第一章 自炊と不登校とサバイバル


 ここで論じる「自炊」の定義とは、週末に行う趣味や教育のための料理を除外する。時給で対価が支払われる賃金契約とは異なる形態の労働である


 【自炊におけるメリット】

・知識次第で、食材選択次第で保存料などの添加物などを避けて食べることができる

・まとめ買いが中心になるので、いちいち小売店に出向かなくてもよい


 メリットとして、フェアトレードを意識して買い物ができる。添加物を少なくしていて、従業員に不当な労働を強いてないような企業努力が感じられる食材を応援購入が直接行える。無添加・無農薬を取り組む地元企業などが、会社が大きくなれば地元の往来が増えて、また新たな会社やお店ができると嬉しい。


 【自炊におけるデメリット】

・電気ガス代が増える

・加工時間の確保ができないと、空腹で体調不良を起こすこともある


 自炊をしないで家族に家事を任せきりのときは、ごろ寝してゲームとラノベと漫画とアニメと暇を持て余ますことができた。

一人暮らしに移行し、自炊をする生活サイクルをはじめると一変する。実際、家に帰っても大慌てだ。キッチンを見るたびに「労働」を思い起こして、イライラしてくるのだ。

 誰かが手伝ってくれたら…

と願うほどに仕事が終わって帰ったあとも気が休まることがない。

 「たかが家にいるだけ」というが、自炊をするかしないかで時間の質が違っていくる。自炊はしっかりとした労働であり、自立を促す前向きな「ひきこもり」といえる。

 家にいることがそんなに悪いことだろうか? 

行動や行為をざっくり捉えれば、会社のオフィス業サラリーマンは、会社のビルにひきこもっているといえるのではないか。

 自宅が職場になれば良い。

 住んでいる家が仕事場になれば、ひきこもりは立派な労働者に変わるのだ。


 自炊は自宅を仕事場に変えられる手っ取り早い方法である。


では自炊という名の仕事を始めよう。

まず「計画性」が必要だ。食材を小売スーパーやコンビニで毎回、買い物に出かけていたら、ごはんを作る時間の確保ができない。

 おやつも手作りしていると、外で働きすぎては時間が足りない。

 会社で給料が安定している方であれば、高い給料を対価に、デリバリーサービスや家事代行を使って、惣菜を届けてもらって食べる生活する選択もある。それもある種の食事の仕方であろう。

 ただ逆に自炊を選んで働く時間を少なくしている人に、給料が少ないから「稼いでないから怠けている」とバカにするのであれば、私は全力で反論する。休日の趣味の料理と同等にしてほしくはない。働いている日も自分で食べる分を料理するのだ。実際にやってみると驚くほど、体力がもたない。料理や洗い物や作り置きのストックをどう時短するか工夫しながら、行わなければならないからだ。

 完全な自給自足をするならば、山か海のそばに引っ越さなければならない。べアグリーズ主演のノンフィクションサバイバル「サバイバルゲーム(※1)」を見て、自分であれば即死だろうと直感する。身ひとつで食べられるものを調達するのは、自分の生命を脅かす命懸けの行為だ。

 現代において社会に属している労働者は、その命がけの食料調達を回避できる。

 そのなかでも炊事は食事の最終作業だ。できるだけ安全なものを作る。美味しいものになれば、メンタルも回復できる。

 近年、ひきこもりがネガティブな問題として、ニュースにあげられることが多い。

 私は部屋にこもって本を読むのが好きだ。なるべく家にいたいと思っている。

 そもそも家にいるのが好きなだけな人間に対して「治す」というのが間違いだ。ひきこもりは病気ではない。2000年代初期では、家で過ごす方が向いてる人を「ひきこもり」称し、いけないことのようにいう雰囲気が、学校や職場などの世間に蔓延していた。

 本人の努力に帰結するのは、大変粗雑な結論だ。学歴をつけて、安定職について…という就職のテンプレが、さも一般的な顔をしている。

 ひきこもりが問題になってくるのは、自宅が仕事場ではなくなってしまったからだ。

 生活の糧が「出稼ぎ」や「給料」に傾きすぎなのが問題なのである。労働は賃金だけではないはずである。(もちろん外部で労働契約をした時点で、給料の未払いや不当な残業が起きてはダメだ。外部の賃金契約が保証された上での話である。)農家であれば、自分の畑でとれた野菜を、自分の家の料理に使う。金銭が発生しないが、生活のプラスになることもあるだろう。

 そもそも「ひきこもり」と呼んでいるニュアンスとして、個人の努力に問題を丸投げされているふしがある。学校や会社では、同調圧力が溢れている。コミュニケーションが大事なのは正論なのだが、コミュニケーションが得意な人でも、相性の合わない人や興味のない人と長時間一緒にいることはしないんじゃないか。

 同調圧力のみで社会を回せば、同調圧力から強要する側でさえも、身も心も圧力から「逃れられなく」なる。

 個人の性格や考え方など、学校の方針と合わなければ自然と離れれば済むことである。


 短編小説である木地雅映子 著『オルタ(※2)』では、全体的に「オルタ」を観察する形式で描かれている。小学生のオルタは、同級生の貴大くんに嫌悪されてしまう。


「死ね!」

 と言われれば、この子はどうして、死んでほしいと願うほどに、わたしを嫌うようになったのだろう、と、自分の過去の記憶をさらって、原因を思い出そうとします。

(『オルタ』ピュアフル文庫p151 引用)


 銃で撃つまねにも、なにか理由ああるはずです。

 刃物で刺すまねにも、なにか、意味が込められているはずです。

 スカートをめくられ続けるのにも、ちゃんとした原因が、必ず存在するはずなのです。

 実際、それらは存在します。貴大くんのをとりまく世界の中に。

 けれどオルタは、自分のこころの、内側の世界に探すのです。

(『オルタ』ピュアフル文庫p151~152 引用)

 

 やんちゃである「貴大くん」は、貴大くん自身の問題を抱えている。貴大くんの家族や貴大くん自身が向き合うべき問題であり、オルタには単なる飛び火にすぎない。しかし、嫌悪される小学生のオルタは「自分」に原因があると思い込んでしまい、堂々巡りの「道理」に閉じ込められることになる。

 合わないバイト先は、すぐに辞めても非常識と言われないのに、義務教育である「学校」は、辞めることにたいへんな勇気がいる。それは子供の勇気だけではなく、親の勇気を必要とする。小さい子供は、親に主導権が握られている。親の判断で好転すれば良いが、調

 私がいう同調圧力とは、の、一方的な対応である。「ポリティカルコネクトレス」通称ポリコレと呼ばれているものだ。ポリコレという言葉は、140字以内で文字と画像を投稿するツイッターなどでは多用される。

『「差別はいけない」とみんないうけれど』綿野恵太(※3) の著作では、様々なポリティカル・コネクトレスが取り上げられている。その中で「内集団バイアス」について定義されている。


 ----------------- 内集団バイアス

 自分が所属しない集団(外集団)よりも、自分が所属する集団(内集団)にたいして、好意的な感情を持ったり、優遇するような行動を示す傾向。


(『「差別はいけない」とみんないうけれど』綿野恵太・平凡社2019年 P172引用)


(※バイアス→かたよりのこと)

 日本の法律では、小学校から中学にかけて義務教育である。

 例えば、「学校に通うことは良いことである」という内集団バイアスがかかったPTAや先生しかいなかったとすれば、「学校を通わず勉学を続けることが、うちの子にとって最善の選択である」と説得しようとしても困難である。「学校に通う」以外にも勉学できる方法がある。その子にとって、学習効率が上がるのであれば、取り入れたらいいのではないか…と親が思っていれば、子供やパートナーなど信頼できる知人などに相談したりして取り組めばよい。

「学校に通わせたくない」の理由が育児放棄であれば、それはアドバイスする必要がある。社会人として生きるためには、どうしても読み書き計算があった方が、稼ぎにいきやすい。親がいなくても自立して生活できるように、子供を教育できれば、親も安心を得られるだろう。

 ただし、「みんなが通っているから、学校に行くべきだ」という理由なき、内集団バイアスでは、学校に行かない選択に対応しづらい。

「学校を通うべき義務がある。」というルールだけが先行し、親や先生、その影響を受けた子供が、内集団的バイアスの性格が強いコミュニティを形成しているのであれば、それを緩めてほしい、というのが私の意見となる。

 もしも子供が学校に行くのを拒んだとしよう。子供の勉学について向き合えば向き合うほど「教室で学ぶ」系の授業に出られない。医者が診断してもらえなかった持病や、性格や信念、将来なりたい職業を学ぶために普通科に収まる授業に出ている時間ないなど…理由があるにも関わらず、それが通らなくなるのは、たいへん効率が悪い。

 なぜならば、「学校にいかない」=「育児放棄」という図式から離れようとしないからである。ルールに縛られた数式的な人間であり、言われたことを言われた通りに行う雇われ社員的な人間である。

 まだ物心ついていない子供であれば、さらに内集団バイアスにかかりやすいだろう。自分の所属しない外集団についての知見が、大人に比べれば足りないのは当然だからだ。

 オルタの作品内で出てくる貴大くんは、内集団バイアスにかなり寄っていると考えてよい。

 そして、オルタでさえも、内集団的バイアスに寄ってしまって、原因をこころの内から探ろうとしている。

 双方が内集団バイアスに寄ってしまっている。貴大くんは「オルタ」という、自分と違う性格のクラスメイト、つまりは外集団を攻撃している。オルタは外側に非があると判断できずに、自分は加害者なのではないかと悩み続ける。双方とも内集団的バイアスにこもってしまうと、原因が突き止められずに不毛な被害者意識を持ち続けることになる。

 心や性格を変えるとなると、そんな科学技術は存在しないし、倫理的にアウトだ。それこそ不道徳ではないのか。

 SF作品「すばらしい新世界(※4)」(オルダス・ハクスリー著)に出てくるような、人格分別または改造の技術がない限りは…無理なのでは…と思ってしまう。

 だったら、学ぶ場所を変えた方が早いし、手間もかからない。

 気に入らない奴だけが「社会」のルールを決めているわけではないので、それによって自分の生活スタイルを決めなくてもいい。

 さまざまにあるコミュニティがあって、そのどこかに属せればよいのである。それは近所の学校のクラスが合わないのは、土地や人や学校にいる拘束時間など…さまざまな要因が折り重なった偶然の産物だ。

 なので、無理して学校に通わせて子供を落ち込ませるよりは、学校にいかずに勉学を続けられる方法を探る方が、手間が最小限に抑えられる。

 家族は最小の経営であり、自分たちで経営していくという気概が必要である。栄養のある食事を毎日提供するのだって、立派な経営なのだ。

 子供ひとり育てるには、膨大な費用と時間がいる。(子に対する愛情については、大事な要素であるが割愛させて頂く。)家族をもつだけで、個人経営と同等の労力を費やしている。

 もし学校に通うことでメンタルや身体への負担がみられたら…毎日の生活サイクルシステムを修正する、という経営者目線が必要となるのだ。

 経営者目線だと「心がない」と言われがちだが、家庭に自立した経営者がいると、子供や親とともに自ら思考するようになる。

 そろそろ話を自炊を戻そう。

 自炊をすると、マネジメントの習慣がつきやすい。自分の飯を食べる至福の数分間のために、最悪な場合、数日以上を費やすからだ。

 たかが飯のために、時間を費やすようになる。ラノベも読みたいし、ゲームをしたい。時間や経費を犠牲にすることもあるだろう。料理の時間は、サブカル好きにとっても敵でしかない。

 されど飯がなければ、その先は栄養失調の故の餓死であり、アニメ漫画ゲームなどとも永遠の別れになってしまう…

 ともかく、自分で料理をしながらも飯の時間を時短して、安くて栄養価の高いメニューを食べて、プライベート時間を捻出しなければならない。まんがも読みたい。アニメも見たい。大事な友達ともラインしたい。

 雇われ社員が中心の家族では、家業で培われた「経営」を習慣にとりこめない。大企業の支援待ちの人間になり、自ら切り開こうとするタイプが育ちにくい。経営者目線を育まれた人材が少なくなるだろう。

 学校は、少ない労力で効率的に子供に学ばすことのできる素晴らしい教育機関だ。読み書きそろばんが等しく学べる貴重な公共空間である。だが、完璧な仕組みでは決してなく、修正し続けなければならない。病気や性格や住む地域によって、教室で学ぶことが非効率である子供もいる。子供ごとに的確なな指導ができればいいが、小学校教師も多忙で、ひとりひとりの対応に限界がある。

 オルタのような子供が「なぜ学校に通えないのか? 」と判断に迫られたとしよう。主導権を握っている親自身が「我が子にとって」最善の選択は、学校に通う以外にも導き出せるのか…

 内集団バイアスから抜け出して、子供ひとりの声を聞く。それができる大人が増えることを願うばかりだ。

 社会に溶け込んで、社会に奉仕して高いお給料をもらい、社会に守られることを望みたいところだが…学校に通うことが合わない子供がいたとしたら、自ら生活が営めるように、炊事洗濯・裁縫・資金管理などの家業をたたき込んで、自分で自分を守るために経営能力を育むのもありなのではないか。そうすると、どこかで自分ひとりだとシンドイと考える。外部のサービスに頼るのもありであるし、お金が足りないのであれば知人に頼むのもありだろう。プライベートをマネジメントする癖がつけば、うまく人に頼るには…と考える習慣ができる。そうすれば生活を続けるだけで、自然とコミュニティが生まれるのではないか。友人と遊ぶだけが、人と関わる方法ではない。必要以上の会話や喋ることが嫌いな人だっている。家業という名の経営をしながら、人と関わる方法だってあるのだ。

 自分は本が好きだ。ゲームも好きだ。家にいることが大好きだ。遊びにいくのは好きだが、一年で数回だけでいいと思っている。遊ぶより本が読みたい。

 自炊はじめて一年以上たつが、はじめてみたら休日にレジャー施設に行く暇も全くなくなってしまった。休日は作り置きで1日が潰れる。休日が最大の労働の日になってしまっているが、その代わり、会社に時間拘束される時間が減った。もちろん給料も減った。

 毎日、おいしいごはんを作るために、頭をフル回転している。ごはんが間に合わないときは、ちゃぶ台をひっくり返したくなるほど自分に怒りが湧いてくる。辛くて大泣きする日もあったが、原因は自分である。人に責任転移できない。泣き終わると空腹で動けなくなった。仕方ないので、粛々と料理をしていた。また自炊の労働時間のために賃金労働を減らした。さらにまた給料も少なくなった。そのうち自炊を続けられたことに誇りを持てるようになった。だけど、ごはん間に合わない日もまだあって、自信をなくして…の繰り返し。

 自炊を続けていれば人と関わらないことはない。自ら加工をするためスーパーに行く回数は減り、市場などに出かけるようになった。八百屋や魚屋さんから、おいしい食材の料理の仕方を教えてもらえる。教えてもらった通りにすると、本当に美味しかったりするので、やはり専門家は違うと感心する。

 コンビニやスーパーは調理する時間を買う代わりに、人と関わることが少なくなる。それはスーパーやコンビニの店員さんは多忙で、お客ひとりひとりに対応している暇がないのだ。これではコミュニティを形成することが困難である。

 ニートは個人の努力のせいではない。大企業運営によるスーパーやコンビニが増えたため、地域に根付いたコミュニティの崩壊が要因になっている。

 だから「ひきこもり」っていわれても過剰に落ち込まなくてもいいし、喧嘩してしまったなと思えば、その人に謝るなり対応すればいい。(そこは良いコミュニティの力の発揮どころだ)

 自炊という買い物を含めた経営感覚は、緊急時にお金に困ったときは、特に役に立つことも多い。

 サバイバルまで戻らなくても良い。残業続きで給料を増やして、安全性が疑念される食品添加物が入ったコンビニ弁当を買い続けな行くても良い。

 働く時間を減らし、かつ非加工品の野菜や魚を買って、自分の家で加工する。サバイバルと過剰な賃金勤務の中道くらいが、日々の自炊なのだ。



 <参考文献>

 ※1 ディスカバリーチャンネルDVDBOX「サバイバルゲーム MAN VS.WILD」期間限定配信ですがディスカバリーチャンネルyoutubeでも見れます。食ルポ風の編集版がオススメ

 ※2 『氷の海のガレオン/オルタ』木地雅映子 著 ジャイブ ピュアフル文庫(2006年)オルタは文庫書き下ろし

 ※3 『「差別はいけない」とみんないうけれど』綿野恵太・平凡社(2019年)

 ※4 『すばらしい新世界』オルダス・ハクスリー著 講談社文庫など

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