第8話 小説とルポルタージュと論文と

 後期に受けている授業では、紹介される本も一段階難しくなっている印象がある。入門的なものはなくなり、ある程度の基礎知識を要求するものが増えた。ビジネス書寄りのものが減り、学者の書いた専門書が多く触れられている。そんな中で異質だと感じたのが、社会学者の手による、とある小説だ。

 この本は、社会構造の特徴を指す重要な概念の初めて出て来るものとして知られているらしい。しかしそれが論文や普通の専門書の形ではなく、未来の社会予想の形で描かれたSF小説なのだという。ちょっと興味を引かれて買ってみたのだが、小説としておもしろいのかはいまいちわからない。何十年も前に書かれた本なのだが、現在の状況を予想しているところもあり、今から見ても未来の想像の部分もある。設定は少し込み入っていて読みづらさもあった。同じ授業をとっていた学生の中で、すごくおもしろかった、と先生に伝えていた人もいたので、好んで読む人もいるんだなと思った。


 自分は一時期、読書が趣味、と言っていた。読書は仕事の一部のはずだとか、読書は無趣味と同じだとかネットで見かけるようになり、読書を趣味と口にすることをやめるようになった。まあ、本を読むことは得意な方だと思っている。

 この本は読み続けるのが難しかった。ひとつには、翻訳物が苦手だということがある。小説とはいえ会話文がほとんどないということもあるだろう。それから、似たようなもので読むのが大変だったものとして、一時代前のスペースオペラものを薦められたことを思い出した。たぶん、物語の本題の部分が自分の日常からかけ離れているときに、その設定にどれだけ興味を持てるか、どれだけ自然な物として理解して物語に入り込めるかによるのだと思う。最近は異世界転生でもスローライフみたいな小説ばかり読んでいたので、骨太な設定のものを読む感覚から離れてしまっていたのだと思う。

 中学生くらいまでは、本を読むのが好きというと一般的には楽しみのための小説を読むことを指すのではないかと思う。教科書やテストで論説文に触れることはあっても、好んで論説文を読むということはあまりないだろう。高校生くらいで、学生向けの新書シリーズに触れたときに、興味があるものであれば誰でも読めるのかというと、やはり国語力というか、ある程度の読書量がないと難しいのではないかと思う。逆に言うと、好きなもの興味があることを深める中で、辞典や書籍でどんどん深めていくタイプの人については、論文を読むような力が自然と育っていくのかもしれない。


 論文や専門書を読んでいて、正直難しいなと思う。数ページの論文であっても、最後まで読むことができず、「あとで読む」として放置してしまっているものがある。その著者の書きたい世界観に馴染むことができれば読めるようになると信じて、少しずつ近づいていくしかないのだと思う。



 輪読の授業のまとめは、結局は自分の担当部分だけに絞ることにした。ただし、2章を読んでない状態を想定して3章をまとめ直した。ここは前の章に書いてあるから省略しよう、と思っていたところを付け加えた感じだ。

 この作業をする前は、2章と3章がわかれている理由がよくわからなかった。自分に縁のない専門書ということもあってか、同じことを難しい表現で何度も繰り返し言っているように見えて、もっと結論をシンプルに書くことができるのではないかと思っていたのだ。しかし2章と3章を丁寧に見比べながら読む羽目になり、2章と3章で言いたい内容が違うということが少しわかってきた。


 3章の具体例は確かに2章と対応しているのだが、2章の文章の中にこれらの具体例を入れ込むことは難しい。なぜならば、2章はもう少し客観的というか抽象的というかな立場から、理論的にどのようなことが起こりうるかを検討している文章になっていた。現実の具体例は、それにしっかり対応しているものも多いが、これに関しては実際には起こっていないとか、この事例はこういう理由でこういう少しずれたパターンになっているとか、理論通りにはなっていないということだ。おそらく、なぜ理論通りに起こらないのか、という点も研究の対象になるのだろう。

 論文のいわゆるお作法というものはまだよくわかっていないが、少しその考え方に触れることができる経験となったのだった。



 自分の論文のことを考えながら本を読んでいると、こんな本が書けたらいいな、と思うことがある。それが論文として評価されているかはわからないが、研究者の書く、論文をまとめた本にもいろいろなタイプがあることがわかった。

 また、論文の形式とは違うものの、実際の社会の問題について、社会背景や理論をもとに現実を丁寧に描く、ルポルタージュというものにも惹かれる。


 研究とは何なのだろう。論文とは何なのだろう。

 実験室の中で行われるような、実験がうまくいくか、うまくいかないとしたらその条件は何なのかを切り分けていく研究と違って、何を対象にするのかをどう定めるのかという点から迷走してしまっている。勉強のために本を開けば、その分だけ知らないことが見えてくる。社会の問題を解決するような提案を考えると意気込んでみても、実現が難しいことは容易に想像がつく。理論的に正しいことが示せたとしても、現実社会は理論通りに動かないのだ。

 そうであれば、理論通りに動かない社会の現実を、言葉にして示すだけでも意味があると言ってもいいのだろうか。あるいは、ボトルネックになってしまっている現実を、ひとつひとつ取り除く解決策を示すことが重要なのだろうか。現実的な問題として、どれくらいのサイズ感の問題を取り扱うのが適切なのかというのも気になる。何年もかけていくつもの発表を積み重ねた上で示されているような研究を見本にしても、風呂敷だけ広げて何が言いたいかわからない論文になってしまうだろう。社会を動かすためには、論文ではなく例えばYouTubeで訴えることが効果的なのだろうか。社会を動かす上で、研究者はどのような役割を果たすべきなのだろうか。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る