フラヌール

時任 花歩

フラヌール

朝起きたら夜だった。何のことはない。昨日の夜寝すぎたせいで日付けは変わったがまだまだ仄暗ほのぐらい夜であったということだ。枕元のスマホをタップすると暗闇の中に時間が浮き上がる。どうやら今日は日曜日らしかった。金曜日の夜、風呂にも入らずにやっとの事でスカートとベストを脱いでリボンを外して眠った。ベッドに顔を沈めると流砂りゅうさに飲み込まれるように深い眠りへ沈んだのだ。だから今、ワイシャツと黒いショートパンツのままだった。本当なら土曜日のうちに風呂へ入るべきだったけれど、どうにもベッドから起き上がることが出来なかった。私の体の上だけ過剰に重力がかかっている様だった。だから、二度寝した。数時間すればまた目が覚めたが枕元のスマホをタップして時間を確認して再び眠るのを繰り返した。初めに起きたのが土曜の午前2時。次に午前10時、喉が渇いて金曜日に学校の自販機で買った水を一気に飲んだ。ベッドから手を伸ばすとギリギリ届く距離にあった。さらに午後3時、午後6時、空腹を覚えたけれど、手が届く所に食べものが無かった。午後11時、だんだん寝入るまでの時間が延びていき、部屋をぼーっと眺めていた。そうして眠って起きたのが現在。日曜日の午前1時だ。流石にペットボトル400mlの水では脱水になってしまう。動かなければ。そういえばもう長い時間、口に何も入れていない。シャワーも浴びなければ。自分でも分かるぐらい髪から脂と汗の匂いがするし、枕元の抜け毛も酷い。ゆっくりと寝返りをうって、ごろりごろりとベットからなだれ落ちる様に、この重圧地帯から脱した。小綺麗に整頓してある衣装ケースから下着と適当なジャージとTシャツを持ってのそりのそりと階段を降りた。緩慢な動きでワイシャツのボタンを外していく。浴室は数時間前に入った家族の湿気で生温くて気持ち悪かった。シャワーのお湯が出るまで手で冷水を受ける。こうしているとなんだか自分は確かに此処にあるんだと感じた。何で此処にあるのかはわからないけれど。徐々に温かさが増していき終いにはただのお湯が出た。汗を流して髪を濡らす。シャンプーをしながら、シャンプー2回やろうかな、そうしたら匂いが取れるかなと考えた。2日も風呂に入らないのは我慢できて風呂に入って頭の脂臭さが取れないのは許せないなんておかしい様な気もする。2回目のシャンプーをしてトリートメントをする。こんな長い髪、切ってしまおうか。そうしたら少しは心も晴れるかも知れない。動けない休日を減らせるかも知れない。シャワーを浴びて幾分かすっきりした。のそのそとキッチンへ行って冷蔵庫を開けた。外はまだ真っ暗だから光漏れするかもしれないな、そしたらお隣さんに眩しくてあまり寝られなかったと小言を言われるかも知れないと思った。出来合いのサラダと食パンそれと水。お腹を満たせれば何でもいい。これもまたゆっくり咀嚼そしゃくする。食パンの甘味がじわぁっと奥歯の方へ広がる。

 ここ数ヶ月毎週末こんな風に無気力なままベッドにはりつけになっている。母に心配されて病院へ行ったが精神科医は、思春期で精神が不安定になっているからだろう。少し休めば大丈夫。よくなるよ。と言っただけだった。その時は、何でもいいから病気だと、言ってくれればいいのに! と叫びそうになった。そうすれば全部病気のせいにして自分は何も悪くないと胸を張って言えるのに。これじゃあ私が怠けているみたいじゃないかと思った。平日は少しだるい程度で学校では明るく元気で笑顔も多い。そっちの自分が偽者だとは微塵も思わない。とは言っても、こっちの自分の方が本物っぽい。

 まだ外が暗いけれども散歩にでも行こうと思った。ふと、そう思った。いつもは積極的に運動なんてしないし、家の外へも出ないけれど。お皿をシンクへ置いてスマホだけをポケットにいれ、スニーカーを履いた。髪もかわききらないまま。そして、空き巣の様にゆっくりとドアを閉めた。スマホを見ると午前2時だった。家の外では深い藍色の空の端が少しだけ、薄い群青色になっていた。もう朝があんなところまで来ている。逃げなきゃ。そう思った。だからじりじりと登ってくる太陽に背を向けて歩き出した。ひんやりとした霧と心地よい湿気が肌を湿らせる。まだ人もいない。もしかして今この世界では私しか息をしていないのではないか。そう思えるほど静かで生活音もしない。昼とは全く違い、まるで神話にでも出てきそうな、神秘性さえある。いつもは聞こえない自分の呼吸だけが聞こえるが、それさえもこの世界の静けさに吸い込まれていく。しばらく自分の呼吸音が消えていくのを感じて、歩いていた。信号機の前で立ち止まった。人や車が無くても赤になるんだなと思って青に変わるのをぼんやりと待っていた。かなり時間が経って、信号が変わった。歩き出そうと思った途端、上手く足が出なかった。右足を出して、左腕を出す。膝はどこまで曲げていたのだろう。今まで通りのはずなのに上手く歩けなくなった。いや、上手く歩けているのか分からなくなってしまった。今している行動が今までの私の中での「歩く」なのだとしたら、おかしな歩き方をしていたのではないか。あぁ、恥ずかしい恥ずかしい。私はこんな、操り人形みたいに歩いていたのか。本当に何かに操られているみたいだ。なんだか自分がひどく滑稽こっけいに見えている気がしてふふふと思わず声をらして笑った。誰も見ていないだろうと思ったらコンビニからちょうど出てきた人と目があってしまった。奇異なものを見る目をしたので、急いで視線を逸らして立ち去った。はぁ、どこの誰とも知らない人に変な目で見られてしまった。少し愉快な気分になっていたのに萎えてしまった。どこかを目指して歩いてはいなかった。それが散歩だと思っているから。でもだんだん車が走るようになって、いそいそと目的地を目指す車たちにうんざりしてしまった。私だって明日の今頃にはあんな風に時間に追い立てられて自転車のペダルを踏み込んでいるのに。明日の事を考えるなんて何の意味も為さない。人も車も少なそうな方向へ行こう。きっとそこに私の桃源郷があるはずだと思った。市街地からどんどん離れ、閑静な住宅街も抜けてどんどんどんどん静かな方へ。だんだん潮風が吹いてきてとうとう海まで来てしまった事に気付いた。海開きもされていない朝の海は、静かだった。波が打ち寄せ、引いていく。登ってきた朝日が水面に反射して、確かに朝も海が焼けているみたいだと思った。ベンチに座って波を見ているとふと、この自然と景色と一つになりたいと思った。靴を置いて立ち上がって波打ち際の方へと歩いていく。波が爪先に触れ、次の瞬間私の足の下の土を奪いさらっていく。埋まっていくようなその感覚が楽しくてしばらくそこで佇んでいた。そうしたら、私の体の輪郭がぼやけて私と言う領域が少し広がって、周りの空気と混ざり合っている感じがした。少しずつ私の中に潮風が入ってくる。このまま一つになれたなら、私はきっとこの世界にはいない事になるのだろう。穏やかでなだらかな死だ。生の先、いや、生を超越した所だろうか。自然と融合した感覚に恍惚こうこつとして、まるで自分がこの世の全てになったかのような感覚を味わった。ここが桃源郷か、そうなのか。自然と口角が上がる。これほどまでの高揚感は感じた事がなかった。このまま混ざり続けると、私はこの世界を形作るものになることができる。本当にそう感じた。頭で感じるより肌で思った。でも 同時に頭で気づいてしまった。人間である私もまたこの世界を構成している1人なのだ、と。それに気づいてから大きく広がっていた体が一気に収縮し、風が私の体の輪郭と外の世界の間を吹き抜ける。しかし、だからといって落胆した訳ではなかった。世界を構成するうちの1人ならば私は元から自然とも一体だったのだ。どうして気づかなかったのだろう。ああ今私の足が地面についている。今私はこの世界の空気を吸っている。いつもあの山の湧水を飲んでいる。自然は私の中に入り込み溶け合って混ざっていたのだ。それにも気づかなかったなんて。今まで私は何を考えて生きてきたのだろうと思った。スマホを見るともう午前8時だった。いつもは30分に一回はスマホを見ているのに家を出てからここまでスマホを触っていなかったことに驚いた。ベットから起き上がれなかったのが嘘のように遠い場所まで歩いたみたいだ。私の家は山に近く、海までは2時間くらいかかるはずだ。そんなに歩いたのか、と思うと急にふくらはぎに重い鉛がのしかかる。それに腕も振りすぎてもはや自分の腕ではない様な感覚だ。海に着いてから3時間も物思いをしていたのか。そんなに時間が経った気がしない。財布を持ってくればよかった。喉もからからなのに何も買えない。今までこんな疲労に気付かずにいたなんて相当この大きな発見に夢中になっていたんだろうか。

 私は青くて痛い。そんな事は言われなくても分かっている。みんなと同じである事で安心しているのに、心のどこかに私は特別でみんなとは違うんだと信じていたい私もいる。でも、みんな同じなんだ。同じ空気を吸って、同じ地面に立っているのだから。

 きっとこの先も何度も思い出すだろう。今日の事を、あの感覚を、忘れる事はないだろう。

        


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

フラヌール 時任 花歩 @mayonaka0230

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ