最終話・望春八景
「ねーちんなに緊張してん」
「いいいやべつにきっきんちょうとかしてねーしっ?!」
出かけようと靴を履こうとして、バッシュの紐結ぶのに手間取っていたら安久利に妙なことを言われた。
「あらあら、今日は砥峰さんの大学に見学に行くのでしょう?理津もなかなかかわいいところがあるものねえ」
つーか、かーさんにまでヘンな誤解されていた。いや、確かに大学見学ってのは、そこを待ち合わせにした口実だからしゃーないんだけど。
「…ふ、ねーちん、がんばれよー?」
「そうねえ。理津が進学に興味持ったというのも驚きだけど…おかーさんも頑張るから、家のことは気にしないでいいからね?」
なにか含むところのありそーな安久利と違い、かーさんは健気なことを言ってくれる。いやまあ、あーしのやりたいことを考えたら卒業して専門学校とかはありそーだけど、流石に阿野と同じ大学とか無理だってーの。なんかめちゃくちゃ金かかるガッコーらしいもん…そりゃ同じ学校に通う、なんてとこ想像したらニヤけてくるけどさ。
そんな考えが面に出ないよーに注意しながら、紐を結び終える。
「…おし。んじゃいってくる」
「あいよー、骨は拾ってやっからな、ねーちん」
縁起でもねーこと言うんじゃねーよ。そんなつもりはねーっての。
「あの、理津?砥峰さんの大学を見学しにいくんじゃなかったの?」
そーいう建前でいーよ、かーさん。
…てなことは言わず、安久利にからかわれてかえって落ち着きを取り戻したあーしは、いちおー満面の笑みで「いってきます」と告げただけで、家を出た。
今日は、三月十四日。
ひと月前に渡した、というかほとんど押しつけたバレンタインのチョコの返事を受け取る日だ。
手応えはどうなのか、ってーと…まあ、こうなったらもうまな板の上の鯉、ってヤツだ…鯉って調理したことねーんだけど、美味いんかな?今度阿野に聞いてみよ。
「にしても、歩いてるだけで眠くなるなー…ふわぁぁぁ………っと」
期末試験の勉強を見てもらってたころ、何度か寝落ちしそーになって阿野に小突かれたてたことを思いだし、阿野の指先が触れた額のトコがなんだか熱でももったようになる。うー、誰かを好きになる、ってのはこーいうことなんかなー、って思って、大学に向かう足取りもムダに軽やかになるんだ。
早く会いたい。阿野の顔を見たい。そんで、「わたしもあなたのことが好きですよ、理津」って答えを聞いて、今日からあーしと阿野は恋人同士になるんだ。
…いやま、そこまで能天気に考えてるわけじゃねーけど、きっといつも阿野が歩いているだろう道を歩き、そんで今阿野がいる建物が目に入ると、すれ違うひとがぎょっとなるほどアレな笑いがこみ上げてくるのだ。うふふふふ、ってな感じに。
…キモいな、あーし。
「…でけー」
初めて間近に見た大学は、学校ってーもんに対するあーしの見方を根本からぶちこわすモンだった。いうても外から見ただけなんだけど。
それでも、どんだけの人間がその中にいるのやら、って数のひとが春休みだってーのに頻繁に出入りするところを見ると、部外者のあーし一人が入ったって別に気にもとめられないんじゃねーか、って思える。
「そこのあなた?」
「へ?」
なんて立ち止まって考えてたら、誰かに呼び止められた。
ここであーしに声をかけるよーなのは阿野しかいない…いや、遊び人の大学生がナンパでもしてきたか?そーいや今日は暑いくらいの陽気だ、って話だったから、足が露出したカッコしてきてしまったしなー…あ、そーいやここ女子大だったっけ。で、誰?
「そんなところに立ってたら通行するひとの邪魔になりますよ。それとも当学にご用ですか?」
「あ…」
後ろのすぐ近くで聞こえた声に振り返ってみると、なんだか阿野と雰囲気が似てなくも無い女の人が立っていた。けど全然違うのは、阿野と違って落ち着いた物腰ってーのが、ほんとうに板についた感じだ、ってところだ。
阿野はなー、本人はおしとやかで上品なお嬢さま、ってつもりなんだろーけど、あーしや安久利からするとパニクりやすいわしれっとした顔で実はぐるぐるしてるわで、ヘタすりゃ安久利よりも子供っぽいとこあるもんな。
…まー、そーいうとこ含めて好きなんだけど。
「入構されるのでしたらそこの警備室で受付をしてください。どなたかと待ち合わせでしょうか?」
「へ?あ、あー…その、ここの学生の砥峰阿野サンに会いに来た…んスけど」
「砥峰さん?……ああ、そういうことね」
女の人は、なんだかすごく納得したー、みたいな笑顔になって、こちらへどうぞ、となんか手続きみたいなコトをするのを手伝ってくれた。
ウチのガッコの学生証のコピーとられたりしたのにはちょっと驚いたけど、テキトーに見えて大学ってのも厳しいもんなんかな。
「それじゃあ、構内にいるときはこの入構証を首から提げておいてください。それにしても待ち合わせの人も、こういう手続きがあることを教えてなかったんですか?」
「あー、まあそゆとこ割とぬけてるひとなんで。会ったら文句言っときます」
「ふふ、お手柔らかにね。では私はこれで…」
「あ」
「はい?」
ふと思いついたことがあって、去りかけてた女の人を呼び止める。
仕事中のひとに手間かけさせるのもなんかもーしわけなかったけど、ちょっと気になったのがだなー。
「…もしかしておねーさん、阿野…じゃねえや、砥峰さんの知り合い、ですか?」
「……ふふ、そうですね。少し前のあなたのような、いろいろ迷うところのあった高校生の女の子に、ちょっと余計なアドバイスをしたことはありましたけれど。でもその必要無かったかな、って今は思ってます。そんな関係ですね」
「………はあ」
意味がよく分かんねーことを言ってあーしを煙に巻くと、そのひとは「砥峰さんのこと、よろしくお願いしますね。桐戸さん」と最後に言って、仕事に戻っていったみたいだった。
「あ。そーいやあーしの名前教えたっけ…?」
手続きをしてる間は顔を逸らしてたから、あーしの名前なんか見てたりはしてないはずなんだけど。
「…まー、阿野から聞いたりしたんだろーな。にしても、誰にあーしのこと話したりしてんだか、あのウッカリ女はもー」
その顔を思い出してまたひとしきり顔を緩ませると、さっきよりはずいぶんと落ち着いて周囲を見られるようになったな、と思いながら、待ち合わせの場所に向かって歩き始めた。
「遅かったですね、理津」
「A棟だの3号館だの部外者にはわけわかんねー指示しといて言うことか」
「あ、あら?そうでした?」
大学の中、っちゅー物珍しい場所をきょろきょろしながら歩いてた自分を棚に上げて、待ちぼうけをくらってた阿野にあーしは文句を言った。
「ついでにだなー、中にはいんのに受付とか登録だとか、そーいうもんが要るなら先に言っとけって。近くに親切にしてくれたひとがいたからよかったよーなものの…あ、そーだ、阿野?」
「は、はい。なんです?」
少し強めの風が吹いたせいか、暴れる自分の髪でじたばたしてた阿野は、少しばかり剣呑になってしまってたあーしの声に少しひるんだように答える。
「このガッコのひとに、あーしのこと話したりした?」
「………………知りませんよ?」
おい。それはいくらなんでも無理があるだろーが。
…って言ってやろーと思ったのだけど、またもや吹いた風に長い髪があおられて顔を直撃し、きゃあきゃあ言ってる阿野を見ると…ま、いーか、って。
阿野に呼びだされたのは、大学もけっこー奥まで入ったところの五階建ての建物だった。
講義室?とかいうのがいっぱいあるビルで、その屋上に来い、ってことだったんだけど、校舎の屋上に誰でも入っていい、ってのはうちのガッコじゃ考えられなくって、大学と高校の違いってのを実感したもんだ。
けど、大学のひとには別に珍しいもんでもねーのか、春休みってことであんまひともいねーからなのか、他にひとがいるわけでもなく、あんま他人に聞かせられるわけでもねー話をするには、おあつらえむき、ってヤツなんだろう。
「……えーっと、何の話でしたっけ?」
風が止み、ぼさぼさになった髪をひっしにまとめながらあーしにニコニコとしてる。まー、どうでもいいっていうか、聞きたいならこれからいくらでも時間あるしなー、と、あーしは阿野に一歩近付いて、顔をのぞき込んだ。
「な、なんです?」
「ん。先月の返事聞かせてもらおー、って。そのために来たんだし」
「…そう、ですね」
…え、なに?
このじょーきょーでなんでそんなに暗い顔すんの、阿野?
ここはあれじゃない?なんかもー、あーしの一途な想いになんかいー感じになってもう二人でハッピーエンドになるって場面……だとおもーんだけど…。
あーしの不安を認めるみたく、阿野は思い詰めたような顔をあーしから背ける。
え、ちょ……まじ?
・・・・・
待ち合わせを大学にしたのは、自分の往く道を少しずつ見定め始めた理津に、こんな世界もあるんですよ、って見せてあげたかったから、でした。
もちろん、一緒に入構してわたしが案内しても良かったのですけれど、理津が自分で足を踏み入れ、歩き、一人で何かを感じることが大事だと思ったから、わたしはこうして屋上で理津を待っています。
「決心はついたんですか?」
「いえ、正直言って…理津の顔を見たら、また決心が揺らぐかもしれないです」
「自分の気持ちに率直でいることも、時には大切だと思うんですけれどね」
手すりに両手をかけて下を見下ろすわたしの背中に、葛葉さんの声がしました。いえ、しましたも何も、わたしがやろうって決めたことを聞いてください、ってお願いしたからなんですけれど。
「葛葉さん、やっぱりわたし、理津のこと受け止めた方がいいんでしょうか…?」
振り返って見た葛葉さんは、そんなわたしのブレブレな言葉に流石に呆れ顔でした。
「さあ。砥峰さんをそそのかした私が口を出していいこととも思えませんけれど」
そういう言い方は無いんじゃないでしょうか。もう数年にもなる葛葉さんとわたしの友誼の前に、言っても無駄な言葉なんかないと思うんです、わたしは。
「…でも、今の砥峰さんはとてもいい顔をしています。それだけは保証してもいいですよ」
「わたしがわたしを貫けたから、でしょうか?」
「ふふ、それは疑問ではなくて確認ですね。人との関わりの中で、今成長してゆけていると、あなたは思えているのでしょう?」
前触れ無く吹いた風に、わたしの髪も葛葉さんの髪も乱されました。
わたしなんかは学生の身分ですからそんなことも気になりませんけれど、葛葉さんはまだお仕事の途中ですから、気をつかって片手で顔の右側に手を当て、流れる髪を押さえています。
「…分からないです。理津って女の子が、わたしにとって何か大切なものになるっていう根拠のない予感からスタートしたわたしたちは、わたしの一方的で思い込みの激しい一方通行の関係から…理津がわたしを好き、っていう、わたしにとっては未知の関係になりました。それで思うところは数少なくなくて、けれどわたしが最初の最初からずっと続けて思っていたのは……桐戸理津っていう女の子を、たくさんの可能性の元に導いてあげたい、ってことです。葛葉さん」
「はい」
「……そのことと、姉とか妹とか、そんな関係に自分たちをはめ込むことは、イコールなんかじゃないと思うんです」
「そうですね」
「だから、わたしは……」
それからわたしが何を言おうとしたのか、葛葉さんは察したかのように人差し指を立てた手をわたしに突き出し、
「そこから先は、桐戸さんに直接伝えてあげてください」
と、出会った時から変わらない、柔らかい笑顔でそう言いました。
「……ですね」
そんな顔にあってはわたしも初対面の頃と同じように言葉も少なくなります。
そして葛葉さんはそれ以上は何も言わず、わたしをひとり置いて屋上を出て行きました。
「……はあ」
わたしは、少し強くなってきた風を避けようと階段室の影に身を移し、理津を待ちます。
待ち合わせの刻限には…まだ少し、間がありました。
…そして、待ち合わせの時間からだいぶ遅れてやってきた理津は、ひとしきりわたしに予想通りの文句を言って…いえ、まさか葛葉さんに会ったというのは予想外の事態でしたけれど、まあそれは後で釈明することにしましょう。
それにしても葛葉さんも実に間が悪いといいますか、機に敏いといいますか…まさか理津と顔を合わせてただなんて予想もしませんでしたよぅ。
うう…後でからかわれても要領よくかわす自身がありません……。
…ああいえ、そうじゃないです。それは後でたっぷり悩みましょう。
それよりも、今日はわたしと理津にとって、とても大切な日。わたしの想いと彼女の想いが重なりを見せ、そして未来にまで綴られていくことになるのかが決まる日なのですから。
わたしは大きく息を吸い、それからゆっくり吐いて心を鎮めます。
焦ることなどないです。理津は、この一月の間ずっと、わたしを待っていてくれたんですから。
その志にわたしは真摯に応えようと向き直り…うう、髪が風であおられてうっとーしいのですけど。
「……えーっと、何の話でしたっけ?」
なので、髪に気を取られてすっとぼけたことを言ってしまいました。
事ここに至って何の話もなんもないでしょうが、って…理津?
「な、なんです?」
「ん。先月の返事聞かせてもらおー、って。そのために来たんだし」
一歩、近付いて顔をのぞき込んでくる顔は、これまで見たことのない…ことも無いんですけれど、そこにあった覚悟にも似た気色は、今までわたしの気付かなかったことを突き付けるようでさえありました。
「…そう、ですね」
その意味を知り、わたしは苦衷を察せざるをえません。
「…理津?」
「……キコエナイ」
「はい?」
なのに理津は、しゃがみ込んで耳を塞いでいました。まるでこれからわたしが話そうとしている内容を聞きたくないとでも言わんばかりに。
「ちょっと、理津」
「聞こえないってばっ!」
「なんでそんな格好してるんですか。わたしまだ何も言ってないじゃ…」
「だってっ!!」
やおら立ち上がり、苦しそうに唇を噛みわたしを睨みます。
…どうして?
「阿野は、結局わたしのことを好きになんてなってくれなかったっ!わたしがどんなにいっしょうけんめいになっても無駄だったっ!そんなこと聞きたくない!!聞かなければわたしはずっと、阿野がわたしのことを好きになってくれる未来を思って生きていけるんだからっ!」
「理津、どうしたんです?わたしは今日、あなたに求められたことへの答えを伝えようって思って…」
「じゃあなんでそんなに暗い顔をしてんのっ?!」
「暗い顔って…」
あ。
もしかして、理津と接触した葛葉さんに何を言われるか考えてすこーし暗くなってたから…でしょうか?
「…理津、違いますよ」
「違うってなにが…?」
「別に理津に答えを求められて暗い顔をしてたんじゃありません。それは断じて違います」
「………」
泣きそうな顔。今までに見たことの無い。
理津は、わたしのことを好きだと言ってくれました。女の子なのに、同じ女であるわたしのことが好きだと、当人のわたしに伝えるまでに、気付かないことがあったり気付いても見えないフリをしないといけなかったり…わたしにはうかがい知れませんけれど、それを乗り越えるために葛藤だってもちろんあったのでしょう。
それらを全て呑み込んで、わたしに告白し、そして一度受け入れられなかったのに、今ここに、理津はいます。
それがどれだけ苦しみを伴うことだったのか。
もう、理津のことを自分のこととして思えるわたしには、その苦しみは等しく自分のことでもあるんです。
だから、理津の抱いていた苦しみを自分でも背負わないといけない。そう思うんです。
「…理津。一つ、残酷なことをきくようですけれど、いいですか?」
もう涙の溢れかけていた二つの眼が、わたしを射貫くように見ています。
正直、怯みます。こんな風に理津に見られることに、恐怖を覚えます。
そして、わたしが何を言おうとしてるのか、きっと分からなかったとは思いますが、理津は意を決したように深く短い息を一度つき、言いました。
「……わかった。なんでも言っていいよ。どんな答えだって聞かなければわたしは前にも後ろにも進めないんだから」
「ありがとうございます。では……理津」
「………うん」
「あなたは、今日再び、わたしがあなたの思いを受け入れられないと告げたら……わたしのことを諦めますか?」
「……っ?!…そ、それは……そんな、そんなこと聞くの卑怯だろっ?!」
「卑怯?どうしてです」
「だって、それで阿野の…答えが変わったりするんじゃ…」
「変わりませんよ。理津、わたしの答えはもう決まってます。心は…ここに、しかと固まっています」
右手を自分の胸に重ねて、告げました。
「だから、思うことを言ってください。わたしが、理津の心をききたい。ただ、それだけなんですから」
「阿野……やっぱずりーよ…」
そうかもしれませんね。
わたしはにっこりと笑んで、理津の言葉を待ちます。聞きたい。あなたの心を。わたしの全てに響く、あなたの心を。
「……あーしは…わたしは、諦めない。諦めたくない。本当に好きになったひとが、どんなつもりであってもわたしと一緒にいてくれるのなら、好きになって欲しい。恋ってこういうものだと教えてくれたひとに、わたしの恋を受け入れて欲しい」
「…はい」
「……やっぱり諦めたくないよ…阿野のこと、こんなに好きなんだって気付いて、それを受け入れて欲しいよ……だから、ぜったい諦めない。何度だって言ってやる。阿野のことが好き。大好き。愛してる。他のものは何も要らない…とまでは言わねーけど、それでも一番好きなのは阿野だからっ!!」
「はい。理津、あなたの心はここに届きました」
「え?」
わたしは、詰め寄るように歩を進めてきた理津から一歩身を引き背を向けます。
そうして、二歩。わたしの分と、理津の分。数えてから、振り返り、始めました。
わたしの、懺悔にも似た告白を。
「理津。わたしがあなたに初めて会ったとき、あなたの中にきっと良いものがあるって思って、そしてあなたは自分の中にあるものを見つけてくれた。そのことはわたしにとって大きな喜びです」
「………うん」
「わたしは前に言ったとおり、わたしが手を引いて高みに連れて行ける子を欲していました。だから、あなたにあなたのお姉様にならせてください、と言いました」
「………」
「…そして、わたしはあなたの導となり、あなたがいつかわたしを追い越してゆくことで、それはわたしにとって証しになると、そう思っていたんです。だから、あなたとわたしは、妹と姉以上の関係になってはいけない。わたしの手から離れて羽ばたいていかなければ、わたしの、何かを成し遂げたという証しにはならない」
「…っ」
微かな身動ぎに、表情の変化も見逃すまいとしてたわたしの視線は、唇を噛む理津を認めます。
ごめんなさい。苦しい思いをさせてしまいますね。
「……そう、思っていました。あなたに好きと言われたことは嬉しいんです。それは本当です。でも、姉妹を踏み越えてはいけない……のでしょうか?」
わたしの言葉を、苦しいでしょうに噛みしめるように聞き入れていた理津は、わたしのこんな疑問に戸惑ったように答えました。
「…それは…わたしに聞くことじゃないと思う。阿野の、こうだと決めた関係にとどまっていたくなかったから、わたしは踏み越えた。それだけのことなのに」
「…ええ。理津にではなく、それはわたしが自分で決めないといけないこと、ですよね。だから言います。理津、わたしは…やっぱりあなたと恋人同士になることは出来ない。そう思っています」
「………」
ショックはあったのでしょう。
けれど思っていたよりも…いえ、そう願っていた通り、理津はわたしを恨むような素振りも泣き出すようなこともなく、むしろ不敵にわたしを睨み、自身の心に従う日々を続けてゆく覚悟を決めたように見えます。
明日から…今からでも、届かないと見えたものに手を伸ばしつつけよう、いつか届く日まで、と。
ですけどね、理津。
わたしはこうも思うんです。
関係を言葉で縛り、そう在り続けるのがわたしの本当の願いなのか、って。
わたしはあなたの姉で在ることを望み、あなたにはわたしの妹であることを望んだ。
それはわたしの本当の願ったことだったのかな、って。
「でも…、わたしが理津にお料理を教えて、それで理津がその道もあるのかもしれない、って思えたことに、姉とか妹とかに拘る理由もないんじゃないんじゃないでしょうか。あなたが自分の道を見つけた切っ掛けと、わたしを慕ってくれた理由が同じところにあったのだとしたら…わたしにはそれを分かつ理由は無いんです」
「……えーと、つまり?」
…肝心なときに意外と察しの悪い理津です。安久利ちゃんが言ってた「ねーちんはにぶちん」という言葉の意味を痛感します。
つまり、ですね。
「ええとつまり、ですね。理津と一緒にわたしが自らを高めていくのに、別に姉妹関係だけでいる必要は無くって…その、ですね…別に、恋人関係であっても……いいんじゃ、ないでしょう、かー………」
うう、ここまで言わされるってどんなシチュエーションですかっ。
これわたしも理津が好き、って言ってるも同然じゃないですかコレっ?!
事ここに至り、とーとー理津の顔を見ていられなくなったわたしは、顔を背けてしまいましたけれど…その隙をついたかのよーな理津は。
「えい」
「きゃぁっ?!…あ、あのちょっと理津…?なっ、なにするんですかぁっ?!」
なんだかもう、こうしたくてたまらない、って感じにわたしを抱きすくめていました。
そしてそれだけならまだしも…わ、わたっ、わたしの髪に顔を埋めてくんかくんかしてますケドっ?!
「理津っ?いえその、こうしてぎゅってされるのは悪い気分じゃないんですけど…あの、お願いですから鼻鳴らして匂いかぐのはやめてもらえませんっ?!」
「やだ。阿野がかわいすぎて我慢できない」
「え、えええぇぇぇぇぇ……」
・・・・・
えええ、の終わりの頃にはもう泣き出しそうだった。うん、やっぱりわたしの好きなひとは、とてもかわいい。
「…もう、誰か来たらとんでもないことになりますからね……?」
それでも、そうしていたら阿野の方から、わたしの背中に手を回し、負けないくらいつよくぎゅっと、抱きしめてくれた。
考えてみたら、こーしてくっつくのは初めてだよなー、ってどちらかといえば痩せな、これ以上力をこめたら折れてしまいそうな阿野の体の感触をたっぷり楽しんで、それからわたしの方から体を離す。
「………むー」
阿野はなんだか不満そうに口をとがらせていた。そこがまた、わたしのナニカやばいものに触れる。
「えと、さ」
でも、今は我慢のとき。
わたしは阿野に、約束しておかないといけないことを話す。
「えと、さ。わたしは阿野のこと諦めなくてもいいんだよね?もちろん諦めるつもりなんかこれっぽっちもないんだけれど、でも遠くないうちに報われる、って思ってもいいんだよね?」
阿野は、こくん、とわたしから目を逸らさずに頷いた。
「で、これからも安久利のカテキョと、わたしの料理の勉強、どっちもみてくれるんだよね?」
はいもちろん、と今度ははっきり聞こえる声で言ってくれた。
「わたしが見つけた…ほんっとうにちっちゃなものだけど、それが大っきくなっていくように、一緒にいてくれるんだよね?」
当たり前です、とハッキリ言い切った。
いいな、阿野のこーいうところ、って思う。
ぽやぽやしてるくせに結構、ガンコ。
だから、自分の中で答えを見つけたらもう迷わない。
一緒にいよう、って決めたなら、わたしから手放さない限り、約束を破らない。
そんな阿野が、わたしのことを見てくれた。中にあるものを引き出してくれた。
それだけでわたしは、何者にでも、自分がやりたいことはなんでも出来るようになる、って思えるんだ。
…じゃあ、最後に、と、かすかに緊張しながらたずねる。
「阿野は、わたしと恋人同士になってくれるんだよね?」
「…そうですね。今すぐに、とは言いませんけれど、いつかきっと、ね?」
阿野はそう言って、少しいたずらっぽく笑った。まるで、もうわかってるくせに、と言っているみたいだった。
でもきっと、今はそれでいいんだと思う。
きっと訪れる未来がそこに見えるから、わたしはいくらでもがんばれる。
わたしがなりたいもの。わたしがなれるもの。
見つけることが出来たものの意味を、目の前のひとと一緒に探してゆける。
三月十四日の日差しは、とても柔らかくて心地よいものだった。
こんなにも春は優しいものなんだって、またひとつ知ることが増えた日になったと思う。
大学の校舎の屋上で、阿野と恋人一歩手前になったんだよね、って言ったら阿野が照れて挙動不審になっていた。……ほんとーに、あーしのもーすぐ彼女になるひとはかわいい。それとももっと強引に、「もううちらは恋人だよね!」とか言ってたらどんな顔をしたんだろう。真っ赤な顔をしてぽかぽか叩いてきたかもしれない。
…そんな姿はぜひ見てみたいので、今度言ってみよう。そうしよう。
「そういえば、なんですけど」
「うん?」
「前も一度聞いたんですが、教えてもらえなかったので今教えてください」
「いーけど。何を?」
手を繋ぎこそしなかったけど、今日以前よりも確実に心の距離は近付いたと思いながら、帰り道を歩いてる。
で、阿野は会話が途切れた時に、思い出したよーにそんなことを言い出した。
「理津って、自分のこと『あーし』って巻き舌っぽく言ったり、『わたし』ってとても可愛く言ったりしますよね。どっちが本当のところなんです?」
……また答えづらいことを聞いてくるなー。
そりゃまー、一時は意識して「わたし」って言ってたこともあるけど、特別気にしてるわけでもねーし…。
…じゃあ。
「…阿野はどっちがいい?」
「それも前聞いたことがあるような…でも、どちらでもいいですよ。きっとそれは両方とも理津の中にあるものでしょうから、ね」
「じゃあ聞くこともないじゃん」
あーしは、阿野を置いて一歩大きく踏み出すと、ちょうど自分の顔が阿野から見えないような格好になる。
割とどーでもいいことだと思ったのは本当だし、阿野の言う通り、どっちも自分の中にある自分を象ったものだろうから。
けれど、あーしと阿野の関係は、その時々で形を変えていくのかもしれないけれど、一つ時には一つのものでありたい、って思う。
姉と呼べ、から始まった関係は、今こうして名前を呼び合う形になった。
でも、その奥底にあるものは初めての時からきっと変わらない。
わたしは変わる。阿野も変わる。
二人の繋がりが形を変えようとも、きっとそこだけは変わらない。
一つだけ言えるとしたらそれは、もう後戻りはしないししたくもない、って思うんだ。
だから、さ。
「…理津。ひとつだけわたしのお願いを聞いてもらえません?」
「ん、なに?」
「わたしやっぱり、長年の願いですからかなえて欲しいな、って思うんですよ。ですから…」
一歩先を歩いてたあーしの隣に追いつき、阿野は澄まし顔で言う。
「わたしのことを、『お姉さま』って呼んでみてくれませんか?」
「それは無理。ないわー」
「もう…そこだけは譲ってくれないんですね。でもどうして?やっぱりキモいですか?」
「うん、キモい。だってさ」
この春の日差しのように暖かく、力づよくあれと願いを込めた笑顔を向けて、言った。
「恋人になってからお姉さまと呼ぶなんて、ありえねーじゃん」
そっと繋いできた手のぬくもり。阿野の答えは、その中に、ある。
お姉さまとお呼びください←キモい無理 河藤十無 @Katoh_Tohmu
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