第三章 自炊と過労と#おうちごはん
【— 器用人(ブリコルール)は、<省略>ものと「語る」だけでなく、ものを使って「語る。」限られた可能性の中で、選択を行うことによって、作者の人生を語るのである。-
P27『野生の思考』レヴィ=ストロース 著】
週6日勤務で1日14時間労働…イギリスのケン・ローチ監督の映画「家族を想うとき(※1)」の主人公は、家族でマイホームに住むことを夢に抱き、法外な労働を強いる宅配ドライバーに転身する。このイギリス映画は、フランチャイズの宅配ドライバーのお父さんを描いている。名目はドライバーという自由業と言われながら、委託会社に時間を拘束されていく。個人事業主で独立…と会社から言われても蓋を開けてみれば、労働時間は決められ、委託元の会社のルールに縛られていく。フランチャイズの会社は、売り上げや企業の成績や会社の利益につながる評判しか考えていない。ドライバー個人の健康や家庭事情など、そっちのけである。主人公が休みたいと申し出ても、罰金を請求される。酷い労働環境だが、個人事業主という立場が故に、労働時間が法律では守られない…悪循環に悪循環が続く映画に、共感したくもないのに共感するところがちらほらあった。イギリスの話であるが、日本人の私も他人事とは全くもって思えなかった。
私自身も個人事業主のかたちをとったドライバーを経験しており、映画ほど酷くはないだろうが、完全に否定もできないのだ。
海外のフランチャイズドライバーに限らず、労働が楽しくないのは、自分の自由が担保されないからだと感じる。会社に決められたことをなぞるだけの生活。まさに「家に帰れる刑務所(※2)」である。
その映画の中で数少ない家族団欒のシーンがあった。晩ごはんは、買ったお惣菜が食卓に並ぶ。お店で買ったお惣菜たちであるのは、母も訪問介護職で働き詰めであり、とても毎日三食を必ず用意できる環境にないという背景がある。
映画は終わり現実に戻る。会社に行かなきゃいけない。過労に過労を重ねて、夜遅くなって、ようやく家に帰ってくる。体が動かない、もうフラフラで眠りたい。そんな多忙な毎日の合間に見るSNSだ。親指をスライドしながら思考停止で眺める。あらあら、おいしそうなママさんの手料理に、筋トレ男子のうまそうな時短メシ……何も考えずに流れたままに「いいね」を押すと、さらに表示画面は最適化され、関連性の高い投稿が無限に視界になだれこんでくる。
それから料理したあとの合間の休息。自分の作った料理を誰かに見てほしい。そして手料理にパシャリとスマホで撮影する。
「#おうちごはん」
ハッシュタグをつけて検索すれば、インスタなどのSNSでは晩ごはんの写真が無数に出てくる。ランダムで現れた画像に、たまたま見た人が「いいね」を押す。いいねがあると、ちょっとほっとした気分になる。おいしい食卓の画像が、ありきたりな一汁一菜だとしても飽きることはない。
インスタなどのSNSで料理をアップするときに、ちょっとした充実感を得られることがある。その食卓は全く一緒になることはなく、それぞれの地域や家族の数だけメニューも味も同じになることはない。
それって当たり前なんじゃない?
だって手料理じゃん、調味料のかけかただって、火加減だって、食器のセンスだって、人それぞれじゃないの。
だから、インスタの写真が、みんな違っているのは、別に疑問に思うことでもなんでもない、と。
仮にそう質問されたとしよう。
では手料理ではなく、食料小売店で売っている定番のお菓子だとどうだろう。
量が減っていたりすると「ステルス値上げかな?」とシュリンクフレーション(※3)を疑ったりしてしまわないだろうか。(気になるのは人それぞれだが)お菓子のチョコの量が少なかったり、サンドイッチの具材であるカツが見える表面だけしかなくてがっかりしたり、同じ値段のプリンの容器が小さくなったような気がしたり。小売店で無自覚に、お菓子の味や量の均質さを求めていないだろうか。
どうして小売店のお菓子は味と量の均質さを求めるのに、インスタの手料理は各家庭の違いを楽しむのだろうか。
そこで哲学や評論のジャンルらしく記号論の力を借りて説明してみようと思う。「記号」というと(о´∀`о)m(_ _)m (^O^)かな、とか降水確率80%の「%」とか思い浮かべるかもしれないが、哲学で言う「記号」は一般で思われている意味とは違う。
哲学に記号論が用いられたのは、ソシュール(1857-1913)からである。ソシュールはスイスのジュネーヴ大学で「一般言語学講義」を行った人物だ。
ここで記号論の入門書としても読みやすい『現代思想の教科書(※4)』(ちくま学芸文庫 石田英敬 著)を引用する。
【ソシュールは、記号は二つの側面から成り立っていると考えました。それが「シニフィエ」と「シニフィアン」、記号の表現面と内容面という区別です。
言語記号、たとえば「ウマ」という言語記号があるとすると、[uma]という音の組み合わせの方が「シニフィアン」(記号表現)、それに対して「ウマ」という言葉を聞いたとき[馬]という概念を頭の中に思い浮かべます。その概念の図式のことを「シニフィエ」(記号内容)といいます。ソシュールは、記号とはこのようにシニフィアンとシニフィエによって成り立つと定義しています。】(P51『現代思想の教科書』より引用)
哲学のいう記号とは、まず単なる音の組み合わせがる。「uma」という単純な日本語の音の響きなのがソシュールのいう「シニフィアン」である。そして、ある人では「ウマ」と聞くと、競馬に走るウマを思い浮かべるかもしれない。ある人だとウマ娘の推しの美少女を思い浮かべるかもしれない。ある人だと「うまい」の略語の「うま」を思い浮かべてしまうかもしれない。単純な音の響きから、人それぞれ思い浮かべる言葉のイメージが違ってくる。言葉には「差異」が発生し、言葉の響きから人それぞれが捉えた意味の内容のことを「シニフィエ」という。
【ソシュールの記号学の概念を使うと、たとえば上着を着たり、下着を着たり、ズボンをはいたり、靴を履いたり、帽子をかぶったりというような活動も、一連の記号の「選択」と「結合」から成る組み合わせによって意味を生み出す活動であることがわかってくる】(P124『現代思想の教科書』より引用)
日常にあふれる自炊を、ソシュールでいう「記号」にとらえてみる。今夜の晩ごはんを考えるときに、とりあえず冷蔵庫を開ける。白米と、焼きサバと、大根おろしにネギかけて、浅漬けのナスを冷蔵庫から出して、赤だしにわかめを浮かべよう…と残りの材料で晩ごはんを用意しようと考えたとする。その時、白米、焼きサバ、大根おろし、ネギ、浅漬けのナス、赤だし、これら全てが「記号」の組み合わせになってくる。
何を使うか、で食材を選び、何を作るかでレシピを選び、調味料の匙加減を選び、火加減を選び、盛る器を選ぶ。
食材をサバひとつとってみても、焼きサバ以外に、サバの味噌煮、サバの唐揚げ、サバの南蛮漬け、サバの…クックパッドで「サバ」と検索すると3万件を超える(2024年8月時)投稿がヒットする。投稿の数だけ、多種多様の記号を持っており、ひとりひとりの匙加減によって味が違ってくる。焼いたり、茹でたり、漬けたり、と自分が知っている記号の組み合わせて、ひとつのおかずができ、さらにおかずを組み合わせて今晩の食卓ができあがる……と哲学的に捉えることができる。
おいしいごはんを毎日用意するには、どういう段取りで進めたらいいか。予算オーバーしないか、時間は間に合うのか、本来「経営者」が担う部分を、まさにマネジメントを自分で行うことになる。ごはんを1から作ろうとすると、まず食材の仕入れをして、仕入れた食材を腐らせないようにしなければならない。漬けたり、乾燥させたり、冷凍庫にいれたり、ドレッシングにしたり、煮物にしたり、お裾分けしたり、お菓子にしたり…無数に加工する工程があるが、これらを自分の手でやっていたら時間が足りない。それに加えて、生ごみの処理に、食器洗いに、キッチンの掃除、ごはんを食べるだけでも無数に仕事が見つかる。
対して、会社で報酬をもらう仕事は、経営者が仕事内容を決めてしまっている。仕事内容は考えなくてもいい。ただ代わりに「もっと早く丁寧にやってください」と作業効率を求められる。会社で働いて、家に帰って倒れるように寝て…を繰り返していると、お金をもらうことが仕事だという認識が強いような気がしてくる。報酬が発生するものだけが仕事なのだと錯覚を起こし始める。
しかし、私はここで違うと言いたい。自分で作って自分で食べる「自炊」は、自分にとっても、そして社会にとっても必要不可欠な仕事である、と。
本来、家事は大変な重労働だ。過労に次ぐ過労である。家事は重労働で忙しいはずだった。しかし、どうして現代になって、重労働であった家事を担ってきたであろう女性が、家事もやって会社勤務もやって忙しくしているのだろうか。男性の場合でも同様だ。主に家事を担当する側になったとしたら、会社でも家でも働いて、労働が過ぎるではないか。
今度は『家事の政治学(※5)』(柏木博 岩波現代文庫)を引用する。本書は政治がどう家事に関わってきたか、が書かれている。後半では1950〜60年代のアメリカにおける消費社会について文章が展開される。
【1950年代から60年代の前半、アメリカの家庭は、同時代にあって、おそらく世界で最も消費的な生活を実現したといえるだろう。家電製品までもが揃ってパッケージ化された郊外住宅が生産され、さらにテレビからは家庭劇が流され、生活様式のモデルまでもがブラウン管によって家庭に届けられたのである。】
【科学的家事(家政学)は家庭内の労働を社会にむかって開いていこうとした。しかし、他方で、徹底した家事の合理化とその機械化は家事労働そのものを消滅させることを夢みていた。したがって、TVディナーが科学的料理の結果として、料理という家事労働を家庭から消し去り、それを商品化したように、さまざまな家事が家電サービスによって商品化され、かぎりなく家事は希薄なものとなっていった。】(両文ともP240『家事と政治学』より引用)
(※TVディナー:ひとつのプレートに一食が入っている冷凍食品)
1960年代のアメリカの消費社会から読み取れるように、会社に働きにいけるのは資本主義によって培われた家事サービスを購入しているからである。各家庭は知らずして、家事サービスにお金を支払い、代行してもらっている。次第に家事は商品化され、社会は各家庭に消費ばかりさせたがった。
だが、当時のアメリカ社会は消費させられるだけでもなかった。消費社会の反動があった。『家事の政治学』では、ブリコラージュの概念を紹介している。
【レヴィ=ストロースの説明しようとしたブリコラージュの概念は七〇年代にはかなり流行したが、なぜか現在ではほとんど記憶から消されてしまっている。レヴィ=ストロースは、ブリコラージュは、文化の部分的集合に目を向けることだと考えた。また、近代的なエンジニアが概念をもちいて作業するのに対してブリコルールは記号を用いるのだという。したがって、記号の集合を組み換える作業がブリコラージュの作業だともいえる。ブリコラージュは限られた可能性の中で選択しているのである。】(P246『家事の政治学』)
炊飯器、電子レンジ、オーブン、給湯器、といった家電類。家電メーカーと電力会社にお金を払っている。機械とエネルギーを、都度購入することによって、代わりに調理をしてもらえる。
飲食店に行けば、注文したメニューを出してもらえる。宅食サービスもある。スーパーでお弁当を買うこともある。
保存のきく加工食品も家事代行サービスである。食材が腐らないように缶詰にしたり、真空パックにいれたり、瓶詰めにされたものを買うことがある。乾物にしたり、塩漬けにしたり、冷凍したり、保存する作業を工場で代わりにやってもらう。その家事サービスを消費することによって、手間暇かけずとも保存にきく加工食品を手に入れることができる。
その加工食品を作る工場は、計画された概念によって作られている。仮にレトルトカレーの工場があったとして、レトルトカレーを製造するには経営者の計画通りに進める必要がある。人員、エネルギー、設備といったものが少しでも欠けてしまえば工場のライン作業は停止してしまう。そして、あらかじめ決めておいたレトルトカレーしか作れない。
よって、会社や工場で働く仕事は、計画された概念によって回されている。
例えばブリコラージュ的思考でカレーを作ろうとしたらどうなるか。例えば、にんじんがなくてもとっさに赤いパプリカで代用したり、ニンニクがなくとも生姜で代用したり…料理を作る人の寄せ集められた記号によって、当初とは違ったカレーができあがる。思っていたカレーと雰囲気が違うかもしれない。それでも食材が欠けていたとしても、カレーとなるものが出来上がる。
また、冷蔵庫を開けると、カットしてあった薄い玉ねぎがあったとする。サラダ用に生のまま冷蔵庫に入れておいたけど、数日たったから鮮度が心配だ…じゃあ炒め物に使おう。浅漬けのなすや大根も混ぜてしまおう。酢っぽさが残るから、味付けは濃いめにして、炊いたご飯にのせようかな…など考える。
自分で食べるときに、ありあわせの食材や調味料や調理器具で「食べ物になる何か」を作るときがある。気力もないし面倒なのでレシピも見ない。目分量で調味料もぶっかける。そのとき、今までの料理の経験から、自分の勘を頼りに、それっぽいごはんを作る。(ただし、家族がおいしいといってくれるかは別の話)
それっぽいごはんを作るときは、設計図がない。いま自宅に揃っている限られた調理器具と家電と、食材と調味料で、思いつくままに作る。
このとき、食材、調味料、調理器具、家電というのは、この場で使える限られた記号の一部である。いま手元にある記号を組み合わせることによって、ごはんを作ることとなる。家に帰ったら誰でも行うこととなる炊事。ごはんを作ることで、すでに哲学者レヴィ=ストロースの言うブリコラージュ的な思考を行なっているのだ。
食材という記号の中から選び取り、レシピという記号の中から選び取り、匙加減という中から選び取り、盛り付けの器を選び取り…いまキッチンに存在している限られた記号から組み合わせて、今夜の晩御飯ができる。毎日の手料理からなる食卓は、まさにブリコラージュ的な思考である。その記号の組み合わせには、その人の背景を語る行為にもつながる。パシャリととった手料理の画像から、どこに住んでいるか、年齢は何歳なんなのか、職業はなんなのか、好みはなんなのか、友達がいる彼氏がいる子供がいるかなど…食卓ひとつで料理を作った人の物語がつまっている。いいねをされた途端、これまでの成形された自分の語りの部分を受け取ってもらえたことになり、満たされた気分になるのだ。
言われたままに仕事をする会社や工場の労働では、その「語り」の部分が抜け落ちている。いちから会社を設立した経営者であれば、会社の業績を語ることはできるだろうが、そこで働いている社員や派遣やパートに至っては「語る」要素がない。
これを買ってください、あれを買ってください、この商品を買うと便利になります、健康になります、幸せになります………現代でも続く消費社会は、家から労働の場を消滅させ、故郷や、各家庭から物語を奪いたがる。
だがまだ、かろうじて家にはキッチンがある。会社の労働から離れて、いったん自炊をしてみよう。自炊をすることで、会社を回す動力だった「私」が、仕事を創造し仕事の仕方を選び取る側になる。ありあわせの道具、限られている食材。たとえ不十分であろうが、そこから試行錯誤して食卓を作り出す。
インスタなどのSNSで「#おうちごはん」と無限に投稿される食卓の写真は、ブリコラージュ的な要素が大きい。即興性があり、物語性があり、無数の記号が組み込まれている行為である。インスタにあげた食卓の写真一枚は、その人自身の物語が凝縮されているように感じる。料理を作った人の職業、故郷、食文化、時間、年齢、家族構成…いろんな要素が構成されて、その人だけの「今日の晩ごはん」ができあがる。
だからこそ、自分を見つめ直すためにも「自炊」は、かなり有効なのである。おうちにあるキッチンは、会社による過労により見失った故郷や人格を取り戻すものでもあるのだ。
※1 『家族を想うとき』ケン・ローチ監督(2019年/イギリス)
※2 家に帰れる刑務所…『ヤマト運輸の現場は「家に帰れる刑務所」、EC物流激増なのに専門部隊を解体する内部事情』ダイヤモンドオンライン
※3 シュリンクフレーション…経済用語シュリンク(縮小)とインフレ(モノ&サービスが継続的に価格上昇すること)の造語である。日本ではステルス値上げという俗語が馴染み深い
※4 2010年初版
※5 2015年初版
自炊マネジメント論 @kata3ne_zu1
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