マヤ
今日もモーリッツは目覚めなかった。あたしが造られてからこれまでに観測してきた、四百六十八回の朝と同じく。
イーファ・レルヒの歌声で彼の脳を揺らせば、彼は目覚めるはずなのに。イーファがいない世界に絶望して眠った彼に、希望の星が昇ったことを告げなければならないのに。
彼の寝室、あるいは墓所を後にして、あたしは別室に移動した。モーリッツがどこかの国のどこかの森に用意したこの屋敷は、地図にも載っていないし衛星画像でも捉えられないようになっている。謎の空白地帯に踏み込もうとするジャーナリストやパパラッチもいるけれど、屋敷に辿り着く前に取り押さえられてしまうとか。本当かしら。
「
「そうね、残念。どうしてモーリッツが目覚めないのか不思議でならないわ」
でも、マヤがいるのに世界の誰も気づかないみたいだから、きっと本当なんでしょうね。マヤ・ローゼンシュタイン──モーリッツの妻。
公の場から突然姿を消したモーリッツはマヤに殺されたんだって、沢山の人が思ってる。動機は、莫大な遺産。そうじゃなかったら、イーファへの嫉妬。警察だってまだ諦めてないでしょうに、マヤは平然としているのだもの、何かしら上手くやっているんでしょう。
香り高い──はずの、あたしには分からないから──コーヒーには手をつけず、マヤは中空にグラフを表示させた。真っ
「データの上では完璧なはずなの。音程も声質も声量も、あなたの歌はイーファと並んでいるはず」
「知ってるわ」
あたしとマヤが向かい合わせに座っているところを傍から見たら、母と娘だと思われるでしょう。もしかすると、祖母と孫かも。
モーリッツとマヤが結婚したのは、イーファが死んだ後。モーリッツはイーファの面影がある女の子を探したそうよ。女の子──そう、結婚当初、マヤはモーリッツより十以上年下だったのに。さっさと眠ってしまったモーリッツの年齢を、彼女はとうに追い越している。お金と手間暇をかけたアンチエイジングも、三十年もの時間には敵わないのね。人間って可哀想。
「何が問題だと思う?」
「あたしの歌に問題はないわ。モーリッツの耳がおかしいんじゃない?」
あたしを睨んだマヤの目つきは、目の前の
冷めかけのコーヒーを口に運んだマヤは、あたしが
「彼は
「そう?」
「だから彼がイーファの声を聞き違えるはずはない。
「そんなことないと思うけど」
マヤの認識は矛盾している。あたしを造り物だと自分に言い聞かせようとしていながら、あたしとイーファを混同している。
死んでしまった後でも、たとえあたしがいなかったとしても、イーファはまだ生きている。彼女を忘れられない人たちの心の中に。彼女は、というか彼女の歌は、それだけ眩しく代えがたく輝いていたのね。
「だから、
マヤが何を言おうとしているか、予想できたわ。でも、あたしは思うの。思うっていうのは、あたしに組み込まれた回路がそう弾き出すってことなんだけど。とにかく、イーファだったらこう言うでしょうね、って。瞬きもしない間に結論を出せる。それは、彼女が遺した言葉でもあって、彼女のファンなら誰でも知ってるはずのことでもあるんだけど。
歌わなかったらあたしじゃないわ。
イーファはそう言ったのよ。胸を張って堂々と、いっそ高慢に。モーリッツとの結婚を取りざたされた時、ちょっとした病気を患った時、スポンサーと揉めた時。引退を恐れる聴衆に、彼女は託宣を下したの。心配無用、と──あるいは、どうしてそんな無駄なことを考えるのかしら、ってどこか馬鹿にした風に。
「ねえ、マヤ」
だから、イーファの再来であるところのあたしはイーファの言葉を繰り返す。彼女の笑みで、彼女の声で、唇で。
「歌わなかったらあたしじゃないわ」
マヤはイーファが嫌いなの。コーヒーで気分を落ち着けた甲斐もなく、眉間の皺をいっそう深めた。何を言おうとしていたのか、
「
質問の形を取ってはいるけれど、これは確認に過ぎないわ。マヤの答えを待つまでもなく、あたしには分かり切ったことだから。あたしはイーファと同じに造られた。
だから、歌わなかったらあたしじゃないの。
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