われないように注意するから、大丈夫よ」
「そう」
「それじゃあ……あー、あと、あれ、お金はあたしの、ほら和室の引き出しに入れてあるから」
「え、あ、うん……あと、そうだった」
「どうしたの?」
「あの、母さんって、なんで死んだの?」
「……女が一番幸福な時に眠りにつけたの。少なくとも奥さんはそうだったと思うわよ」
そう残して帰っていった。夜の一端に光が満ちた。車に乗り込む際もまた忙しなさそうにしていた。
静寂の帳が下りた。平家にも、そして祖母にも。
仏壇の前に立って、父母の写真を撫でてやった。埃が拭い取られ、二人の世界は元の色が戻った。僕は泣いた。なにも考えず、難しく考えず、ひたすら泣いた。
数日して、仏壇に祖母の写真が立てられた。人が燃えるのを僕は、初めて見た。
十
すべてが空想のようである。
雪の街を駈けながら、夜の街を往来の喧騒にあてられ、更に気分を昂らせながら僕はどこかに向かっているのだった。夥しい光闇の境を僕の足は
その日、
夜の街はこうして雪にすべてを
走りながらに、そういえば、と僕はいつか、雲の一つとしてない
鄙びた平家はどこよりも夜空が綺麗で、あの日の白く艶やかな月は、仏壇からは拝めず、代わりに山々に月いろが幽かにかかっているように見え、その
僕は、病院に着くと、急ぎ分娩室へ促された。女は分娩台に寝ころび、天井の照明に目を細めていた。苦心が顔に浮かび、僕の存在を察しているかよくわからなかった。
「いかがされますか?」誰かから問われた。部屋に留まるのかどうなのかの問いかけであった。誰かも判らないまま、「ええ」と答えた。僕は入り口のほうで立ち尽くし、ただただ成り行きを見守り、傍観者だなと思って、なんだか変な感覚になった。数人の女性と台の女からかけ離れ、ゆっくりと僕の脈拍が正常に戻るのを感じた。なにも言葉がかけられず、そして時間に余裕があったとしてもなにも言葉がでないだろうと後悔とそして自信のなかで思った。
人の美しさとは無垢である。ずっと昔にそう考えていたが、確かにその通りであった。苦痛に歪む顔に僕は手を握ることもせず、ただひたすらに無垢だなと、そう心のなかで納得した。女と僕の信頼は愛として変容しており、僕が次第に薄白くなる女に微笑みかければ、女は苦痛のなか、苦悶のなか、僕の愛を心で叫ぶだろう。そう、繋がっている。
……繋がっている。
はっとその時、僕はあることを脳裏に浮かべていた。ある一つの未来。僕が老い、子供が育ち、あの平家の縁側に坐っているのだ。そして訊く。
「何を見ているんだ?」子のあまりの執着の姿に「憑りつかれたようじゃないか」
僕は、そう、僕と女の間に空想を描いているのだ。よくわからなかった。これが現実である保障はない。すべてが空想のようである。そういうのが好きなのだ僕は。
女が母のときと同じように出産時の出血多量で死に、子供が十七になって母の死の顛末を知り、そしてある日、縁側で紅葉の空想を見る。
この女が死ねばあり得るかもしれない。生きていれば来週の、二月一日の誕生日になにか買わなければならない。なにもあげないのはいけない、だがそれだけだ。
女は美しく顔を歪ませ、叫んでいる。生きているのか、死のうとしているのか、『そういうの』が
了
紅葉の影 齋藤夢斗 @toyume1225
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます