邪な風
物語は時をすこし遡って、若葉がニト達と出会った頃。
場所は若葉が現在いるメルンの大森林からさらに東。
見渡す限りの深緑の森――蒼色の大樹海。
英雄が眠る森――メルンの大森林。
その二つの間にある草原にその国はある。
サルトラ王国。
南には属国であるワンガル、そのやや西に同じくアイシャナがあり、北に馬を走らせて二日程の距離には今が見頃のフォレスモーレ共和国。
東西を森に挟まれ、領土は南北に長く、領土拡大のために南へ進んだためか、南に行くに連れてやや膨らんでいる。
カンタラのような結界はなく、国の中心部である首都を隠す様に幾つも防壁を重ね、攻め入るものを惑わす迷宮と見紛う程に入り組んだ街。
当然、街の大半が壁の影に隠れて日当たりは良くなく、石造りの家々はどれも同じ灰色で、町全体に暗い印象を抱く。
しかし、嘗ては、メルンの森を開拓せんとしていた頃は、その印象を覆す程の活気が街中に溢れていた。
そこには勇敢な者達への声援と信頼の眼差し、そして希望があったはずなのだ。
サルトラ王国の首都、イシヤッキーモ。
その王城の書斎に、二人の男の姿があった。
「お前も俺を裏切るのか!」
椅子から立ち上がり、怒りの形相で机の上に積み上げられた書類をたった今右腕で払ったのが、このサルトラの国王――レンチン・デ・イシヤキーモ。
レンチンが床に散らした書類を静かに拾い上げているのは、フカスカ・カレハデ侯爵である。
二人は学生時代からの旧友であった。
「レンチン、私も皆も貴方を裏切るつもりはありません。ユデルンノ男爵のやり方は褒められたものではありませんでしたが、これ以上の軍備の増強は控えていただきたいと、そう考えているのは私も同じです。はぐれのモンスターへの対策は現状でも問題なく、隣国との関係も良好。兵、武器共に十分の用意があります。何をそう焦っておられるのですか」
「駄目なんだ! このままでは……このままではこの国は、この国の未来は!」
机の上で頭を抱え込み、燻んだブラウンの髪を乱したレンチンには、従来の飄々とした態度から溢れ出る余裕はない。
不安感に駆られているかの様な顔は紅潮し、目も赤い。
髪を掻き上げて露わになった額には血管が浮き出ている。
その正体は判明していないが、王の身に何かの異変が起きているのは、誰もがわかっていた。
「森を……木を切らねば。燃やさねばならん」
荒々しい息遣いの中、レンチンが口にした言葉に、侯爵は目を見開いた。
木を数本切るくらいならいざ知らず、燃やす? 森に火を放つと?
その脳裏に過去の光景が想起し、不覚にも汗が一つ、額を滑る感覚があった。
すかさず口を開く。
「メルンの大森林へと侵攻するおつもりで? それは正気なのですか? 嘗て、私達は、思い知ったではありませんか。森は人類がどうにか出来るものではないと。貴方もそうでしょう? 小さかった私達が憧れの眼差しで見送ったあの背中は、誰一人も、兜一つも、帰って来なかったではありませんか!」
森を領土にと試み、今も残っている国は数すくない。
その中でも幾度と挑み続け、それでもなお残っている国は、サルトラ王国をおいて他にない。
だが、メルンの大森林への侵攻は、敗北は、たしかにサルトラの民に影響をもたらしていた。
それが、年月を経て、まだ幼かった彼らが王、侯爵となっても、変わりはしない。
「メルンでは、ない」
小さく、絞り出すような頼りない声だったが、その声を聞き逃す侯爵ではない。
だが、臣下として、友として、聞き返さずにはいられなかった。
「今、何と」
「メルンでは、ないのだ」
「まさか……!」
侯爵の頭に過ぎるのは、サルトラを挟むように位置する二つの森。
メルンの大森林ではないとすれば、もう片方。
全貌すら未だ知り得ない底なしの魔境――蒼色の大樹海。
その果てを知る者はいないと言われる程の広大な大地を、巨大化した肉食植物などの近づくことすら危険な植物が埋め尽くし、そこに生息している生物も他の森とは比べ物にならないくらいに凶暴、凶悪と言われる悪魔の森。
そして、今もなお拡大している森でもある。
もし空を飛び、大樹海を見て回る勇気があるなら、森の中に様々な建造物を見ることが出来るだろう。
そのどれもが嘗てサルトラよりも東にあった国や町、村であり、人がいた跡。
迫り来る森に対抗し、敗れて滅んだものか、諦め捨られたものかの違いはあれど、森に呑み込まれたという事実は変わらない。
呑み込まれた国や村の名を知るものはすくなくないが、それも近場での話。
あの緑の深淵には、時の流れによって忘れ去られた名が無数にあるだろう。
それほどまでに昔から。二人が、二人の親が、二人の祖父母が生まれる前、ずっとずっと遥か昔からの摂理。
現サルトラ王は、今まさに、その摂理に反旗を翻そうとしているのだ。
「なぜ、今なのですか? なぜ、私達の代なのですか?」
王へと向けた言葉。
しかし、半ば天を仰ぐ様に、天の先の存在へと訴え掛ける様に、侯爵は視線を宙に移した。
大樹海がサルトラへと迫る速度は、一年で大人の一歩程度。
決して速くはないが、着実に近づいて来ているのは、歴史が証明している。
そしてそれは、森に火を放った時に急激に加速するとも。
それを知っていて、なぜ王は大樹海を相手取ろうとするのか。
なぜ、先の世代に任せてはくれなかったのだろうか。
侯爵は恨み節を言わざるを得なかった。
「これを見ろ」
震える手で、レンチンが紙の束を侯爵へと差し出す。
受け取った侯爵が紙を一枚ずつ読んでいくと、それはサルトラ王国に蒼色の大樹海が接近している距離を計測した年間の報告書だった。
毎年決まった月に行われる計測で、方法は共鳴して発光する一対の魔道具の片方を森の西端に配置し、翌年にその魔道具の位置から新たな西端までを森が進んだ距離とする簡単なものだ。
大樹海が身近なものということもあって、毎年国中に張り出されるものだが、今年のものは、まだ張り出されることなく数ヶ月が過ぎていた。
それが、“一歩分”ずつ近づいているという毎年同じ報告書達の一番下にあった。
“三歩分”
そこにはしっかりと、そう書かれていた。
蒼色の大樹海周辺の警備は厳重であり、何者かによる放火は必ず報告が来る。
それに、もし放火した場合、加速した大樹海の進む速さはこれの比ではない。
それらが導き出す答えは――
「混乱は避けねばならん。恐慌だけは起こしてはならん」
それは緘口令に他ならない。
侯爵は瞼を閉じて、小さく唸った。
力が込められた拳が震える。
「フカスカ、俺は未来にサルトラを残したいのだ」
友としての言葉に、フカスカは頷くしかなかった。
□ ■ □ ■ □ ■ □ ■ □ ■ □ ■ □
フカスカを見送った後、レンチンは部屋の灯りを消すと窓を開けて、イシヤッキーモの街並みを眺めていた。
石の鈍い色が大半のイシヤッキーモでも、夜の灯りは暖かい。
レンチンは王の子として生まれ、王太子として働き、王を受け継いでからも、毎夜この景色を見てきた。
だからだろうか。レンチンはこの景色を見れば、松明から上がる煙の香りを吸えば、落ち着けるようになっていた。
穏やかな心持ちに戻り、小さく息を吐いた後、窓を閉めてまた机へと向かう。
ひゅるりと風が窓のある後方から吹き、足元を過ぎて机の書類を揺らした。
「やっほ。元気でやってた?」
幼子のような高い声にレンチンは立ち止まり、窓の方へ向き直ると片膝を突き、臣下の礼をした。
「お越しくださる時を待ち侘びておりました神よ」
石造りの窓枠に座るのは、一人の少女。
透き通る様な空色の瞳が、その膝まで垂らした薄い桃色の髪が、身に纏う白いワンピースが、闇の中で異様に淡く光を発していた。
神と呼ばれた少女は、レンチンの姿を見て、満足そうに笑った。
「うん。そろそろ進展があったかなって、思ったんだけどぉ。どう?」
鈴の音のような声で言葉を紡ぎ、少女は可愛らしく首を傾げた。
レンチンは「はっ」と今一度頭を下げる。
「はい。お探しの物はフォレスモーレ共和国のパトリック・ジャン・フォレスガード公爵の手の内にあるようです」
少女が先程とは逆方向に首を傾げ、左手の人差し指を口元に添えた。
「ほーほー。それってたしか、えっと、何だっけぇ? 人間が四人選んだやつ……えっと」
「はい。フォレスガード公爵は、“夜更け”と呼ばれています。夜を仕切る者とも」
冒険者ギルドが時の名を二つ名として贈った者は、世界に四名。
滅びしストウィルの国王ペルギオス・ストウィル、イデア教の教祖リアム、シュタルンドフルスの女王チヨ・サトウ、そしてパトリック・ジャン・フォレスガード。
誰もが知る四人を目の前の少女が知らないことに、レンチンは驚きはしなかった。
所詮は人が生み出した枠組みであるからだ。
そんなもの、神の預かり知るものではない。
少女は「ははは」と誤魔化す様に笑いながら、添えていた人差し指で頬を二度掻く。
「人間の呼び名にそれは大袈裟な気もするけどぉ、面倒な相手ってことはわかったよぉ。ありがとねぇ……で、この話はもちろん」
僅かに少女の目が細められる。
レンチンは全てを見透かされた気がした。
しかし、最初から偽ることは何もない。
「はい。誰にも話しておりません。ギルドにも、無二の友にも」
ぱぁっと少女の口角が引き上げられ、胸の前でペチペチと指先だけで数回拍手する。
「それは助かるよぉ。ここのギルドの頭二人って、
「はい。以前は食事を楽しむ間柄でしたが、近頃はなんとも。
「え、きょ、何?」
「失礼致しました。“奏糸”が姉のマリ。“狂爪”が妹のオネットになります」
そう言って、レンチンはマリとオネットの姿を思い出す。
ゴシックなドレスに機械仕掛けの大きな腕。そこは二人とも共通。
肩甲骨の辺りまで伸ばした銀糸の様な髪をヘッドドレスで飾り付け、右目の代わりに金属の赤い薔薇になっているのが姉のマリ。
マリによって日替わりの編み込みを施された金髪に、左目に青い薔薇が咲いているのが妹のオネットだ。
冷静なマリと陽気なオネットで、互いの不足した部分を補い合い、とても良い姉妹だった。そう。
今では意思を奪われたかの様に会話する姿すらなく、ひたすらに日常の業務を熟し、休日や夜に姿を消す。
少女は小さく「うわぁ」と溢すと、両腕で自らを抱き締める。
「すごい呼び名だねぇ、むず痒くなるくらい……まっいいや。とにかく、今のその二人は普通じゃない状態だからぁ、教えたら面倒だからやめてねぇ」
元よりそのつもりであったことであり、神と仰ぐ存在が言うのであれば、レンチンにとっても異論はなく、自然と首を垂れていた。
「墓場まで持って行く所存でございます」
「いいねいいねぇ。その調子ぃ」
少女はもう一度指先で拍手をすると、窓枠から降りる。
そして窓へと体を向けようとして、止まる。
「それにしたって、夜更けだっけぇ? 彼も夜を仕切ったりしている割に、物の分別もつけられないんだねぇ」
少女の呆れた様な表情に、レンチンは「そうですか」としか返せなかった。
「うん。ここまで手伝ってくれたお礼に教えるけどぉ、私の探し物は人の手には余るんだぁ。私でも扱いに困るくらい」
レンチンの目が驚きに見開かれる。
少女――神が扱いに困る程の物。
そんな物があるのならば、それはつまり、神器ではないか。
しかし、だからこそ神が直々に動いてるのだと、一連の少女の行動にも納得がいった。
「それ程の物が、神器が、フォレスモーレに……!」
フォレスガード卿は、神器を何に使おうと否、使っているのだろう。
もし、それが手に入れば――
レンチンは巡らせ始めた思考を止めた。
それは起こり得ない泡沫であり、手を出してはいけない夢でもあるからだ。
いつの間にかレンチンの頭に左手を向けていた少女はそれを外すと、窓を開けた。
「神器なんてありがたいものじゃないよぉ。あれは世にあっちゃいけない。だからぁ、ちょっと夜更けに風を吹いてくるよぉ――」
暗い闇夜に乾いた風をねぇ。
そう言った少女の足元から宵闇よりも黒い煙か何かが噴き出すと、もうそこに少女の姿はなかった。
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