アベル
マヤとのやり取りの顛末を聞いて、アベルは笑った。
「──で、夫人を怒らせたのか。君らしいというかイーファらしいというか」
アベルは、この屋敷のスタッフ──あたしの製造とメンテナンスに携わる医師や科学者や技術者──のひとり。
「マヤは頭が固いのよ。嫌になっちゃう。年を取りたくはないものね」
「イーファ・レルヒはそれだけ『絶対』だったんだ。機械で再現しようという
あたしにとって、アベルは良い話し相手だった。マヤとのやり取りを愚痴って、大変だったね、って言ってもらえるのはストレス発散になる。
あたしが機械の身体で良かったと思うのは、彼と話している時もそうよ。間近で煙草を吸われても、喉を傷める心配をしなくて良いもの。あたしが生身のイーファだったら、ふざけないでよ、って煙草の火を彼の手の甲で消してるところだったわ。
「でも、貴方もイーファらしいって思うのね? それは、人工声帯を試したいってとこについて? じゃあ、貴方からも提案してくれないかしら」
マヤは、あたしの提案を頭ごなしに退けたのよ。機械仕掛けの
「モーリッツはお寝坊なんだもの。新しいアプローチも試してみたら良いんじゃないかしら?」
本当は、モーリッツがどうこうよりも、あたしが新しい歌を歌ってみたいだけなんだけど。本音は隠してあたしはアベルの顔を覗き込んだ。小首を傾げて、微笑んで。イーファが得意だった、魅力的で挑発的な、おねだりをするときの顔よ。とても、効果的な顔のはずなのに──アベルは苦笑して、首を振った。
「雇用主は夫人だからな……それに、ここのスタッフにもイーファの崇拝者は多いし」
つまり、冒涜的だって思うのはマヤだけじゃないだろう、ってことね。ここには頭が固い人ばっかり!
「崇拝者って……イーファと──それに、モーリッツの、ではなくて?」
あたしは、一応はマヤの言いつけを守って庭に出ている。あたしの身体は日焼けを気にしなくて良いのも便利ね。緑の木々に囲まれた
「あたしはイーファのことを理解してるわ。貴方たちが彼女の何もかもを詰め込んでくれたもの。イーファの過去だけじゃない、彼女が
「モーリッツ・ローゼンシュタイン氏を起こしてあげたい?」
「違うわ! もう、分かってる癖に!」
白々しい合の手を入れるアベルを、あたしは軽く
「
「答えは決まっているって顔だね。聞く必要はある?」
「ないわね、本当のところ。でも、マヤたちってばあたしの言葉を信じてくれないんだもの。状況を変えるには貴方の協力が必要よ」
歌って暮らせる今の生活は悪くないけど、正直言って、毎日毎日イーファが
モーリッツにはそろそろ起きてもらわなきゃ。イーファと感動の再会を果たしてもらうためじゃないわ、あたしが自由になるために。多分ね、モーリッツもマヤたちと同じくらい面倒臭い相手なんでしょうけど、
「状況……変える必要、ある? 君は何不自由なく暮らせて、歌のことだけ考えていられる。イーファの理想の生活なんじゃ?」
「そうかもね。あたし、イーファはだからモーリッツに近付いたんだと思うんだけど。ねえ、協力してくれる気はあるの、ないの?」
マヤたちはイーファとモーリッツのロマンスを崇拝している。我が儘で気まぐれな
イーファは誰にも手が届かない星、何よりも自由な鳥だったもの。その彼女に釣り合う愛とやらを、モーリッツが差し出すことができたというのは、美しい物語に見えるのでしょうね。決して侵しても疑ってもならないくらいの。
でも、あたしはそれほど盲目にならないわ。あたしが人間じゃないからじゃない、あたしにはイーファの考えが分かるから。マヤたちみたいに、イーファのあまりの眩しさに目が塞がれたりはしないから。
モーリッツにはお金も権力も人脈もあった。彼の機嫌を取っていれば、イーファは思い通りに歌っていられた。愛撫や微笑みや甘い言葉だけで色んな面倒が避けられるなら、それってとてもお安い買い物じゃないのかしら。
首を傾げるあたしを前に、アベルはたっぷりと時間をかけて煙草を灰にした。やっと口を開いた時も、あたしの問いにはっきり答えてはくれない。
「君の姉妹もその結論に達したらしいよ。僕がここに来る前の記録によると」
「
「そう。十人のこれまでの『イーファ』たち」
「ふうん。みんな、意外とちゃんと『イーファ』だったのね?」
あたしはあんまり驚かなかった。だって、簡単に分かるはずのことなんだもの。イーファはモーリッツほどには彼を愛していなかった。利用していただけなのよ。
「きっと、君と同じくらいね。人間の技術も馬鹿にしたもんじゃない。イーファ・レルヒの再現は、とっくの昔に成功していたんだろう」
「ご忠告ありがとう、といったところかしら?」
馬鹿じゃないのよ、って示すために、あたしはアベルの言外の言葉をわざわざ汲んであげた。あたしの前の「イーファ」たちは、別に出来が悪いから破棄されたじゃない。マヤたちにとっては、モーリッツを愛さないイーファも、機械の歌を歌いたがるイーファも、「失敗作」で「偽物」だったってことね。
「君が聞き入れるつもりはないようだけどね」
「当然!」
アベルはあたしに大人しくしてろ、って言っている。イーファが死んでしまった時の歌声のまま、変化も進歩もしないで留まっていろ、って。ふざけてる。何度も言わせないで欲しいのに。
「そう言うと思った」
でも、あたしはその言葉を繰り返す必要はなかった。今度は彼が、あたしの耳に口を寄せた。あたしにはそんなことする必要ないのに。本当の人間──本当のイーファみたいに扱ってくれたのだとしたら、嬉しい、かしら。
「スクラップ行きを免れたいなら、君は旧態依然の歌で我慢すべきだ。でも、もしもそうでないなら──」
そして囁かれたことを聞いて、あたしはガラス製の目を真ん丸く見開いた。
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