燃やして

松藤四十弐

燃やして

 中学二年生の秋。あの季節はよく覚えている。九月の終わりに台風が来て、十月は雨がほとんど降らなかった。あの秋の紅葉は僕の人生の中で一番美しいものだと言ってもいい。燃えるように赤く、存在を誇るように黄色く、それらが枯れていくものだとはとても思えなかった。だが、そのおかげであの秋を覚えていられるのではない。覚えていられるのは、僕の大切な思い出がその秋の一日にあるからだ。あの日は空が高く、小さな塊になった雲がいくつも風に流されていた。僕と彼女は公園のベンチに少し離れて座っていた。


 その小さな公園は住宅街の高台にあった。僕の住んでいる家から近く、彼女が住む家への近道だった。そこからは、街が見えた。街には僕たちが通っていた中学と、クラスメイトが住んでいる団地と、遊びに行くために必要な駅と、入院したことのある大きな私立病院と、大型スーパーマーケットと、僕らがよく一緒に通った狭い道があった。

 公園には誰もいなかった。元々あまり目立つような公園ではなかったが、僕は誰も来ないといいなと思っていた。僕は彼女の方を向きながら、彼女はうつむきながら僕と話していた。話の内容は、学校のこと、テレビ番組のこと、他愛のない話だった。彼女はそんな話がしたいわけではないのだと、僕は分かっていた。彼女の表情には、いつもの笑顔が見え隠れしていたが、目にはうっすら涙を溜めていた。

 悪い予感はしている。でも、僕に何ができるんだ? 

 だが、それでも僕はその状況をどうにかしたくて、でも何と声をかけていいか分からなくて、次第に頭が真っ白になっていった。

 当たり前のように会話は止まり、風が木々をなでる音と、僕たちの近くに、色づいた葉が落ちる音がよく聞こえるようになった。

 しばらくすると彼女が言った。

「好きな人ができたの……」

 僕は何も言えなかった。そして、不思議な感覚に陥った。重い何かに、重力に引き寄せられるように落ちる感覚、どこかへ引っ張られる感覚。

 僕はその感覚から逃れようと、彼女をしっかりと見た。

 確かに、いつもの彼女と違う雰囲気だったから何かあると想像はしていた。でも、そんなこと考えたくなかった。だから……僕は、よく分からなかった。何も言えないでいた。

「ぁ……」、と彼女は何かを言おうとした。だが、その次の言葉を言う前に彼女は泣き出した。彼女は身につけていた白いマフラーで涙を必死に止めようとしていた。だが、それが止まりそうにはなかった。

 僕は彼女が何を言おうとしたか考えた。でも、何を言おうとしたのか、僕には分からなかった。だけど、たぶん、僕も彼女を悲しませたくなかったように、彼女も僕を悲しませたくなかったのだと思う。そう思うことで僕は少し救われた。でも、実際は悔しくてたまらなかった。何故なのか知りたかった。僕のどこがだめだったのだろうか。

 そんなことを考えている何も言えない僕に、彼女は涙を流しながら笑った顔を見せて言った。

「……好きになれてよかった。付き合えてよかった……ありがとう」

 そして、座っていたベンチから立ち上がって公園の出口へ歩いていった。彼女は一度も振り返らなかった。立ち止まる素振りさえなかった。

 何故だろうか、僕は最後に彼女が笑ったのを見て、ふられたという事実を少しの間忘れてしまっていた。それが少し可笑しく思えた。だが、僕は思いを内に留められなくなって、いつの間にか泣き出していた。


 どのくらい時間が経っただろうか。僕はまだ公園にいた。空の向こうはバニラの色をしていて、そのもっと向こうはオレンジの色をしていた。懐かしい色だった。

「夕方か……」。誰もいない公園で僕はつぶやいた。

 同時に、あの時の彼女の言葉がフラッシュバックして、僕の心は何度もどこかに叩きつけられていた。

 まだ涙が溢れてくる。

 彼女は本当に僕と付き合えてよかったのだろうか。あの時、僕は引き止めることが何故できなかったのだろうか。好きな人って誰だろうか。彼女は大丈夫だろうか。僕は彼女に何を残したのだろうか。

 答えは出なかった。だが、そんな事を考えていると、部屋にある机の中に彼女にもらった物が入っているのを思い出した。

 それは、もう、僕にも彼女にも関係ない物。

 燃やそうと僕は決心した。

 僕は立ち上がって走って家に帰った。


 家に着くと玄関には鍵がかかっていて、家に誰もいないことが分かった。僕はポケットから鍵を取り出して玄関を開けた。親はまだ仕事から帰っていないのだろう。

 僕は二階にある自分の部屋に向かった。

 部屋は机とベッド、本棚だけの殺風景な六畳だ。フローリングの床には何にも敷いていない。今朝と何も変わっていない部屋がそこにあった。

 僕は早速、机の引き出しを開けた。机の中には一緒に撮ったプリクラが一枚、彼女からもらった手紙が数枚入っていた。

 意外と少ないな、と僕は思った。もっと多いと思っていた。物より思い出の方が多いんだなと、なんとなく思った。僕はまた泣き出した。そして思い出していた。


 僕が一年生から二年生になってすぐの事だった。僕はクラス会議で無理矢理、風紀委員にされて、放課後の委員会に出席させられた。そこで、彼女と出会った。彼女は三年生で、風紀委員の副委員長をしていた。目鼻立ちはしっかりとしていたか、丸い輪郭のおかげできつい印象はうけなかった。もう少しシャープな顔立ちだったら美人だったかもしれなかったが、もしそうだったとしたら僕は恋になんか落ちていなかっただろう。彼女は笑った顔がとても可愛かった。愛嬌がある笑顔と言ってもよかった。背は高い方だったか、その時すでに百七十センチを越えていた僕よりは小さく、肩まで伸びた黒い髪は他の女子とは違い、どこか爽やかだった。その爽やかさはどこから来たものなのか、僕は結局答えを出せなかったが、彼女が言うには、小さい頃、よく川で泳いでいたからだそうだ。

 僕はよく彼女と一緒に仕事をした。朝、校門の前に立って挨拶をしたり、ポスターを制作し、壁に貼ったりした。今思えば楽な仕事だ。そして楽しい時間だった。

 そうしているうちに僕は彼女に惹かれていった。恋に落ちたと言えば一番分かりやすいだろうが、僕が思うに、僕は人魚の歌声に惚れて、海に飛び込む船乗りだった。どんどんと僕は進み、悩み、苦しみながらも、わくわくとしていた。

告白は僕からだった。

「好きです」

 風紀委員会が終わって皆がバラバラに帰ったあとに僕は言った。

 返事は返ってこなかった。彼女は何か言うつもりだったかもしれないが、その前に僕は逃げてしまった。家に帰って僕は後悔した。逃げたことと、付き合って欲しいと言えば返事を待つことになり、何か聞けたかもしれないということを。その日は悶々としてうまく寝ることができなかった。それでも明日は、時間というものは迫ってくる。

 次の朝、僕は朝の挨拶をするために校門へ行った。そこにはすでに彼女がいた。彼女はいつもどおりの、僕の好きな、あの笑顔見せてくれた。

「おはよう」と彼女は言い「私も好きよ」と言った。

 その日の帰り道、僕は彼女と手を繋いで帰った。なにもない。なにもない普通の道を。その時、彼女はそっと僕の手を包んでくれていた。なにもない。なにもない普通の道を歩いて帰っていただけなのに、隣に彼女がいるだけで僕は嬉しかった。

 デートはあまりできなかった。彼女が三年生ということもあって、受験勉強のための塾に通っていたせいもあった。それでも何度か僕らはデートをした。

 一番印象に残っているのは一緒に遠くの街まで出かけ、買い物に行った時だ。僕らは知らない街の雰囲気と道に、悪戦苦闘した。そして疲れ切った体を休めるために、帰りによく知っているファミリーレストランに入って軽く食事をした。あの日の僕は背伸びしたかったのか、格好をつけたかったのか、コーヒーを飲んでいた。そのコーヒーが美味しいものなのか、美味しくないものなのかよく分からなかったが、僕はそれをおいしく飲んだ。美味しいものを食べるより、おいしくものを食べるほうが幸せだと彼女と話した。

 その後は、彼女が多忙になり、あまり特別なデートはできなかった。僕らのデートといえばささやかなデート。学校からの帰宅路を一緒に歩くことだった。その頃になると彼女は疲れているせいもあってか、僕らはうまく話せなくなっていた。僕は自分の気持ちをあまり言えなかった。だが、その代わりに手をしっかり繋いで帰った。そして、よく彼女につぶやいていた。

「好きだから。君の事」、と。

 それは言うべきことだったのか、僕は今、疑問に思っている。言わない方がよかったのかもしれない。もしかしたら彼女は……と色々と思案する時がたまにあるが、あれはもう過去のことで、僕にはやはりどうにも出来なかったのだ。


 僕は泣きながら公園に向かっていた。小学生の無邪気な声や、犬達の大きな鳴き声が聞こえてきたが、そんなものは無視して歩いた。夕日が沈みきってしまう前に公園にたどり着きたかった。

 僕はなんとか夜になる前に公園に着いた。そして、僕は僕達が数時間前まで座っていたベンチに座った。

 もう公園には誰もいなかった。今度も誰にもいて欲しくなかった。

 僕はベンチに座って彼女との思い出を見つめていた。

 これは初めてデートに行ったときに撮ったプリクラ。この手紙は授業中暇だったから書いたって言っていたやつだ。この星型のシールが貼られた手紙もそうだ。彼女の文字は女の子っぽくない、事務的な字だけど……ハートとか……そういうのだけは可愛く書くんだよな。

 その中に僕は一つ、見覚えがない手紙をみつけた。真っ白で、文字の一つも書かれていない手紙。

 見覚えがないというは間違いだった。

 真っ白で何も書かれてない手紙は僕が彼女に出そうと思っていた手紙だ。文章を書くのが苦手で、いつも作文とかやり直させられている僕。それでも、なんとか書こうと考えて、それでも、書けなかった手紙だ。あの時、どんなことでもいいから、不器用でもいいから何かを書いて彼女に渡せていれば……僕はここにいなくて済んだかもしれない。

 僕の心の中はそういう思いでいっぱいだった。僕のせいだ。そう思った。

 夕方が終わり、外灯に灯がともった頃、僕はようやく決心がついた。

「燃やそう」

 過去の自分に言い聞かせるように小さく、自分でも耳を澄まさないと聞こえないくらい小さく言った。だが、そう決心したのはいいが、火をつける道具を忘れ、仕方なく僕は家へとライターを取りに戻った。

 公園に戻ってくるとベンチの奥の方に淡く光る炎が見えた……。

 彼女だった。

 彼女は何か燃やしていた。だが、なんとなく分かった。きっと彼女は、僕との思い出を燃やしていた。彼女は淡い光を見つめながらそこに佇んでいた。

 僕はそこから逃げた。彼女が僕との思い出を燃やしていたのがとても寂しかった。

 だが、本当の理由は違った。本当の理由、それは自分も同じ事をして彼女を悲しませたかもしれない……、そう思うとどうにも居た堪れなくなったからだ。それが一番の理由。

 結局僕は家へと帰り、ベッドの中でずっと泣いていた。彼女との思い出は燃やせなかった。自分の気持ちさえきちんと燃やせないままで、燻り、もやもやとした気持ちが心の中に充満した。せき込むように、たまに彼女が僕の中からよみがえった。

 それでも明日は迫ってきた。意味があるのか無いのか、その価値を見いだせない時間も過ぎ去った。あの後、僕は彼女を見ていない。

 もちろん同じ学校だったが、僕は三年生の所に近づかないようにしていた。風紀委員の仕事もサボった。

 彼女からもらった手紙は、街にあったごみ箱に捨てた。どうしても燃やせなかった。彼女への思いは時間と共に消えていったように思う。あの笑顔を忘れる事はできなかったけれど、見ようとは思わなかった。


 僕が三年生になって、しばらく経った日、久しぶりに公園に行った。僕たちが座っていたベンチは消えていて、新しいベンチができていた。タバコを吸っている高校生が何人か座っていた。それだけだった。

 彼女がいたとか……彼女の手紙がベンチに……とか、彼女から手紙をもらわないにしても、彼女の僕への思いを伝えてくれる人が現れてくれるかもしれない。僕はどういうことか、なんとなくそう思っていた。だが、現実は現実。そう簡単にそんな事が起きるわけもない。彼女と過ごした時間が、彼女の笑顔が好きだった日々が……どこかで読んだ他人の話のように思えた。

 でも、僕は諦めきれなかった。その日から、しばらくの間公園に通った。だけど、やっぱり誰も現れなかった。


 僕は彼女の思い出になれたのだろうか。

 僕は彼女の何かになれたのだろうか。

 僕は彼女の――。


 今度は僕が佇んでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

燃やして 松藤四十弐 @24ban

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る