第5話 成績の意味

 後期の開始を前に、前期に受けた授業の分の成績表が届いた。履修登録とかは全部オンラインで完結しているのに、成績は紙で送られてくるというのが少し笑える。やるべきことはすべてやったので単位の心配はないだろうと思っていた。それでも、無事良い成績がとれていて少しほっとする。自分の課題の解釈があっているのか迷った科目も、問題はなかったようだ。



 ところで、80点以上は優、みたいなことが言われるけれど、何をどう点数化しているのかというのは前々から疑問に思っていた。いくら評価項目を複数にわけていたとしても、結局はほとんどが心証の問題なのではないだろうか。授業後のアンケートだって、普通に問題なければ4を基準に、良かったと感じたら5、ちょっと不満があれば3、みたいなつけ方をして、平均とって繰り上げでもすれば落第のないそれっぽい5段階評価ができあがるだろう。オール4なら良、何かプラス評価されるものがあれば優だ。


 理系の科目であれば、だいたいは正しい答えというものが決まっている。テストでその答えにたどり着けているか、例えば計算問題の答えがあっているかでマルかバツかが決まる。もう少し難しい問題の場合は、答えの数字があっているかだけではなく、記述が論理的で穴がないかどうかもチェックされるだろう。学生の書いたものを先生が理解できないということもほとんどないはずだから、減点されていればそこにはそれなりの理由があり、また、それを伝えられれば学生の側も理解できることがほとんどだろう。

 では文系のレポートみたいなものはどうなのだろう。極端に論理性に問題があるものに関しては判別できるだろうが、ある程度以上のレベルのものは明確に違いをつけることができるのだろうか。出題者の狙いと違う結論だと低い評価とか、そんなことはないと信じたいが、出題者が狙っていたことをずばり書いていたら優、ということはあってもおかしくないような。「授業で身につけたことを実際に活用して課題を解決」という意味では理系のテストと同じでも、「課題」の意味合いがまったく異なるのが難しい。



 他の人がどんな成績をとったのか気になっている人もいるようで、前期の授業の振り返りを一緒にしないかと声をかけられた。何人かで集まって、互いのレポートを共有してコメントをしあうらしい。「良い評価の人のレポートから参考にできるものを見つけましょう!」なんて書いてあったので、成績の情報も共有されるのだろう。

 せっかく声をかけてもらったので、自分も参加することにする。


 振り返りの当日は、前半がレポートを読む時間、後半がコメントをする時間だ。レポートを書いている段階では、みんな似たような発想をするんじゃないかと思っていて、その中で自分が差別化できるポイントはどこだろうと考えていた。しかし、実際に提出されたレポートを見せてもらうと、自分には思いもよらなかったものがたくさんあり、正直驚いた。これは自分が教員だったら、結構楽しんで読めるんじゃないかと思ったくらいだ。

 とはいえ、数千字のレポートをいくつも読むのは、正直大変だった。文章が回りくどかったり、たぶん本人が理解できていない難しい論文を使っていて全体の流れがうまくできていなかったり、といったものは、こういう書き方はしてはいけないな、と参考になった。


 自分のレポートは、経験から考えたことと論文を参考に発展させて考えたことのバランスが読みやすい、と言ってもらえた。元の課題があまり考えたことのなかったものだったので、まず自分に引き付けて考えてみたのだが、苦労した点が報われた気がした。成績も優の人と良の人が半々くらいで、レポートだけでついている成績ではないが、自分が提出したものが高く評価されたことが改めて嬉しい。


 しかし、他の人のレポートを見ると、レポートのお作法のようなものが自分には全く備わっていないと感じた。もちろんいろいろと検索はしたのだが、やはり実際の具体例を見ないとわからないものがある。調べて、実際に自分で実践してみて、他の人に見てもらったり他の人の物を見たりしてできていない点を認識し、できればやり直しをし、そのうち意識しなくてもできるようになる、ということが大切なんだな、と思った。おそらくそれが、この分野の共通言語を身につけるプロセスということなのだろう。「論文の章立ては4つが常識だ」みたいなことを同級生から言われたのは少しイラっとしたが、そういうことも徐々にわかっていくのかもしれない。



 文系のテストが歴史や地理の用語を覚えるようなものであれば、正しい答えは存在する。しかし覚えることにどれだけ意味があるか、という問題もあり、高等教育ではそういうテストはほとんど存在しないだろう。調べればいいものであれば覚えていなくても良いという考え方もあるだろうが、実際は即興のコミュニケーションの中で理解できないと話についていけないなどで、ボディーブローのように効いてくる。そういう意味では、単語だけ覚えていても意味がない、というのが正解かもしれない。


 数学者が主人公の映画『奇蹟がくれた数式』でも、独学で複雑な公式を生み出したラマヌジャンが、大学の人たちが理解できるような証明を示すことができなくて認められない姿が描かれていた。やはり、自分の考えを周りに理解してもらって世界を変えていくには、そういう意味でのコミュニケーション能力が必要になるんだと思う。

 自分の考えを述べるものに正解不正解があるのか、というのは、正直まだよくわからない。それでも、自分の考えが相手にわかるように伝えるスキルが必要だ、という点は納得である。今の段階の成績は、今自分がやろうとしていることが間違った方向ではないということを示してくれている物なんだろう。

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