『+』

@madoX6C

『+』

家に幽霊が出た。



一緒にゴキブリも出た。




生まれて初めて見た幽霊を前に「ひっ」と声を上げながら、息を吸い込んだまま固まってしまった。


次に、幽霊の真横にある壁をよじ登ってくる黒光りする物体が目に映った。見慣れないスピードで動く黒い「何か」を認識し、その動きからそれがゴキブリだと遅れて理解した。


理解した瞬間、冷たい指で撫でられるような感覚が背筋を伝ってくる。背中を起点にして、全身の筋肉から熱が奪われる。代わりに、凄まじい嫌悪感が身体を満たした。


「ひぃぃえぇぇぇぇ~~~~」


強烈な生理的嫌悪が刺激になって、ようやく声が出せた。情けない叫び声の割に、やたらと発声がしっかりしていた。幽霊を見たときに吸い込んだ空気と、緊張から解き放たれた筋肉が偶然にも腹式呼吸のような運動を起こしたことが功を奏したのだろうか。


けれど、そんな叫びは虚しく響く。相手はすでに死んだ元人間と昆虫だ。こちらの言葉はどちらにも通じない。


改めて、目の前の二つの脅威に意識が向く。



一方は、女の姿をした幽霊だ。


死因は交通事故か何かだろう。フロントガラスの残骸と思われる、


おまけに、事故の衝撃で車外に投げ出されたのだろう。右腕は百八十度捻じ曲がり、左腕に至っては後続の車に轢かれてちぎれたのか、肘から下がなくなっている。


どの傷口からも出血はしていない。生きた人間でないことは、一目瞭然だった。


顔は長い髪が覆っていて一部しか見えない。


しかし、事故で頭を擦り付けたのか、せいで、左目とその上部のあたりだけ髪に覆われていないスペースが生まれていた。


その隙間から、充血した赤い目がじっとこちらを見ている。



もう一方は、黒曜石のように鈍く光る不快害虫だ。


今は動きを止めている。しかし、時折触角が周囲を探るように揺らぎ、次なる動作を予感させてくる。


所詮は、虫。何を驚くことがあるか、と言う人もいるだろう。幽霊の方が恐ろしくて、ゴキブリなんて目に入らないだろう、と。


それは余りにも短絡的な思考だ。ゴキブリとは十分幽霊に匹敵する恐怖の対象だ。


何を隠そう、俺は北海道の出身だ。大学進学を機に、東京に引っ越してきた。


そう、だった。これが人生初ゴキブリである。その衝撃といったら、計り知れない。


地元にいるときに「そう言えば、東京はゴキブリがでるからねえ」と呑気に言ってきた母との雑談がきっかけで、ネットでゴキブリの画像検索をしたのが良くなかった。


おかげで、脳髄が黒く汚い液体で満たされるかのようなグロテスクな気分を思う存分に味わってしまった。


その経験が牙をむいてくる。敵はゴキブリそのものというよりも、ゴキブリがきっかけで己の内に湧き上がってくる不快感と言ってもよかった。



幽霊という存在によりもたらされるからの心理的恐怖と、ゴキブリが想起してくるからの生理的嫌悪のせめぎ合いだった。


こちらの心の動揺が伝わったのか、両者が次の一手を打ち出してきた。


まずは幽霊側、ようやく身体を動かせた俺に金縛りをかけてきた。幽霊の眼力には、人を拘束する力があるのか、先ほど以上に身動きがとれない。


──このまま幽霊が、自分の方に近づきだしたら…


悪い予感ほど当たる。女は折れて骨が飛び出した足を引きずって一歩を踏み出した。およそ生きた人間では不可能な力学が働き、ぐちゃぐちゃになった足でも確実に歩みを進めてくる。


──もし幽霊に触れられる距離まで近づかれたら、自分はこの女に何をされるんだ…


そう思ったときに、女が初めて喋った。


「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い」


恐怖が全身を覆うかと思った矢先に、ゴキブリ側も行動を起こした。


──何かが擦れるような音がした。


金縛り中でも、唯一動かせる眼球が自然と音の方に引き寄せられる。


見ると、


まだ完全には開ききってはいない。醜い体の中で唯一綺麗と言えるかもしれない、半透明な羽を外に晒し始めている。


羽を格納していた部分が明らかになるにつれ、体の内側が露になっていく。


こいつ飛ぶ気か!?こっちは今、動けないんだぞ!!


──それに…


今、俺は金縛りにあっている。身体が動かなくなる直前、叫び声をあげていたせいか、



──もし、このゴキブリが、飛んできたら…口の中に飛び込んできたら…


一つも魅力的でないその体に釘付けになる。意図せず、開ききった羽の中央、殻が開いたことで見えるようになった、内側の背中を凝視する羽目になる。


異変に気付く。こいつの腹、


──まさか、こいつ、卵を抱えていやがる!?


最悪の想像が頭を支配する。自分の口の中が、成虫と今にも孵化しそうな数十匹の幼虫でいっぱいになる。


嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ


そう考える間にも、女の幽霊は先程よりも距離を詰めてきている。最初の位置から、丁度幽霊と自分の中間地点に到達している。


もうすぐ、幽霊の手が届く位置が来る。


女と目が合う。なまじ、人型をしているせいで、相手の目を見てしまう。「フフフフフ」と女が小さく笑っていたことが、この距離になって初めてわかる。


嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ


死にたくない。そう思った。だが、その思考すら中断される。


──ブゥン、と音が鼓膜を揺らす。


まさかと思って壁の方に視線を向ける。ゴキブリが、自分に向かって飛び出してきた。


ひぃぃぃぃぃぃぃぃ、と心の中で絶叫する。


女が近づいてくる。


ゴキブリが飛び込んでくる。



女が近づいてくる。ゴキブリが飛び込んでくる。


女が近づいてくる。ゴキブリが飛び込んでくる。女が近づいてくる。ゴキブリが飛び込んでくる。



幽霊とゴキブリのどちらにも集中できない。


──もう…



──もう、感情が滅茶苦茶なんだよぉぉぉぉぉ!!!!



「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」


動かせない身体の代わりに、自分の内側で叫び声をあげる。


唐突に、全身の緊張が解けた。


気づくと金縛りが解けていた。幽霊がいなくなったのかと思うが、目の前には今も近づいてくる女とゴキブリがいる。


「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」


それでも、身体が動くだけましだった。声を上げる。逃げ出すこともできずに、その場にへたり込む。


最後の抵抗のように、せめて目の前の現実から逃げ出そうと思った。


何も見たくない。目をつぶる。


続いて、見えなくなった脅威を、それでも肌で感じるからか、顔を覆って隠そうとした。


けれど、幽霊の姿を見ないために目を塞ぎたい思いと、口の中にゴキブリが飛び込むことを防ぎたい思いがぶつかり合った。


目から口にかけてを覆うように、自分に向かってくる脅威を退けるかのように、


──もうダメだ…


脅威は目前に迫っている。こんな抵抗は無駄だ。


幽霊が自分を死に追いやるだろう。残っている手で自分に触れれば、それで終わりだ。


ゴキブリは自分の身体にぶつかってくるだろう。ゴキブリへの嫌悪感が最大まで高まっている今、肌に触れでもすれば、自分はショック死するかもしれない。



──幽霊が先かゴキブリが先か


最悪の二択は、すぐに確定するはずだった。


いつまでたっても、何も起こらない。


死んだ人間の冷たい手が肌に触れることも、黒く細長い何本もの足が肌を撫でることもなかった。


恐る恐る腕をどけ、薄目を開く。


「…どういうことだよ」


目の前には、いつもの光景が広がていた。


バイト終わりに自分を出迎えるリビングルームの光景。何の変哲もない日常の世界。



──その一室には自分以外、


わかったことが二つある。


この世界には、幽霊が実在する。


東京には、ゴキブリがいる。



              * * *


「…ということがあったんです」


大学生の飼原 羊介かいばら ようすけは、の中で自らの体験を打ち明けた。


いや、箱というには装飾や彫りが丁寧過ぎる。あまり馴染みのないだったため、羊介には箱という形容しか思い浮かばなかった。


羊介は、の中にいた。


あの夜から数か月が経過したが、いろいろなことが起こり過ぎていた。心身が消耗する感覚がまとわりつき、羊介は茫然としていた。


そんな状態もあって、その日大学終わりに気まぐれで、最寄り駅の反対口の周囲をぶらぶらと散策していた。その道中で見つけたのが、この教会だった。


羊介は自らの身に降りかかった出来事は、何かこの世ならざるもののせいで起こるのだろうと考えるようになっていた。


だから、自然と教会に足を踏み入れ、映画の中でしか見たことがなく、当然知識も映画で描写された内容しか持ち合わせていない「懺悔室」に縋り付いた。


羊介は、懺悔室を神父が相手をしてくれる相談ブースのようなものだと思っている。


だから、人ひとりでいっぱいになる窮屈な室内も、刑務所の面会室を思わせる網目の窓も新鮮なものとして目に映った。


中でも一番驚いたのは、向かいの部屋にすでに人がいたことだ。


「…えっ!ああ、えーっと、ようこそ、いらっしゃい…?」


向かいの相手は、まさか来客があるとは思っていなかったのか、不意を突かれたように動揺していた。


気まずい。こういうときは、相手の方から会話の取っ掛かりを提示して、自然な流れで懺悔に導くものじゃないのか?羊介は手の平に汗をかいている。


それでも、向かいの相手──神父さんだろうか?声からすると男性みたいだけど──は無言を貫いている。沈黙に耐えきれず、羊介から声をかける。


「…あの、神父さんですか?」


「え?ああ、そう、うん、神父神父」


「えっと…相談したいことがありまして」


「そう…えー、じゃあ、折角だから、私でよければお話伺いましょう」


…ほんとに大丈夫かな、この人?どうも頼りない。神職についている人間の、ある種毅然とした態度が微塵も感じられない。


一抹の不安を感じながらも、羊介はあの夜の出来事を神父に詳しく語っていた。



ひとまず、幽霊とゴキブリに脅かされた夜の顛末を聞かされた神父が、向かいの部屋で椅子を軋ませる音を出している。


「そんな経験をするなんてねぇ…ツイてるんだかツイてないんだか」


「ツイてないに決まってるでしょ…!」


羊介はつい、感情的に言い返す。


「本当に死ぬかと思ったんですよ」


「けど、こうして生きてるわけだし。怖いものと嫌いなものが一緒に襲ってきて大変だったろうけど、結果的には丸く収まったんだから」


「そんな簡単に割り切れるわけないですよ!」


それでも神父は腑に落ちていない様子だった。窓越しなので姿は見えないが、この場に満ちる空気は羊介に優しくなかった。


──ペラッ、と何かをめくる音が聞こえる。


その音が二呼吸おきくらいの間隔で繰り返される。


初めは、聖書から何か羊介に送るべき言葉を引用するため、頁を捲っているのかと思った。


しかし、いつまで経っても迷える青年に向けた導きの言葉が口にされる気配はない。


──この人、漫画読んでない…?


文章を読むにはペースが早すぎるし、羊介の頭には頬杖をついて漫画を読む神父の姿が自然に浮かんできた。


一気に目の前の姿が見えない神父に対する不信感が湧いてきた。単純に腹立たしい。


羊介の期待どおりと言うべきか、神父はけだるさを滲ませる口調で言葉を重ねる。


「…うーん、でもさぁ、こうは考えられないかなぁ。幽霊とゴキブリが一緒に現れて大変な目にあった、というより、、って」


「どういうことです」


羊介には意味がわからなかった。神父が補足するように続ける。


「もし幽霊とゴキブリが片方しか現れなかったら、それだけに集中しちゃって、もっと最悪な連想とかしてたかもしれないじゃない。君も言ったでしょ?、って。両方現れたおかげで、うまく恐怖が分散できたとも言えるんじゃない?」


どうにも羊介は承服しかねる。


さらに、神父はどこか楽しげに思いつきをぺらぺらと喋る。何が楽しいんだ、こっちは真剣なのに。


「それにさ、羊介君にとっては、幽霊もゴキブリも、どちらも嫌な存在なんでしょ?つまりさ、を抱く。てことは、そいつらが同時に現れたことで、ってことじゃない?」


神父は、これは傑作だというように、へらへらした態度でそう言った。


この人、どこまで本気で言ってるんだ?羊介は半ば呆れだした。


「冗談じゃないですよ!真面目に聞いてください」


「真面目に言ってるんだって。実際、幽霊とゴキブリはどこかに消え去ったんでしょ?」


「それは…そうですけど…でも」


羊介は状況が神父有利に傾いているようで焦った。いつから勝負になったのか。


最早相談したいというより、神父のくだらない説を覆したい一心で、羊介は


「…他にもあるんです!」


「他って?」


「あの夜以降、悪霊がついたみたいに、似たような不運に巻き込まれてるんですよ、俺は!」


そう言って、羊介はあの夜からこの懺悔室に入るまでの数か月間に起きた事件について語り出した。



              * * *


幽霊とゴキブリに出会うという初体験を同時に経験し、両者が忽然と姿を消すというそれ以上に稀有な体験に、羊介はしばらく困惑していた。


それでも、大学生活にバイトのシフト、せわしない毎日は三週間程度で羊介を日常に連れ戻した。


あの夜の出来事が頭の片隅に引っ込みだした頃、羊介は大学の学費を振り込みに銀行に足を運んだ。


運悪く、銀行は大変な混雑だった。整理券を機械から千切ってただ椅子に座って順番を待った。


スマホをいじるが、それでも順番は回ってこない。手持ち無沙汰になり、靴紐を結び直してまで時間を潰していた。


結び終わる寸前に銀行に大声が響いた。


何だろうと思い、視線を上げると、が一人立っているのが見えた。


──だった。


「びっくりしましたよ。それでも次の瞬間には変に冷静になってるんです。そのときは、男が持ってた銃に意識が向いたんです」


「…はぁ、散々な目にあってるねぇ」


真剣に聞いているかわからない神父をよそに、羊介の語りに熱がこもる。


「持ってたのが猟銃だったんです。これが映画とかでよく見るピストルなら、ああモデルガンでしょ、って心の余裕持てたかもしれないんです。でも、猟銃ですよ?てことは、ガチの銃じゃないですか。日本で手に入る、本物の可能性の方が高いマジの銃じゃないですか…」


「マジの銃だねぇ」


そのことに意識が向いた羊介は、一気に血の気が引く思いだった。幸い、強盗の男はまだこちらに意識を向けていない様子だった。それでも、心拍がどんどん上がっていく。


──あっ、やばいかも。羊介は自分の恐怖が閾値いきちを超えそうな予感を察知した。銀行で、とこんな状況でも見栄を気にしていると、突然は起こった。


ガシャァン!!と轟音が鳴る。羊介は驚いたが、座っている位置からはが始まりから終わりまですべて見えた。


──


「えぇ…そんなことってあるの…?」


「俺だってそう思いますよ…!」


銀行強盗に巻き込まれて、恐怖に怯える暇もない内に、その強盗が銀行に突っ込んできた車に轢かれて事件が解決していた。


突っ込んできた車は、別の場所で警察の検問を振り切り逃走、パトカー数台に追われている最中にハンドル操作を誤ったそうだ。


幸い、強盗も車の運転手も命に別状はなく、車を追っていたパトカーに乗った警察により、事態は早急に対処された。


「羊介君、ほんとに災難だったね…」


「…まだあるんです」


「えっ…?」


「事件に巻き込まれた二か月後、また別の事件が起きたんです」


「申し訳ないけど、なんだか聞くのが楽しみになってきちゃったよ」


子どものように言う神父を無視して、羊介は三度目の事件について語り出した。



              * * *


銀行強盗事件、いや強盗未遂事件かつ交通事故の一件を経て、羊介のメンタルはボロボロだった。


あの夜以降、とんでもない目に遭ってばかりだ。呪われているとしか思えない。


尋常ではない落ち込みようの羊介を見かねて、大学の友人たちは傷心のため、羊介を誘ってよく飲み会に出かけた。


そんな流れで、心の隙間を埋める目的もかねて、合コンが開かれることになった。さすがの羊介も、これには心浮かれた。


友人たちの尽力もあり、合コン相手から日時、お店まであっという間に決まった。そして、合コン当日、羊介は一人の女性に心を奪われることになる。


都内の短大に通っているというその女性は、きれいな黒髪で大人しい印象の美女だった。身に着けたアクセサリーも変に都会にかぶれていない控えめなものだったことも、田舎から出てきたばかりの羊介の目には好意的に映った。


合コンの終わりに、勇気を振り絞って連絡先を交換した。相手も満更ではない素振りで、それが羊介の心をさらに浮かれさせた。


驚くほど順調なペースで、映画館でのデート、水族館デートなどを経て、遂に逢瀬のレベルを一段階上げるタイミングを迎えた。


羊介は都内でも評判の高いレストランを予約した。若者が食事をするには雰囲気も予算の面でも最適な店だった。


今回のデートに並々ならぬ熱意を込めた羊介は、ドレスコードやテーブルマナーを調べ、洒落た美容室で髪型を整え、初めて香水を買って振りかけたりもした。


そして、デート当日。食事をしながら、ムード良く会話を進めていると、彼女が真剣な表情で話を切り出してきた。


「羊介さんといると、本当に楽しい」


「いやぁ、僕の方こそ、幸せな気分です」


「そう言ってくれて、本当に嬉しい…実は、羊介さんは信頼できるとわかったから、聞いてほしい大切な話があるの」


「何ですか?僕で良ければ、何でも聞きますよ」


羊介は「羊介さんは信頼できる」と彼女が思ってくれているのだと知り、浮かれ尽くしていた。もっと冷静になるべきだった。


「よかった…」


そう言って彼女は、胸のネックレスに手を添えて言った。


「羊介さん、あなた神様の存在って信じる?私はね、小さいころからお母さんに連れられて、とある特別な人の下で祈りを捧げ続けた結果、神の加護を受けられるようになったの。と言っても、私はまだ力が弱いから、そんなに多くのエネルギーをその身に宿すことはできないって教祖様はおっしゃっていたわ。けれど、教祖様はそんな私に、このネックレスをくださったの。羊介さんは知ってる?神様がこの宇宙を創ったとき、人々の魂を浄化する波動を放出されたの。このネックレスは、その波動を吸収して、人生の幸福に還元してくれる特別な石を削って作られたものなの。羊介さんは男の人だから、こっちのブレスレットの方が似合うと思うわ。それでね…」




羊介は、それ以上もう何も聞きたくなかった。


嬉しそうに話す彼女の姿が、一気におぞましいものに変わってしまったように感じて、羊介は食欲を失い、デート中にも拘わらず手に持ったナイフとフォークをまだ料理が半分以上残った皿の上に重ねた。


せめて涙だけは流さないように努めた。ここで泣き出したら、あまりにも惨め過ぎた。羊介にとって、尊厳の瀬戸際だった。


それでもまだ話を続ける彼女を、羊介は直視できない。ナイフとフォークが器用に置かれた皿を、ただ見下ろし続けるしかできなかった。


だが、突然風向きが変わった。


「それでね、私たちを包む波動は──うっ!!」


突如、彼女が腹を押さえだした。どうやら、激痛に襲われているようだ。周りを見渡すと、他のテーブルでも何人かの客が腹を押さえて呻いている。


「どうもコース料理で出したが原因で食中毒が起きたらしいんです」


「あ~、なんかニュースで見た気がするなぁ」


「そのお店に食材を卸していた会社が、中国人の業者から質の悪い牡蠣を騙されて買っていたみたいで。荒川に自生している牡蠣を、産地を偽装して売ってたみたいです」


「羊介君は、大丈夫だったの?」


「ええ、そのコース料理、メインを牡蠣と鳩肉の二つの内から選べるようになってたので。俺は鳩料理の方を選んでました」


「鳩料理かぁ、珍しいね」


これまでの辛い経験を思い出す内に、羊介はすっかり意気消沈していた。神父に食って掛かる体力は残されていなかった。


それなのに、神父はまだ羊介の感情を逆撫でするようなことを言う。


「でも、今の話を聞いて、むしろ確信したよ。羊介君、君についているのは悪霊なんかじゃない。むしろ善良な存在だ」


「何を聞いてたら、そんな解釈ができるんですか…」


「いや、間違いない。君は恵まれていると言ってもいいかもしれない」


羊介はふざけるな!と怒鳴りつけたい気分だった。けれど、ようやく醸し出され始めた神父の威厳のようなものを感じ、言葉を挟めなかった。


──羊介君。君についているのは悪霊なんかじゃない。





              * * *


「…どういうことですか?」


「そうだね、一から説明してみようかな。そうすれば、君の身に起きた出来事は、ただの不幸な出来事とは違う、別の見方ができるとわかるはずさ」


相変わらず顔を見せない神父は、一度言葉を切ってから、まるで説教のように言葉を溢れさせた。


「君は、これまでに多くの災難に出会ってきている。一方で、君自身の身には大した被害はない」


「…失恋で心が傷ついてます」


「それはそうだけど…でも、食中毒でその女の子が倒れた時に思わなかった?ああ、これでこの場から解放される。もうこれ以上、話を聞かなくて済む、、って」


「それは…」


図星だった。


「羊介君は、これまでに『異教の怪異である幽霊』、『人の金を盗もうとする者』、『みだりに神の名を唱える者』たちと出会ってきた。けれど、彼らから直接的な被害を受ける前に、別の脅威と相殺し合う形で事態が好転してるじゃない」


──マイナスとマイナスが掛かって打ち消し合う。


「これはね、羊介君。。羊介君はをまかされてるんだよ」


「どうしてそうなるんですか?」


羊介には神父の理屈が理解できなかった。


「簡単だよ。だって、羊介君、


思い当たる節がまるでない。


「ほら、幽霊とゴキブリの時は、顔の前でさせてたでしょ」


「それは…でも、他の二つのときはどうなるんです!」


「レストランでの出来事を語るとき、羊介君さ、ナイフとフォークを置いたって言ってたよね?デートの前にはテーブルマナーも調べたんだっけ?」


羊介は肯定する。


「でも、食事中のナイフとフォークの置き方までは調べなかったでしょ?だから、ナイフとフォークをんじゃない?」


記憶を手繰る。テーブルマナーを調べたといっても、検索して一番上に表示されたサイトの内容を真似ただけだった。神父の言うようにしたかもしれない。


「ぎ、銀行はどうです!?」


「確か、待ち時間に手持無沙汰で、って言ってたよね。それって、まで一度すべて解いてから直したんでしょ?」


そのとおりだった。ちょうど銀行に行く前日に、お気に入りのメーカーの新作スニーカーを手に入れたばかりだった。まだ、履きなれていない靴は固く、違和感を感じて紐を一から結び直したのだった。


「そう、を描くからねぇ」


状況証拠は、すべて神父の理論を裏付けていた。


「いやいや、十字を切ったから神様に祈ったなんて…それに、腕や靴紐、食器のクロスは十字っていうよりも、って形じゃないですか!」


「うーん、それはまぁ、羊介君は敬虔な信者ってわけじゃないから、多少十字が崩れても、神様的には許容範囲なんじゃない?」


「こじつけ過ぎでしょ!」


「ああ!それに、斜めに交わった十字って、みたいだし、丁度マイナス同士を掛けたことになるじゃん!」


神父は思いつきのアイディアに、えらく納得している様子だ。


「…そんな無茶な。そもそも、なんで神様がそんなことするんですか。動機がないでしょ」


「…うーん、動機のこと突っ込まれると痛いなぁ。こっちにも、いろいろ事情があるとしか…」


神父は何かバツの悪そうな曖昧な態度を取った。この人、本当に神職なのだろうか?


「…きっとさぁ」


神父は意を決したような空気を漂わせて言う。


「きっと神様も申し訳なく思ってるんだよ。世界を創ったのに、問題だらけのまま放置してさ、さすがに何とかしないといけないって。でも、直接手を下すのはやりすぎなような気もするし…だから、この世から悪を消し去るんじゃなくて、まずは悪同士をぶつけて無くすことで、世の中を良くしようとしたんだと思うよ…」


何とも神父の言い方は歯切れが悪い。


「…で、悪の判断も、できれば人間にやってもらう方が望ましいし、羊介君から見ても悪いものやこの世の罪を、うまいこと消したらいいんじゃないかなぁ、みたいなね…」


「なんでただの大学生の俺がそんなこと」


「まあ、そこはランダムでしょ。後は日本という国なら、最悪神が関与してたってバレても、八百万の神々っていうくらい神様が多いし、その内の誰かの仕業にできるし」


「そんな無責任な!」


神父は「今頃インドの方にも、羊介君みたいな子がいたりして」などと冗談めかして言う。


「いやぁ、だってさ、神様の価値観なんて、人がパンとワインで慎ましく暮らしてた時代のものだよ?今はパンとワインなんて、そのへんのファミレスでたらふく飲み食いできるじゃん!さすがの神でも、現代人の感覚わかんないって!羊介君みたいな子に判断してもらった方が確実だから!」


羊介はもう、悩むのが馬鹿らしくなってきた。真剣に悩むだけ無駄だとわからせてくれただけ、懺悔をしに来た甲斐はあった。


「…もういいですよ、なんかすっきりしました」


「ああ、そう…それはよかったんじゃない?まあ、これからもほどほどに不幸な目に遭うかもだけど、絶対悪いようにはしないと思うし、ね?」


この神父は一体どういうスタンスなんだろう。さっきから誰かをかばうような、羊介にこれまでの出来事を肯定的にとらえさせようとするような妙な言動ばかりだ。


「じ、じゃあ、迷える羊介君に贈り物をしよう。これがあれば、神のご加護がきっと君を守ってくれるよ。頑張って!」


そういうと、神父は懺悔室から出ていき、何やら物を動かしたりする音を立ててどこかへ行ってしまった。


羊介も外に出る。そこには、台とその上に置かれた箱があった。


なんだろう、と思って箱を開けてみる。中には、極限までデザインをシンプルにさせたのネックレスが入っていた。


「贈り物ってこれのこと?」


さすがに首にかけて帰る気にはならない。かと言って、捨てることも憚られる。仕方なく、ポケットに入れて、羊介は教会を後にした。



              * * *


ぼんやりしながら辿り着いていたせいで、教会から駅までの道順を憶えていなかった。


じっとしていてもしょうがない。あたりをつけて歩き出す。


歩きながら神父の言っていたことを考える。


──君は神様に選ばれたんだよ


本当だろうか。幽霊がいる世界なのは、体験して知っている。けれど、神様は?


それに、神父の言っていた理屈で、本当に自分が神様に選ばれるなんてことがあるのだろうか?


はっきりしないが、羊介にはわかっていることがあった。


たぶん、今後も、これまでみたいな経験は続くのだろう。考えてみれば、不幸な体験のせいで感じていた気分の沈みは解消されたが、別に何かが解決したわけではなかった。


ただ、羊介がこれ以上、このについて思い悩むことをやめただけだった。何だったんだよあの神父、全然役にたってねぇじゃねぇか。


だから、せめて羊介にできることは、今後も身に降りかかるであろう脅威に、心身ともに身構えておくことくらいだろう。


そう思って、これまでのこと、これからのことをぼんやりと思案しだす。


恐らく、今後も自分が苦手なこと、怖いこと、悪いことだと思っている対象が、目の前に姿を現すのだろう。


──どんなことを怖がってきたっけなぁ。


小学校の頃は、学校の図書館で読んだ都市伝説の本のせいで、眠れない夜を過ごしたものだ。


中学の頃は、ヤンキーの先輩に殴られて、カツアゲまでされたっけ。あれ以来、ガラの悪い若者を見ると、肝が冷えるようになった。


高校のとき、部活の合宿で他県の宿泊施設に泊まったことがあった。その夜に、自室に蛇が出て、悲鳴を上げて飛び起きたっけ。あれから、どうも爬虫類は苦手だ。



いつの間にか、十字路に立っていた。


こんな所、通った覚えはない。教会を出て、反対方向に進むべきだったか。


自分にとって恐怖の対象となるものを思い浮かべている内に、羊介はこれからも苦労することになるだろうと内心、苦笑していた。


まあ、いいさ。駅までの帰り道に対策を練ろう。今なら、それくらいの心の余裕はあるんだし。


そう思えば、あの神父も少しはいい仕事してくれたかもな──


来た道を戻るため、羊介が振り返るといきなり目の前に人が現れて、ぶつかってしまった。


「…いってぇなぁ!どこに目ぇつけて歩いてんだよ、あぁん?」


羊介が事態を把握するより先に、胸倉をつかまれていた。


見ると、いかにもガラの悪い不良グループが立っている。胸倉をつかむ仲間に向けて、他の連中がニヤニヤと悪い笑みを浮かべている。止める気はないようだ。


突然手が離されて、その場で尻もちをつく。丁度十字路の中央の位置だ。



──いや、神様いるじゃん。さっそく答え合わせしてきてるじゃん。


不良メンバーはこれで許す気はないらしい。ぶつかられた本人は「おい、舐めてんのか?謝りもせずに、いい度胸だな、あぁん?」とやる気十分だ。


いやだなぁ、この年で殴られて泣きべそかくの──


最早抵抗は無駄、されるがままになるしかないと、羊介が諦めかけたとき、後ろから音が聞こえた。丁度それまで、羊介が向いていた方向だ。


その方向から、ハイヒールが地面を叩く甲高い音と、次いで女の声が聞こえる。


「ねぇ──?」


その場の全員が視線を向ける。見ると、コートを着た黒髪の女が立っている。



不良があしらうように言う。


「ああ、はいはい、綺麗綺麗。満足したら、さっさと消えてね、お姉さん。今、俺たち取り込み中なの」


女の纏う空気が変わった。


「──綺麗?本当に?じゃあ、──?」


マスクが外され、口元が露になる。




羊介は立ち上がらない。座ったまま空を見上げていた。すでに逃げる気力を失っている。


もうどうにでもなれと、諦観の中で微睡まどろんでいたかった。


唐突に、視界を覆う空から声が届けられた気がした。自分の内側から響く声のようにも感じられた。



──迷える羊飼いよ


──授けられた寵愛により、この世からを葬り去るのです


神父から授かった十字架を思い出す。ポケットに手を入れ、取り出す。


神は乗り越えられる試練しか与えないという。


一体、勝手に試練を与えてくるなんて、何様なんだ?


心に広がる腹立たしさが、教会で神父に抱いた気持ちと連動し、羊介に神父の言葉を思いださせた。


なんだか馬鹿らしいような、愉快な気持ちが湧いてくる。


たぶん、神様だって探り探りなのかもしれない。


──いいさ、やるだけやってみようじゃないか


十字架を握る手に力を込める。


神父の言っていた考えを試してみる価値はあった。羊介にはそのように感じられた。


だから、羊介は祈った。


愛と信心を向けられるべき神に、憎しみと不信を抱きながら祈った。


十字架は天に向かって掲げられている。





いいさ、試してみようじゃないか。





どうせなら──





どうせなら、人生プラス思考で。

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